王太子アルベルトの後悔
王太子アルベルトは、執務室の窓辺に立って遠い目をしていた。
ため息の頻度が、ここ数週間で確実に増えている。侍従長ブルクハルトの観測によれば、昨日は五回。今日は午前中だけですでに四回。間違いなく過去最高記録を更新するペースである。
「ブルクハルト」
「はい、殿下」
「今日の報告を」
「ルナフォール侯爵邸茶会におきまして、ローザリンデ様とクラリッサ様は相変わらず親密にお過ごしでした。加えて、ハイリゲンベルク嬢が三メートルの壁を突破し、お二人との対話に成功したとのことです」
「……リゼットが?」
「はい。三人でお茶を飲んで、笑い合っていたそうです」
アルベルトは窓枠に手を置いた。
窓の外には王都の街並みが広がっている。午後の日差しが屋根の上を流れて、どこかの教会の鐘が時を告げた。穏やかだ。穏やかで、自分とは何の関係もない光景だ。
「……僕の元婚約者と、僕が好意を寄せている相手が、僕抜きで仲良くなっている」
「端的に申し上げれば」
「僕の立場は」
「空気でございます」
「もう少しオブラートに包んでくれ」
「……大気のような、普遍的で不可欠なご存在でございます」
「同じことを詩的に言い直しただけだろう」
沈黙。
ブルクハルトは長年の経験から、この種の沈黙には介入しない方が良いことを知っていた。王太子が遠い目をしているときは、たいてい取り返しのつかない何かを思い出している。放っておくのが最善だった。
アルベルトは——昔を思い出していた。
◇
ローザリンデ・フォン・シュヴァルツェンベルクと初めて会ったのは、十二歳のときだ。
王宮の庭園で催された春の園遊会。貴族の子女が一堂に集まる社交の場で、アルベルトは退屈していた。誰と話しても「殿下」と持ち上げられ、誰もが自分の顔色を窺う。
誰も彼も切り取られたような笑顔を貼り付け、本音を言わない。十二歳の少年にとって、それはただの息苦しさだった。
庭園の隅で、一人の少女がしゃがみ込んでいるのが見えた。黒い髪の、少し痩せた少女。ドレスの裾が土で汚れるのも構わず、花壇の奥を覗き込んでいた。
「何をしているの?」
声をかけたのは、暇だったからだ。他に理由はない。
少女がゆっくりと顔を上げた。吸い込まれるような、大きな黒い目。園遊会の喧騒を気にする様子もなく、ただ純粋に花壇に没頭していた。
「カモミールが咲いているの」
「カモミール?」
「この花。……ほら、小さいでしょう? でもね、薬になるのよ。お茶にすると、眠れない夜に効くの」
相手が王太子だと気づいていないのだろうか? いや、気づいている。彼女の視線は、アルベルトの胸元にある王家の紋章を正しく捉えていた。その上で、花の話を続けているのだ。
王太子だからといって自分の態度や興味を変えるという発想が、この少女の頭にはないらしかった。
「君、名前は」
「ローザリンデ・フォン・シュヴァルツェンベルク」
「ああ、公爵家の」
「ええ。あなたはアルベルト殿下でしょう。知っているわよ」
「知っているなら、なぜ普通に話しかけるんだ? みんな僕の前では緊張するのに」
「花の話をするのに、緊張する理由がないもの」
それが、最初だった。アルベルトの記憶に刻まれた、彼女の原風景。
婚約が決まったのはその二年後、互いに十四のとき。政略結婚だった。シュヴァルツェンベルク公爵家と王家の結びつきを強化するための、大人たちの決定。アルベルトに拒否権はなかったし、ローザリンデにもなかっただろう。
だが嫌ではなかった。
むしろ、少しだけ嬉しかった。花壇の前でカモミールの話をしてくれた少女が、自分の隣に来る。それは、十四歳の少年にとって悪くない未来に思えた。
婚約の挨拶の日、ローザリンデは完璧なお辞儀をして「よろしくお願いいたします、殿下」と言った。感情のない、無機質なよそゆきの声。園遊会のときの、花に話しかけるような声ではなかった。
当然だ。ここは公の場であり、彼女は公爵令嬢として王太子の婚約者として、隙のない振る舞いをしなければならない。
……でも、少しだけ寂しかった。
婚約してからのローザリンデは、変わっていった。少しずつ、だが確実に。
社交界に出るようになって、令嬢としての立ち居振る舞いを身につけて、笑い方が変わった。作られた笑顔。計算された所作。花壇の前でしゃがみ込んでいた少女の面影が、月を追うごとに薄れていった。
アルベルトはそれを、寂しいと思っていた。思っていたが、決して口には出さなかった。王太子の婚約者として社交界に立つ以上、変わらなければならないのは当然のことだ。それを咎める権利は自分にはない。
ただ、時折——二人きりのときに、ローザリンデがふと見せる表情があった。
窓の外をひっそりと見つめ、何かを考えている。園遊会のカモミールの前にいたときと同じ、飾らない微笑み。その瞬間だけは、まだ、あの少女がいた。
何を考えているの、と訊けばよかった。
あの目の奥に何があるのか、踏み込めばよかった。
訊かなかった。踏み込まなかった。
王太子の婚約者としてうまくやっているなら、それでいいと思ってしまった。表面が整っているなら、その裏側を覗く必要はないと。
それが——アルベルトの最大の過ちだった。
◆
シュヴァルツェンベルク公爵家の不正が発覚したのは、婚約から四年後のことだ。
国庫からの公金横領。長年にわたる巧妙な私的流用と、違法な関税操作。証拠は王室の調査官が揃え、公爵に弁明の余地はなかった。
アルベルトがその報告を受けたのは、夜の執務室だった。父王からの書簡。極めて簡潔で、冷徹で、感情のない文面。
『シュヴァルツェンベルク公爵家は処分の対象となる。婚約については、お前の判断に委ねる。』
——お前の判断に委ねる。
王太子である自分にこの判断を委ねた父王を、アルベルトは恨んでいない。王とはそういうものだ。判断を下すことが王の仕事であり、それを次代に学ばせることもまた、王の仕事なのだと——後になって理解した。
だが、あのときは。
十八歳のアルベルトには、重すぎた。
婚約を維持するという選択肢は、理論上は存在した。公爵家の罪と令嬢個人の罪は別だと主張することもできた。
だが現実には、没落する家門の娘を王太子妃に据えることを、宮廷が許すはずがなかった。重臣たちは露骨に顔を曇らせ、社交界は噂で溢れ、「王太子は横領犯の娘と結婚するのか」という視線が、十八歳の少年を四方から突き刺した。
それでも、すぐには決められなかった。切り捨てる決断ができなかった。
ある夜、二人だけで庭園を歩いた。婚約者として、最後になるかもしれない散歩。雲ひとつない夜空に、青白い月が出ていた。白い光が石畳を照らし、二人の影を長く伸ばしている。
ローザリンデは何も言わなかった。
公爵家の不正について。婚約の行方について。自分の将来について。何一つ、口にしなかった。
ただ空を見上げて、「綺麗な月ね」と言った。
どこか遠くを見ていて、何かを諦めたような。それでいて穏やかな目。その横顔は、園遊会のカモミールの前にいた少女によく似ていた。
彼女は、知っているのだ。
公爵家がどうなるか。婚約がどうなるか。自分がどこへ行くことになるのか。全部わかった上で、何も言わない。言わないことで、こちらに負い目を感じさせまいとしている。
結局、何も言えないまま散歩は終わった。
「おやすみなさい、殿下」というよそゆきの声を最後に、その夜の会話は終わった。
◇
それから程なくして、ローザリンデがリゼットを虐めているという報告が、次々とアルベルトの耳に届き始めた。
「殿下。シュヴァルツェンベルク嬢の件、これ以上の放置はできません」
「……わかっている」
「ハイリゲンベルク嬢への嫌がらせは複数の目撃がございます。事実であれば……」
「事実だろう」
アルベルトは報告書を机に置いた。
分かっていた。ローザリンデが変わったことは、とうに気づいていた。
社交界での振る舞いが、意図的に尖り始めたこと。令嬢たちの間で「悪役」として恐れられるようになったこと。——彼女の目から、園遊会の頃の穏やかさが消えて、代わりに何か冷たいものが宿ったこと。
なぜ変わったのか。何が彼女をそうさせたのか。
訊けなかった。
あの夜の散歩で、訊けなかったのと同じだ。
表面を見て、裏側を覗かなかった。嫌がらせの報告を受けて、「なぜ」を考えなかった。考える代わりに、処理した。王太子としての義務を果たすという名目で。
そして断罪の日。
王宮の大広間。数百の貴族が居並ぶ中、アルベルトは朗々と宣言した。
「ローザリンデ! 貴様の悪行、もはや看過できぬ!」
高潔な王太子のつもりだった。
悪事を裁く公正な存在。そういう物語を、自分は演じているのだと、本気で思っていた。
だがあの瞬間。断罪の言葉を放ったあの瞬間。ローザリンデの顔に浮かんだ表情を、アルベルトは忘れられない。
怒りでも、悲しみでも、恨みでもなかった。
安堵。
ほっとした顔。肩の力が抜けて、ああ、終わった。そう言っているような顔。
あの表情の意味を、アルベルトは理解できなかった。半年が経った今も、完全には理解できていない。ただ——あの安堵の顔が、時折、夢に出る。
◆
「殿下」
ブルクハルトの声で、アルベルトは現在に戻った。
窓の外は午後の王都。あの夜の月光ではなく、平凡な日差しが屋根の上を流れている。
アルベルトは窓辺を離れ、執務机に戻った。書類が積まれている。財政改革の草案、外交書簡、領地問題の報告書。王太子としての日常。これを一つ一つ片付けることが、今の自分の仕事だ。
「……ブルクハルト」
「はい」
「……ローザリンデが、リゼットと仲良くなったのだな」
「左様です」
「何かがあったのだろう。僕の知らないところで。僕に見えなかったところで」
ブルクハルトは黙った。
この種の沈黙には同意が含まれていることを、長年の付き合いでアルベルトは知っている。
「僕はあの日、ローザリンデを断罪した。正義だと信じて。正しいことだと信じて」
「…………」
「だが、なぜ彼女がああまでして悪役を演じたのか、僕は一度も訊かなかった。公爵家が没落して、両親が離婚して、彼女がどんな気持ちで……一人であの重圧に耐えていたのか……」
喉が詰まり、言葉が途切れた。
「……訊かなかったんだ。あの夜の散歩で訊けなかったのと同じように。表面だけ見て、裏側を見なかった」
「殿下」
「何だ」
「……今、それを悔やんでいらっしゃるということは、殿下はあの頃より成長なさっています」
アルベルトは俯いた。
「慰めにもならないな。……ブルクハルト、僕は彼女に会いに行くべきだろうか?」
「何のためにですか」
「謝るために決まっている」
「何を謝るのですか」
「真実を見なかったことを。理由を訊かなかったことを。——正義の名のもとに、一番大事なことから目を逸らし、彼女一人を犠牲にしたことを」
ブルクハルトは即答出来なかった。侍従長キャリアの中でも、この問いに対する正解は持ち合わせていない。
長い、長い沈黙の後、ブルクハルトは一際静かな声でこう言った。
「……殿下、お言葉ですが。今、殿下がローザリンデ様のもとへ行かれたら、おそらくこう言われるでしょう。『今更あなたに用はありません』と」
アルベルトは、息を吐いて笑った。
反論の余地がなく、笑うしかなかった。
「……そうだな。そうかもしれない」
「ローザリンデ様は、もう前を向いていらっしゃいます。辺境で薬草を育て、クラリッサ様と手を組み、リゼット嬢とも向き合われた。殿下からの謝罪を必要としない場所まで、あの方はご自分の足で……ご自分の力で歩いてこられたのです」
「…………」
「殿下が悔やんでいらっしゃることは、殿下ご自身の中で決着をつけるべきことであって、ローザリンデ様に背負わせるべきものではないかと存じます」
ぐうの音も出ない正論だった。
いつもの通りの、手加減のない鋭い指摘。
だがその正論の奥には、四十年の時間をかけて王家を支え続けてきた、忠臣の誠実さがあった。
「……つまり、僕は自分で自分を裁かなければならないと」
「裁く、というのとは少し違うかもしれません。……後悔を抱えて、進む。それが王の器というものではないでしょうか」
「重いな」
「王冠とはそういうものでございます」
アルベルトは書類に目を落とした。財政改革の草案。数字と条文の羅列。これを一つ一つ片付けることが、今の自分にできる最善だ。
「あの日……断罪の日。ローザリンデが、ほっとした顔をしたのを覚えているか?」
「……覚えております」
「あれはどういう意味だったのだろう」
ブルクハルトは少し考えてから、慎重に答えた。
「おそらく、ですが。あの方にとって、断罪は罰ではなかったのでしょう。終わりだったのです。何かから解放される、待ち望んだ日だった」
「何からだ」
「それは、私のような部外者には分かりかねます。あの方ご自身に訊くほかないでしょう。もっとも、訊いたところで教えてくださるかは」
「わからないな」
「ええ。人の心など、そう簡単にわかるものではありません」
二人は黙った。
執務室の窓から、午後の光が差し込んでいる。書類の上に影が伸びて、ゆっくりと動いていく。時間が過ぎている。世界は動いている。自分が立ち止まっていても。
「僕は、良い王になれるだろうか。大事なことから目を逸らした人間が、この国を預かる資格があるだろうか」
ブルクハルトは即答した。
それは主君の問いの重さに対する、彼なりの最大限の敬意だった
「殿下。一つ、老臣の勝手な所見をお許しいただけますか」
「何だ」
「ローザリンデ様は……殿下を、決して恨んではいらっしゃいません」
「分かっている。先日会ったとき、眼中にすらなかったからな」
「恨んでいないのは、眼中にないからではありません。あの方が辺境で立ち直り、クラリッサ様と手を組み、今こうして王都で笑っておいでなのは……追放という出来事を、ご自分の力で乗り越えた結果です。そしてその出発点には、殿下の断罪がございました」
「……それは結果論だ。僕の罪が軽くなるわけじゃない」
「ええ、完全な結果論です。ですが結果として、あの方は前に進んだ。殿下の決断がなければ、あの辺境での自由な暮らしも、薬草園も、領民との絆も、クラリッサ様たちとの出会いも……何一つ生まれなかったのです」
「だからといって、僕の判断が正しかったことにはならない」
「なりません。ですが正しくなかった判断が、正しい結果を生むことはある。それもまた、政の現実です」
「…………」
「殿下は良い王になれます。大事なことから目を逸らした愚かさを悔やめる人間は、次は決して目を逸らしません。それが成長というものです。昔の殿下にはできなかったことが、今の殿下にはできます」
ブルクハルトの声は、いつも通り抑揚がなく淡々としていた。だが王宮で生きてきた長い歳月が、言葉に圧倒的な厚みを与えていた。
アルベルトは憑き物が落ちたように、笑った。
寂しさと、未練と、そして少しの清々しさが混じった笑いだった。
「……お前がいなければ、僕はとっくにこの重圧に潰されていただろうな」
「潰れませんよ。殿下はご自身が思っていらっしゃるより、ずっとお強い方です。……園遊会でカモミールの話をする少女を好ましいと思えた少年は、人の本質を見る目を持っていました。その目をもう一度、信じてみてはいかがですか」
アルベルトは黙って、窓の外を見た
園遊会。カモミール。花壇の前でしゃがみ込んでいた令嬢。王太子だと知っていて、花の話を続けた少女。
あの子は。あの日の、あの子のままなのだろうか。
辺境で薬草を育てて、カモミールティーを淹れて、領民と笑っている今のローザリンデは。園遊会で花に話しかけていた、あの飾らない少女と同じなのだろうか。
たぶん、そうだ。
彼女はずっとあの子のままで、自分がそれを見失っていただけだ。
「……書類を片付けよう」
「はい」
「財政改革の草案から手をつける。過去をやり直すことはできないが、この国を少しでも良くすることが、今の僕にできる唯一の最善だ」
「仰るとおりです。殿下」
アルベルトは執務机に向かい、意を決してペンを取った。
先端をインク壺に深く浸し、未決書類の余白に走らせる。財政改革の修正案。無駄な支出の数字を一つ直し、新たな条文を一つ加え、注釈を書き込んでいく。地味で、果てしなく、誰にも拍手されない仕事だ。
この仕事が国民の暮らしを少しだけ良くする。
そう信じて、ただ前を見てペンを動かす。
窓の外で、陽が傾き始めていた。執務室に差し込む光が橙色に変わっていく。
「……ありがとう、ブルクハルト」
「恐れ入ります」
「お前は、僕にとっての悪役令嬢かもしれないな。耳の痛いことを言ってくれるという意味で」
「初老の侍従長ですが、悪役令嬢と呼ばれるのは——四十年のキャリアで初めてでございます」
「光栄に思え」
「……謹んで、辞退いたします」
ペンが走る音だけが、執務室に響いていた。
本日16:00完結です。




