真の悪役令嬢とは
目が覚めたのは、日が傾いてからだった。
夕暮れの光がアパルトマンの窓から差し込んでいる。マリエッタは外出しているらしく、テーブルの上に「パンとスープを買ってきます」という書き置きがあった。
ぼんやりと体を起こしたとき、扉が叩かれた。
静かなノックが二回。
「マリエッタ? 鍵は開いているわよ」
扉が開いた。
——クラリッサだった。
質素な外套を羽織っている。昨夜と同じ紺色のドレス。縦ロールは下ろしたまま……ではなく、不完全に巻かれていた。途中まで巻いて、途中で諦めたような、中途半端な状態。目の縁はまだ少し赤い。
「……こんな時間に何?」
「入っても、よろしくて?」
「マリエッタが留守だけれど」
「むしろ都合がいいわ」
ローザリンデは少し驚いた。クラリッサが人目を避けたがるのは珍しい。
小さなテーブルに向かい合って座った。ローザリンデがハーブティーを淹れる。いつもの調合で、カモミール。
クラリッサは両手でカップを包んだ。飲まず、ただ温もりを受け取るように、じっと手の中に収めている。
沈黙は長かった。
ローザリンデは待った。急かさなかった。きっと、自分から話し出すまでには時間がかかる。計算のない言葉を口にすることに、慣れていないのだから。
「……今朝」
クラリッサがようやく口を開いた。
「父が……正式に、私を次期当主に指名したわ」
「聞いていたわ。扉の外で」
「……いたの?」
「いないと思った?」
「……あなたらしいですわね。こっそり聞いて、こっそり帰る」
「家族の問題に、部外者が口を出すべきではないもの」
「部外者」
クラリッサがその言葉を復唱した。奇妙な響きだった。
「あなた、本気でそう思っていますの? 自分が部外者だと?」
「だって実際……」
「兄に勇気を与えたのは誰? 侯爵家の戦略を一から練り直してくれたのは誰? 三百年動かなかった歯車を回したのは」
「ランドルフ様よ。あの人が自分の言葉で……」
「その背中を押したのは、あなたでしょう」
ローザリンデは口を閉じた。
クラリッサはお茶をようやく一口飲んだ。カモミールの香りが、夕暮れの部屋に広がる。
「ありがとう」
短い言葉だった。飾りも、修辞も、計算もない。ただの五文字。
だがその五文字が、クラリッサの唇から出てくるまでに、どれだけの壁を越えなければならなかったか。ローザリンデには想像がつく。
この女は、感謝を口にすることを弱さだと思っている。誰かに頼ることを敗北だと思っている。一人で立つことだけが強さだと、そう信じて、ここまで来た。
その女が、「ありがとう」と言った。
「あなたのおかげよ。私一人では……たぶん、ずっと一人で戦い続けて、いつか、どこかで折れていた。計画が上手くいっても、いかなくても一人だったら、折れていた」
「大袈裟ね」
「大袈裟ではありませんわ」
クラリッサの目が、真っ直ぐにローザリンデを見た。
冷たい湖だと、ずっと思っていた。初めて会ったときから。氷の下に何があるのかわからない、底の見えない冷たさだと。
だが今、この夕暮れの小さな部屋で見るクラリッサの目は、凍った湖ではなかった。氷が溶けて、底に沈めてあったものが水面まで上がってきている。温かくはない。まだ冷たい。でも——透き通っている。底まで見える。
「ローザリンデさん。私、ずっと考えていたの」
「何を」
「真の悪役令嬢とは何か、ということを」
カップを置く。かちり、と小さな音。
「高笑いの音圧でもない。嫌味の精度でもない。ドレスの威圧感でもない。そんなことは、最初からわかっていたわ。勝負を重ねるうちに、余計にはっきり見えてきた」
「……ええ」
「真の悪役令嬢とは——自分のすべてを賭けて、信念のために戦える人間のことよ。世間に悪と呼ばれようと。嫌われようと。追放されようと。……それでも、自分が正しいと信じたことのために、牙を剥ける人間」
クラリッサは微笑んだ。
いつもの計算された微笑みではなかった。不器用で、ぎこちなくて、少し照れくさそうな。たぶん、この女が最後にこんなふうに笑ったのは、子供の頃だったのだろうと思わせる笑みだった。
「靴を隠して手が震えた。図書館の本を返さなくて良心が痛んだ。追放されて辺境で薬草を育てた。領民の子供のために薬を作った。——そして、出会って二週間の女のために、夜を徹して戦略を練ってくれた」
「やめなさい。並べられると恥ずかしいから」
「恥ずかしいことなんて、一つもないのよ」
クラリッサの声がほんの少しだけ、震えた。
「……真の悪役令嬢は、あなたよ。ローザリンデ」
初めてだった。
クラリッサが「さん」をつけずに、ローザリンデの名前を呼んだのは。
ローザリンデはしばらく、何も言えなかった。
カモミールの香りが部屋に満ちている。窓の外は夕暮れ。橙色の光が二人の間のテーブルを照らしている。
「クラリッサ」
「何?」
「あなたの話を聞いて、一つだけ、訂正したいことがあるの」
「何かしら」
「真の悪役令嬢は、私じゃないわ」
クラリッサの目が見開かれた。
「何を」
「兄を守るために、家を守るために、全部一人で背負って、悪名を被って、孤立して。それでも折れなかった女が、真の悪役令嬢でなくて何だというの? あなたは計算で悪役を演じていたと言ったけれど、計算の根っこにあったのは、家族への愛でしょう」
「……やめてちょうだい」
「私なんかより、よほど」
「だから、やめて……!」
クラリッサの声が詰まった。また泣きそうになっている。今朝散々泣いたはずなのに、まだ涙が残っているらしい。——当たり前だ。何年分もの涙を、一度で出し切れるはずがない。
「……こういう話がしたかったのではないの」
クラリッサは指で目の端を押さえながら言った。
「あなたに感謝を伝えに来ただけなのに、なぜ泣かされなければならないのかしら?」
「泣かせるつもりはなかったわ」
「あなたは、いつもそう。無自覚に人の急所を突いてくるのよ。嫌味のつもりがなくても」
「それ、褒めてるの? 怒ってるの?」
「わからないわよ、自分でも!」
二人は黙って——それから、同時に笑った。今度は、どちらもばつの悪い顔をしなかった。
ローザリンデは立ち上がった。
テーブルを回り込んで、クラリッサの前に立つ。
「クラリッサ」
「……何よ」
「真の悪役令嬢が誰かなんて、もう、どうでもいいのよ」
「……え?」
「あなたが真の悪役令嬢で、私も真の悪役令嬢。それじゃ、駄目?」
手を差し出した。
「悪役令嬢の座は一つだと思っていたわ。あなたが現れたとき、奪われると思った。許せなかった。だから辺境から殴り込んだ」
「ええ。本当に迷惑だったわ」
「でも、戦ってみてわかったの」
差し出した手は、夕暮れの光の中にある。薬草園の仕事で少し荒れた手。公爵令嬢だった頃の柔らかさは、もうない。代わりに薬草の匂いが、ほのかに残っている。
「一人では見えなかったものが、二人なら見える。一人では届かなかった場所に、二人なら届く。あなたの氷と、私の炎。あなたの計算と、私の衝動。正反対だからこそ、補い合える」
「…………」
「共に並び立ちましょう、クラリッサ」
ローザリンデは、笑った。
「悪役令嬢は、二人でいいのよ」
クラリッサは差し出された手を見つめた。
長い間、見つめていた。その目に浮かんでいるものは、もう、冷たさではなかった。
「……あなたって、本当に」
「何よ」
「台詞がいちいち、小説の主人公みたいですわね」
「う、うるさいわね。こっちは!」
「知っているわ。あなたがいつも真剣なこと。……馬鹿みたいに、真っ直ぐなこと」
クラリッサは手を伸ばした。
「知っているから、信じるのよ」
手を取った。細くて、冷たい手。でも、握り返す力は強かった。
「よろしくお願いしますわ。ローザリンデ」
夕暮れの小さな部屋で、二つの手が結ばれた。
漆黒と深紅。
氷と炎。
二人の悪役令嬢が——初めて、同じ方向を向いた。
マリエッタがパンとスープを持って帰ってきたのは、それから十分後のことだった。
二人がテーブルでハーブティーを飲みながら、何事もなかったかのように侯爵領の交易路について議論している光景を見て、マリエッタは察した。何かが起きて、何かが変わった。二人とも、目の色が違う。
マリエッタは何も訊かなかった。ただ「スープ、三人分ありますよ」と言って、クラリッサの分の皿も並べた。
クラリッサは少し驚いた顔をして、それから「いただきますわ」と小さく言った。
三人で食べたスープは、特別美味しいものではなかった。町の惣菜屋で買った、ありふれた野菜のスープ。
だがクラリッサは——最後の一滴まで、残さず飲んだ。




