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悪役令嬢は激怒した  作者: 松本雀


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15/17

リゼット・フォン・ハイリゲンベルクは、ヒロインである

 社交界が悪役令嬢コンビに沸いている頃。蚊帳の外に置かれていた者たちにも、小さな変化が訪れていた。


 ——リゼット・フォン・ハイリゲンベルクは、ここ数日ずっと考え込んでいた。


「ニナ。私、決めたわ」


「何をですか」


「話しかけに行く。ローザリンデ様とクラリッサ様に」


 侍女としての長年の勘が「止めた方がいい」と告げていたが、リゼットの目がいつになく真剣だったので、ニナは言葉を飲み込んだ。


「……どうして急に?」


「急じゃないわ。ずっと考えていたの。……私、このまま蚊帳の外でいいのかなって」


「蚊帳の外にいた方が安全だと思いますが」


「安全だけど、寂しいの」


 ニナは反論できなかった。


「お二人とも、すごく楽しそうなの。嫌味を言い合ってるときも、高笑いで競ってるときも。なんだか、すごく生き生きしていて。私——あの輪の中に入りたい。入れなくても、せめて近くにいたい」


「近くにいると巻き添えを喰らいますよ。前回は三メートルの壁に……」


「今回は覚悟があるの」


 ニナは観念した。「ご武運を」と言って、リゼットを送り出した。


 茶会は、ルナフォール侯爵邸の庭園で催されていた。


 あの対決の日以来、クラリッサの茶会はローザリンデとの共同開催になっている。漆黒と深紅が並ぶ茶会の招待状は、社交界で最も入手困難なプラチナチケットと化していた。


 リゼットの手元にも一通届いていたのは、おそらく「ヒロインの出席実績」が社交界の体裁として必要だったからだろう。


 庭園に足を踏み入れる。


 薔薇の生垣。銀の食器。白亜のガゼボ。——そしてその中央に、二人の悪役令嬢。


 ローザリンデは漆黒のドレスで椅子に腰掛け、クラリッサは深紅のドレスで向かいに座っている。


 二人の間のテーブルには、紅茶となぜか帳簿が一冊開かれていた。茶会で帳簿を開くのはマナー違反のような気もするが、悪役令嬢にマナー違反を指摘する勇気のある令嬢は、この場にはいなかった。


 リゼットは近づいた。


 五メートル。庭園の空気がわずかに変わる。


 四メートル。令嬢たちの視線がちらちらと向けられ、囁きが聞こえる。


「あの子、また近づいてる」「前回は三メートルで撤退したのよね」「今回はどこまでいくかしら」


 三メートル。例の壁だ。目には見えないのに体が拒む。これ以上近づいたら何かが起きると、本能が警告する。前回はここで足が止まった。


 ——でも、今日は。


 リゼットは思い出した。田舎の裏庭にあった小さな柵を。


 子供の頃、向こう側の野原に行きたくて、何度も跳び越えようとした柵。最初の何回かは跳べなかった。怖かったのではない。届かなかっただけだ。でもある日……ただ走って、跳び越えた。


 考えるのをやめて、跳んだ。



 二メートル。

 一メートル。



 テーブルの前。


 ローザリンデが顔を上げた。クラリッサの扇が止まった。漆黒と真紅。二対の目がリゼットに注がれる。


「あら」


 クラリッサが扇を揺らした。声に棘はない。むしろ、少し面白がっているような響き。


「壁を越えましたわね」


「は、はい。越え……ました」


 自分でも信じられない。ここにいる。あの二人のテーブルの前に立っている。膝はまだ笑っているし、声は裏返りかけているし、心臓は喉のあたりまで上がってきている。でも、立っている。


「用件は何かしら」


 ローザリンデが促した。声は意外に穏やかだった。辺境で領民の子供たちに話しかけるときの、癖が出ているのかもしれない。


 用件。


 そう、何日もかけて考えた言葉があったはずなのに。頭が真っ白だ。暗記してきた台詞が全部消えている。仕方ない。暗記なんかやめて、そのまま言おう。不格好でもいい。


「あの……お二人と、きちんとお話がしたいんです」


「話?」


「はい。今までずっと、お二人を遠くから見ていました。……最初は怖くて近づけませんでした。壁もありましたし。でも、見ているうちに気づいたんです。すごく楽しそうだなって」


「楽しんでなどいませんわ」


 ローザリンデとクラリッサが即答した。


「……楽しそうでした」


 リゼットは引かなかった。声はまだ震えているが、言葉を止めなかった。止めたら、もう二度と言えない気がして。


「嫌味を言い合っているときも、高笑いで競っているときも、お二人とも、すごく生き生きしていて。私……あんなふうに誰かと向き合えるのが、羨ましかったんです」


 二人は黙った。庭園を吹き抜ける風が、薔薇の花弁を一枚散らした。


 リゼットは深呼吸した。


 一回。二回。三回。

 よし。


「だから私、お二人と……と、友達に、なりたいです!」


 声が裏返った。


 庭園に響き渡るほどの声量で、しかも最後の「なりたいです」が悲鳴に近かった。


 周囲の令嬢たちが振り返る。リゼットの顔は耳の先まで真っ赤だった。格好悪い。とんでもなく格好悪い。でも——言えた。


 沈黙。


 ローザリンデはリゼットを見つめていた。


 亜麻色の髪。そばかす。大きな琥珀色の目。……変わっていない。あの頃と何も変わっていない。学園に入学したばかりの頃の、あの子のまま。


 ふと、靴を隠した日のことを思い出した。


 あの靴は、少し擦り切れていた。新品ではない。田舎の男爵家の令嬢には、靴を何足も持つ余裕がないのだろうと、そのとき分かった。分かっていて、棚の裏に押し込んだ。


 手が震えた。この子の困った顔を想像して、胃の底が重くなって、それでもやめられなかった。やめたら自分には何も残らないと思ったから。


 そのことを、ローザリンデは今も覚えている。忘れたいのに忘れられない。きっと一生覚えている。


「……その前に、言わなければならないことがあるの」


 リゼットの目が少し大きくなった。


「学園時代のこと。あなたの靴を隠したり、嫌味を言ったり……」


 言葉が詰まった。


 ローザリンデは嫌味なら何百でも言える。高笑いなら大広間を震わせられる。だが、たった一言の謝罪を口にすることが、こんなにも難しい。喉に石が詰まったようだ。


「……ごめんなさい。あなたは何も悪くなかったのに。私は自分の都合で、あなたを傷つけた。理由があったとしても、それは言い訳にはならない」


 庭園が静まりかえった。令嬢たちの囁きが止まった。風が止んだ。薔薇の葉擦れの音さえ遠くなった。


「友達になりたいと言ってくれたけど……私たちのような悪役の傍にいても、いいことなんて何もないわよ。巻き込まれるだけ。また嫌な思いをするかもしれない」


 本当は、怖いのだ。


 この子を再び傷つけることが。かつて傷つけた相手が自分に近づいてくることが。——許されることが、怖い。そんな資格が自分にあるとは、思えないから。


 リゼットは黙っていた。


 長い沈黙だった。三メートルの壁を越えるよりも、もっと長く感じられた。


「靴のこと、覚えています」


「…………」


「棚の裏の……一番手前にありましたよね。すぐ見つかりました」


「……え?」


「椅子が硬かったのも覚えています。でも、田舎の椅子の方がもっと硬かったので、正直あんまり気にならなかったです」


「…………」


「図書館の本は、司書さんが代わりに別の本を薦めてくれて……正直そちらの方が面白かったです」


「……あなたね」


「ローザリンデ様の嫌がらせ。全体的にちょっと、爪が甘いと思います」


 ローザリンデは顔を手で覆った


 向かいのクラリッサの肩が小刻みに震えている。扇で口元を隠しているが、まるで隠せていない。


「……全体的に、ちょっと……?」


「笑わないで」


「笑っておりませんわ」


「笑ってるでしょう!?」


「だって……爪が甘いって本人が……ぷぷっ……!」


「うるさいわね! 初めてだったのよ、嫌がらせするなんて!!」


 リゼットは二人を見つめていた。自分のせいで場の雰囲気が悪くなってしまったのでは、と一瞬不安になったが、違う。空気が変わっている。


「ローザリンデ。あの子、なかなかいいですわね」


「……いい?」


「三メートルの壁を越えて、あなたの謝罪を真正面から受け止めて、その上で全部笑いに変えてみせた。あの年で、なかなかできることではありませんわよ」


「……確かに、度胸はあるわね」


「悪役令嬢の後継者として育ててみません?」


 ローザリンデはクラリッサを見た。冗談かと思ったが、あの冷たい目は本気だった。


「あの度胸。あの切り返し。そして、あの空気を読まない真っ直ぐさ。磨けば光りますわよ」


 リゼットはおどおどしている。でも、逃げない。嫌がらせをされた相手の前に立って、謝罪を受け取って、しかもそれを笑い話にした少女。


「……悪くないかもしれないわね」


「決まりですわ」


 リゼットの背筋が、反射的に伸びた。二人の悪役令嬢の視線は、とんでもなく圧がある。


「先ほど、『友達』と言ってくれたわね」


「は、はい。言いました」


「嬉しいけれど……少し違うかもしれないわ」


 リゼットの表情が翳った。やはり駄目だったのか。壁を越えても、謝罪を受けても、やはり自分はこちら側には。


「あなたは友達ではなく、後輩よ」


「こう、はい?」


「悪役令嬢の後輩。あなたにはその素質があると、こちらのクラリッサが申しておりますわ」


「……あの、私、ヒロインなのでは……?」


「この際どっちでもいいわよ」


「どっちでもいい!?」


「来週から高笑いの基礎訓練を始めますわ。まずは腹式呼吸から」


「た、高笑い……?」


「ドレスの選び方も教えてあげる。今日の桜色、似合っているけれど、威圧感がゼロね」


「威圧感……?」


 頭が追いついていない。友達になりたいと言ったら、なぜか弟子入りすることになった。展開の飛躍が激しすぎる。だが、追い出されたのではない。それだけは確かだ。


 友達ではなく後輩という、よくわからない形だけれど。


 でも、自分の居場所ができた。三メートルの壁の向こう側に、ようやく立てた。


「……来週の訓練、よろしくお願いします」


 怖い人たちだと思っていた。遠くから眺めていたときは、決して近づけない存在なのだと。


 けれど、近くで知った彼女たちは、ただの人間だった。不器用で、素直になれなくて。優しさを嫌味で包み、本音を冗談に隠してしまう、そんな普通の人たちだった。


 物語の中の『悪役』なんかじゃない。ただの、不器用で優しい先輩たち。


 泣きそうになったのを、ぐっと堪えた。ここで泣いたら悪役令嬢の後輩として失格な気がした。

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