リゼット・フォン・ハイリゲンベルクは、ヒロインである
社交界が悪役令嬢コンビに沸いている頃。蚊帳の外に置かれていた者たちにも、小さな変化が訪れていた。
——リゼット・フォン・ハイリゲンベルクは、ここ数日ずっと考え込んでいた。
「ニナ。私、決めたわ」
「何をですか」
「話しかけに行く。ローザリンデ様とクラリッサ様に」
侍女としての長年の勘が「止めた方がいい」と告げていたが、リゼットの目がいつになく真剣だったので、ニナは言葉を飲み込んだ。
「……どうして急に?」
「急じゃないわ。ずっと考えていたの。……私、このまま蚊帳の外でいいのかなって」
「蚊帳の外にいた方が安全だと思いますが」
「安全だけど、寂しいの」
ニナは反論できなかった。
「お二人とも、すごく楽しそうなの。嫌味を言い合ってるときも、高笑いで競ってるときも。なんだか、すごく生き生きしていて。私——あの輪の中に入りたい。入れなくても、せめて近くにいたい」
「近くにいると巻き添えを喰らいますよ。前回は三メートルの壁に……」
「今回は覚悟があるの」
ニナは観念した。「ご武運を」と言って、リゼットを送り出した。
茶会は、ルナフォール侯爵邸の庭園で催されていた。
あの対決の日以来、クラリッサの茶会はローザリンデとの共同開催になっている。漆黒と深紅が並ぶ茶会の招待状は、社交界で最も入手困難なプラチナチケットと化していた。
リゼットの手元にも一通届いていたのは、おそらく「ヒロインの出席実績」が社交界の体裁として必要だったからだろう。
庭園に足を踏み入れる。
薔薇の生垣。銀の食器。白亜のガゼボ。——そしてその中央に、二人の悪役令嬢。
ローザリンデは漆黒のドレスで椅子に腰掛け、クラリッサは深紅のドレスで向かいに座っている。
二人の間のテーブルには、紅茶となぜか帳簿が一冊開かれていた。茶会で帳簿を開くのはマナー違反のような気もするが、悪役令嬢にマナー違反を指摘する勇気のある令嬢は、この場にはいなかった。
リゼットは近づいた。
五メートル。庭園の空気がわずかに変わる。
四メートル。令嬢たちの視線がちらちらと向けられ、囁きが聞こえる。
「あの子、また近づいてる」「前回は三メートルで撤退したのよね」「今回はどこまでいくかしら」
三メートル。例の壁だ。目には見えないのに体が拒む。これ以上近づいたら何かが起きると、本能が警告する。前回はここで足が止まった。
——でも、今日は。
リゼットは思い出した。田舎の裏庭にあった小さな柵を。
子供の頃、向こう側の野原に行きたくて、何度も跳び越えようとした柵。最初の何回かは跳べなかった。怖かったのではない。届かなかっただけだ。でもある日……ただ走って、跳び越えた。
考えるのをやめて、跳んだ。
二メートル。
一メートル。
テーブルの前。
ローザリンデが顔を上げた。クラリッサの扇が止まった。漆黒と真紅。二対の目がリゼットに注がれる。
「あら」
クラリッサが扇を揺らした。声に棘はない。むしろ、少し面白がっているような響き。
「壁を越えましたわね」
「は、はい。越え……ました」
自分でも信じられない。ここにいる。あの二人のテーブルの前に立っている。膝はまだ笑っているし、声は裏返りかけているし、心臓は喉のあたりまで上がってきている。でも、立っている。
「用件は何かしら」
ローザリンデが促した。声は意外に穏やかだった。辺境で領民の子供たちに話しかけるときの、癖が出ているのかもしれない。
用件。
そう、何日もかけて考えた言葉があったはずなのに。頭が真っ白だ。暗記してきた台詞が全部消えている。仕方ない。暗記なんかやめて、そのまま言おう。不格好でもいい。
「あの……お二人と、きちんとお話がしたいんです」
「話?」
「はい。今までずっと、お二人を遠くから見ていました。……最初は怖くて近づけませんでした。壁もありましたし。でも、見ているうちに気づいたんです。すごく楽しそうだなって」
「楽しんでなどいませんわ」
ローザリンデとクラリッサが即答した。
「……楽しそうでした」
リゼットは引かなかった。声はまだ震えているが、言葉を止めなかった。止めたら、もう二度と言えない気がして。
「嫌味を言い合っているときも、高笑いで競っているときも、お二人とも、すごく生き生きしていて。私……あんなふうに誰かと向き合えるのが、羨ましかったんです」
二人は黙った。庭園を吹き抜ける風が、薔薇の花弁を一枚散らした。
リゼットは深呼吸した。
一回。二回。三回。
よし。
「だから私、お二人と……と、友達に、なりたいです!」
声が裏返った。
庭園に響き渡るほどの声量で、しかも最後の「なりたいです」が悲鳴に近かった。
周囲の令嬢たちが振り返る。リゼットの顔は耳の先まで真っ赤だった。格好悪い。とんでもなく格好悪い。でも——言えた。
沈黙。
ローザリンデはリゼットを見つめていた。
亜麻色の髪。そばかす。大きな琥珀色の目。……変わっていない。あの頃と何も変わっていない。学園に入学したばかりの頃の、あの子のまま。
ふと、靴を隠した日のことを思い出した。
あの靴は、少し擦り切れていた。新品ではない。田舎の男爵家の令嬢には、靴を何足も持つ余裕がないのだろうと、そのとき分かった。分かっていて、棚の裏に押し込んだ。
手が震えた。この子の困った顔を想像して、胃の底が重くなって、それでもやめられなかった。やめたら自分には何も残らないと思ったから。
そのことを、ローザリンデは今も覚えている。忘れたいのに忘れられない。きっと一生覚えている。
「……その前に、言わなければならないことがあるの」
リゼットの目が少し大きくなった。
「学園時代のこと。あなたの靴を隠したり、嫌味を言ったり……」
言葉が詰まった。
ローザリンデは嫌味なら何百でも言える。高笑いなら大広間を震わせられる。だが、たった一言の謝罪を口にすることが、こんなにも難しい。喉に石が詰まったようだ。
「……ごめんなさい。あなたは何も悪くなかったのに。私は自分の都合で、あなたを傷つけた。理由があったとしても、それは言い訳にはならない」
庭園が静まりかえった。令嬢たちの囁きが止まった。風が止んだ。薔薇の葉擦れの音さえ遠くなった。
「友達になりたいと言ってくれたけど……私たちのような悪役の傍にいても、いいことなんて何もないわよ。巻き込まれるだけ。また嫌な思いをするかもしれない」
本当は、怖いのだ。
この子を再び傷つけることが。かつて傷つけた相手が自分に近づいてくることが。——許されることが、怖い。そんな資格が自分にあるとは、思えないから。
リゼットは黙っていた。
長い沈黙だった。三メートルの壁を越えるよりも、もっと長く感じられた。
「靴のこと、覚えています」
「…………」
「棚の裏の……一番手前にありましたよね。すぐ見つかりました」
「……え?」
「椅子が硬かったのも覚えています。でも、田舎の椅子の方がもっと硬かったので、正直あんまり気にならなかったです」
「…………」
「図書館の本は、司書さんが代わりに別の本を薦めてくれて……正直そちらの方が面白かったです」
「……あなたね」
「ローザリンデ様の嫌がらせ。全体的にちょっと、爪が甘いと思います」
ローザリンデは顔を手で覆った
向かいのクラリッサの肩が小刻みに震えている。扇で口元を隠しているが、まるで隠せていない。
「……全体的に、ちょっと……?」
「笑わないで」
「笑っておりませんわ」
「笑ってるでしょう!?」
「だって……爪が甘いって本人が……ぷぷっ……!」
「うるさいわね! 初めてだったのよ、嫌がらせするなんて!!」
リゼットは二人を見つめていた。自分のせいで場の雰囲気が悪くなってしまったのでは、と一瞬不安になったが、違う。空気が変わっている。
「ローザリンデ。あの子、なかなかいいですわね」
「……いい?」
「三メートルの壁を越えて、あなたの謝罪を真正面から受け止めて、その上で全部笑いに変えてみせた。あの年で、なかなかできることではありませんわよ」
「……確かに、度胸はあるわね」
「悪役令嬢の後継者として育ててみません?」
ローザリンデはクラリッサを見た。冗談かと思ったが、あの冷たい目は本気だった。
「あの度胸。あの切り返し。そして、あの空気を読まない真っ直ぐさ。磨けば光りますわよ」
リゼットはおどおどしている。でも、逃げない。嫌がらせをされた相手の前に立って、謝罪を受け取って、しかもそれを笑い話にした少女。
「……悪くないかもしれないわね」
「決まりですわ」
リゼットの背筋が、反射的に伸びた。二人の悪役令嬢の視線は、とんでもなく圧がある。
「先ほど、『友達』と言ってくれたわね」
「は、はい。言いました」
「嬉しいけれど……少し違うかもしれないわ」
リゼットの表情が翳った。やはり駄目だったのか。壁を越えても、謝罪を受けても、やはり自分はこちら側には。
「あなたは友達ではなく、後輩よ」
「こう、はい?」
「悪役令嬢の後輩。あなたにはその素質があると、こちらのクラリッサが申しておりますわ」
「……あの、私、ヒロインなのでは……?」
「この際どっちでもいいわよ」
「どっちでもいい!?」
「来週から高笑いの基礎訓練を始めますわ。まずは腹式呼吸から」
「た、高笑い……?」
「ドレスの選び方も教えてあげる。今日の桜色、似合っているけれど、威圧感がゼロね」
「威圧感……?」
頭が追いついていない。友達になりたいと言ったら、なぜか弟子入りすることになった。展開の飛躍が激しすぎる。だが、追い出されたのではない。それだけは確かだ。
友達ではなく後輩という、よくわからない形だけれど。
でも、自分の居場所ができた。三メートルの壁の向こう側に、ようやく立てた。
「……来週の訓練、よろしくお願いします」
怖い人たちだと思っていた。遠くから眺めていたときは、決して近づけない存在なのだと。
けれど、近くで知った彼女たちは、ただの人間だった。不器用で、素直になれなくて。優しさを嫌味で包み、本音を冗談に隠してしまう、そんな普通の人たちだった。
物語の中の『悪役』なんかじゃない。ただの、不器用で優しい先輩たち。
泣きそうになったのを、ぐっと堪えた。ここで泣いたら悪役令嬢の後輩として失格な気がした。




