王太子アルベルトの悲哀
ローザリンデがマリエッタのアパルトマンで、クラリッサ対策を練っていた夕刻のことだ。
「ローザリンデ様、お客様です」
マリエッタの声に、妙な緊張が混じっている。
「誰?」
「……騎士が八人ほど」
「は?」
「その中心に、王太子殿下が」
ローザリンデは手にしていたペンを置いた。置いて、深く、長く、息を吐いた。
「…………なぜ」
「お会いになりますか?」
「選択肢があるように聞かないでちょうだい。騎士八人連れの王太子を追い返せるわけがないでしょう」
マリエッタのアパルトマンは狭い。
その狭い部屋に、王太子は騎士二人を伴って入ってきた。残りの六人は外で待機しているらしい。近所迷惑この上ない。
「久しいな、ローザリンデ」
王太子アルベルト。
金髪碧眼、眉目秀麗、王族の血統を絵に描いたような美丈夫というのが世間の評価である。ローザリンデの個人的な評価は「自意識過剰の朴念仁」だが、面と向かって言ったことはない。言ったら追放では済まなかっただろう。
「殿下。お久しぶりですわね」
社交辞令を返しながらローザリンデは椅子を勧め、マリエッタが慌ててハーブティーを用意する。王太子に出すものとしてはいささか格落ちだが、まあ仕方ない。
「単刀直入に言おう」
アルベルトは椅子に腰掛け、組んだ足の上で指を絡ませた。王族特有の、もったいぶった仕草。
「お前が王都に戻ったと聞いて、心配して来た」
「……心配?」
「わかっている。わかっているとも」
アルベルトは深く頷いた。目を閉じて、重々しく。
「お前はまだ、僕を諦めきれていないのだろう」
沈黙が落ちた。
ローザリンデの背後で、マリエッタがお茶をこぼす音がした。
「……は?」
「気持ちはわかる」
アルベルトは続ける。
目を閉じたまま。閉じたまま喋っているので、ローザリンデの表情が見えていない。見えていたら続けられなかったはずだ。
「半年の月日を経て、なお消えぬ想い。それは、ある意味では美しいことだ。だが」
「ちょっと待ちなさい」
「……だが、僕には王太子としての責務がある。お前との婚約を破棄した判断は正しかったと、今でも確信している。だから」
「待ちなさいと言っているのよ」
「だから辛いだろうが、前を向いて……」
「アルベルト」
名前を呼ばれて、ようやく王太子は目を開けた。
そして、ローザリンデの顔を見た。
鬼、とまではいかない。だが穏やかでないことは確かだった。
「あなたの話を三行でまとめると、『元婚約者が王都に戻ってきたのは自分を諦められないからだろう、でも自分は応えられない、諦めろ』——こういうことかしら?」
「そうだ」
アルベルトは頷いた。
「正確にまとめてくれてありがとう」
「こちらも単刀直入に言うわ。あなたに用はありません」
「え?」
「一ミリもないわ」
アルベルトの碧眼が、みるみるうちに困惑の色に染まった。台本にない展開に直面した役者のような顔だった。
「いや、しかし、お前が王都に戻ったということは」
「クラリッサ・デ・ルナフォールを知っているでしょう」
「クラリッサ? ああ、最近社交界で問題を起こしている侯爵令嬢か。あれには僕も手を焼いて」
「あの女の情報を教えなさい」
「…………は?」
「弱点、癖、苦手なもの、なんでもいいわ。あなた、王太子なんだから社交界の情報くらい握っているでしょう。役に立ちなさい」
アルベルトは口を半開きにしたまま固まった。
ローザリンデは構わず続ける。
「クラリッサの高笑いは何秒持続するの? 最長記録は? 音域は? 得意な嫌味のパターンは直接攻撃型? それとも時限式? ドレスの好みは寒色系? 暖色系? あの縦ロールの維持に何時間かけているか知っている? あと紅茶をかけるとき、利き手はどちら?」
「なんの話だ!?」
「悪役令嬢の話よ。あなたの話なんかしていないわ」
アルベルトの表情が、困惑から衝撃に変わり、衝撃から動揺に変わり、最終的に傷ついた顔になった。
元婚約者が自分に全く興味がないという事実は、王太子としてのプライドにそれなりの打撃を与えたらしい。
「……僕は、一応心配して来たんだぞ?」
「ありがとう。それで、クラリッサの情報は?」
「お前……本当に僕には用がないのか?」
「二度言わせないでちょうだい。三度目はないわよ」
「…………」
アルベルトは立ち上がった。王族としての威厳を保とうとしているが、肩が若干落ちていた。騎士たちも目のやり場に困っている。
「……クラリッサの情報なら、そこのミヒャエルに聞け。一番詳しい」
「あら、ありがとう。役に立つじゃない」
「……本当にお前は昔から」
アルベルトは何か言いかけて、やめた。やめて、マリエッタが差し出したハーブティーをひと口飲み「美味いな、これ」と小さく言って、騎士を引き連れて出ていった。
扉が閉まった後、マリエッタがぼそりと呟いた。
「……殿下、ちょっと可哀想でしたね」
「何が?」
「……いえ、何でもありません」
ローザリンデは既にマリエッタの言葉を聞いていなかった。手元の紙に、クラリッサの分析を書き連ねている。
高笑い:脅威度A。精度と音圧を兼ね備えた上位互換型。対策要。
嫌味:脅威度A。先制攻撃型。開口一番で急所を突く。防御は困難。
縦ロール:脅威度S。あの完成度に正面から対抗するのは無謀。別軸で勝負する必要あり。
弱点:不明。要調査。
「…………」
マリエッタは、机に向かう元主人の背中を眺めた。
薬草の研究をしているときと、まったく同じ目の色だった。いや、それ以上かもしれない。ローザリンデ・フォン・シュヴァルツェンベルクの目に、半年ぶりの火が灯っている。
まったく誰も得をしない戦いが、幕を開けようとしていた。
元悪役令嬢と、現悪役令嬢。どちらも、もうヒロインを虐めることには興味がない。
ローザリンデはとっくに追放されているし、今さらヒロインにちょっかいを出したところで何の得もない。クラリッサにしても、ローザリンデの勘だが、あの女が悪役令嬢を演じているのには、ヒロインとは無関係の理由があるように見える。
ならばこの勝負は何のためか。意義は。大義は。目的は。
ない。
あるのはただ、「悪役令嬢」という肩書への、不合理で、非生産的で、はた迷惑な誇りだけだ。
それでいい、とローザリンデは思った。
誇りのためだけに戦うなんて、いかにも悪役令嬢らしいではないか。




