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悪役令嬢は激怒した  作者: 松本雀


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12/17

ルナフォール侯爵家の決断

 ルナフォール侯爵の容態は、一時的に安定していた。


 意識は明瞭で、話もできる。だが医師は「小康状態」という言葉を使った。嵐の前の静けさかもしれないし、回復の兆しかもしれない。誰にもわからない。


 その小康状態の間に——ランドルフが動いた。


 侯爵の病床に、家族と重臣が集められた。


 クラリッサは父の枕元に立っていた。いつもの深紅のドレスではなく、紺色の質素なドレス。化粧も薄い。ろくに眠っていないことが、目の下の隈に表れている。


 ランドルフは、クラリッサの隣に立った。


 重臣たちが部屋の壁沿いに並んでいる。顧問弁護士。財務官。軍事顧問。いずれも侯爵家に長く仕えた者たちだ。


 ローザリンデは部屋の外にいた。


 扉の前に立って、背筋を伸ばして。これは家族の問題だ。自分の出番はもう終わった。あとはランドルフが、自分の言葉で語る番だ。


 扉の向こうから、声が聞こえる。


「父上」


 ランドルフの声だった。


「お願いが、あります」


 穏やかな声だ。きっといつもどおりの、優しい声。

 だが震えていなかった。


「僕は、当主に向いていません」


 短い沈黙が落ちた。重臣たちの息を呑む気配。


「それは父上が一番よくご存じのはずです。決断ができない。人を切れない。利害を天秤にかけて冷徹に判断することが、僕にはできない。領主に必要な資質が……決定的に、欠けています」


「ランドルフ」


 侯爵の声は弱々しかったが、そこに宿る厳しさは健在だった。


「何が言いたい」


「クラリッサを——跡継ぎにしてください」


 空気が固まった。


 重臣たちが目配せを交わす。顧問弁護士が口を開きかけて、閉じた。


「ルナフォール侯爵家の跡継ぎは男子が継ぐ。三百年の伝統だ」


 侯爵の声は、病床からとは思えない重さだった。


「それを、お前の口から覆すと言うのか?」


「はい」


 ランドルフの返事は、一拍の迷いもなかった。


「三百年の伝統を守って家が潰れるのと、伝統を変えて家が続くのと。どちらがルナフォール侯爵家のためになりますか」


 侯爵が息を呑んだ。


「僕が継げば、十年で行き詰まります。父上もわかっておいでのはずだ。領地の運営には決断が要る。誰かを切り捨てる判断が要る。僕にはそれができない。でもクラリッサには……」


「兄さん……やめて……!」


 クラリッサの声が割り込んだ。


 ローザリンデは扉の向こうで、その声を聞いた。クラリッサの声が、揺れていた。初めて聞く種類の揺れだった。怒りでも冷静さでもない、もっと生々しい何か。


「やめてちょうだい。そんなこと、言わなくていい」


「言わなくていい?」


「兄さんが自分を卑下する必要はないわ。兄さんは、兄さんは、領民に慕われている。誰よりも優しくて、誰よりも……!」


「優しいだけでは、家は守れない」


 クラリッサの声が止まった。


「わかっているだろう、クラリッサ。お前だって、ずっとそう思っていたはずだ。僕に代わって、家の実権を握ろうとしていたのは、優しさだけでは足りないと知っていたからだ」


「……それは」


「僕に気を遣うな。僕を傷つけまいとするな。……お前が一人で全部抱え込んで、悪役を演じて、悪名を被って、孤立して……それを見ているだけの兄が、どれだけ情けないかわかるか」


 クラリッサが、黙った。


「お前は僕を守ろうとしてくれた。でもそれは、僕がお前を守れなかったということだ。兄として、それが一番、情けない」


 ランドルフの声が、初めてかすかに震えた。だがすぐに持ち直した。


「だから——もう、やめよう。互いに遠慮して、互いに傷つかないようにして、でも結局二人とも苦しい……そういうのは、もう、やめよう」


 沈黙。


「クラリッサは僕よりも強い。ずっと賢い。そして、誰よりもこの家を愛している。当主に必要なものを、全部持っている」


「全部なんて、持っていないわ……!」


 クラリッサの声はかすれていた。


「私には、兄さんのような優しさがない。兄さんのように人を信じることが、できない」


「だから僕がいるんだろう」


 クラリッサの呼吸が止まる音が聞こえた。


「お前が決断する。僕はその決断が正しいと、領民に伝える。お前にできないことは、僕がやる。僕にできないことは、お前がやる。それでいいじゃないか」


「……ランドルフ」


 侯爵の声が、静かに割り込んだ。


「父上」


「……その言葉は、お前自身の言葉か? 誰かに言わされているのではないか?」


 ランドルフは一瞬黙った。

 一瞬だけ。


「はい。僕自身の言葉です。ただ」


「ただ?」


「背中を押してくれた人は、います。靴を隠すだけで手が震えるような人ですが——その人のおかげで、勇気が出ました」


 扉の外で、ローザリンデは顔を手で覆った。

 なぜ今そのエピソードを出す!?


 侯爵の沈黙は長かった。病室の窓から、夜明けの光が差し込み始めていた。


 長い夜が終わろうとしている。


「……三百年か」


 侯爵の声は——疲れていて、老いていて。


 でも、その奥に、微かな笑みが聞こえた。


「三百年の伝統を破るのが……まさか、息子の方からの申し出とはな。てっきりクラリッサが殴り込んでくるものと思っていた」


「父上。知って、おいでだったのですか」


「クラリッサが何を考えているか、親が知らぬとでも思ったか」


 病室に、不思議な空気が満ちた。厳粛でありながら、どこか柔らかい空気。


「知っていて、何も言わなかったのは」


「言えるものか。親の口から『お前は当主に向いていない、妹に譲れ』と、言えるはずがなかろう。お前を傷つけるとわかっていて」


「…………」


「クラリッサも同じだったのだろう。ランドルフを傷つけたくない。親子三人、誰も本音を言えずに、全員が全員を庇い合って、身動きが取れなくなっていた。……滑稽だな」


 侯爵が咳き込んだ。小さく、苦しそうに。しかしすぐに収まり、再び声が続いた。


「風穴を開けたのが……お前だったとはな、ランドルフ。一番動けないと思っていた人間が、一番先に動いた。父として、誇らしく思う」


「父上……」


「クラリッサ」


「はい」


 クラリッサの声は、もう震えを隠していなかった。


「お前を、次期当主に指名する」


 静寂。


「異論のある者は、今この場で申し出よ」


 誰も声を上げなかった。重臣たちは一人一人、静かに頭を下げた。


 クラリッサの嗚咽が、聞こえた。


 小さく、短く。


 すぐに止まった。当主になる人間が泣いてはならない、そう思ったのだろう。ローザリンデにはわかった。自分でも同じことをしたはずだから。


 だがすぐに、もう一つの声が聞こえた。


「泣いていいぞ、クラリッサ」


 ランドルフの声だった。


「泣いたからって、弱いわけじゃない。お前の兄が言うんだから、間違いない」


「……兄さんが言うと、説得力がありすぎるのよ、泣き虫のくせに」


「否定はしない」


 笑い声が混じった。泣きながら笑っている。二人とも、泣きながら笑っていた。


 ローザリンデは扉から離れた。静かに、足音を殺して、廊下を歩く。


 もう、ここにいる理由はない。


 家族の物語は、家族のものだ。自分は少し手伝っただけ。背中を押しただけ。あとは、あの三人の問題だ。


 侯爵邸の玄関を出ると、夜明けの空気が冷たかった。


 秋の早朝。吐く息が白い。空はまだ薄暗いが、東の端にほのかな橙色が滲んでいる。


「……よかった」


 誰にも聞こえない声で、呟いた。


 靴を隠して手が震える程度の悪役令嬢に、できることなんてたかが知れている。でも、たかが知れていても、何もしないよりは、ましだろう。


 ローザリンデはマリエッタのアパルトマンに向かって歩き出した。


 途中、八百屋の前を通りかかったとき、ふと足を止めた。開店準備をしていたおかみが「あら、朝早いわね」と声をかけてきた。


「ええ。少し夜更かしをして」


「体に気をつけなさいよ。薬草茶とか飲んでる?」


「……作る側なんだけれど」


「なら大丈夫ね」


 おかみは笑って、林檎を一つくれた。


 ローザリンデは林檎をかじりながら歩いた。甘酸っぱい味が、夜通しの緊張をほぐしていく。


 こういう些細なやりとりが、辺境での暮らしに似ている。名前も知らない八百屋のおかみが林檎をくれて、「体に気をつけなさいよ」と言ってくれる。それだけで、世界は、そう悪くないと思える。


 アパルトマンに着くと、マリエッタが起きてハーブティーを淹れていた。


「おかえりなさい。どうでしたか」


「……うまくいったわ。たぶん」


「たぶん、ですか」


「私がやったのは、背中を押しただけだから。あとは、あの家族の問題よ」


「ローザリンデ様は、いつもそうですね」


「何が」


「自分のやったことを、過小評価する」


「……過小評価なんてしていないわ。事実よ。私は靴を隠す程度の」


「その靴の話、もういいと思いますよ」


「…………」


「おやすみなさい。少し眠ってください。顔色がひどいです」


「ひどいは余計よ」


 ローザリンデはベッドに倒れ込んだ。


 目を閉じると、クラリッサの嗚咽が耳に残っていた。あの、小さな声。すぐに止めようとして、止められなかった声。


 大丈夫。あの女は強い。泣いた後に立ち上がれる女だ。


 そう思いながら、ローザリンデは眠りに落ちた。

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