ルナフォール侯爵家の決断
ルナフォール侯爵の容態は、一時的に安定していた。
意識は明瞭で、話もできる。だが医師は「小康状態」という言葉を使った。嵐の前の静けさかもしれないし、回復の兆しかもしれない。誰にもわからない。
その小康状態の間に——ランドルフが動いた。
侯爵の病床に、家族と重臣が集められた。
クラリッサは父の枕元に立っていた。いつもの深紅のドレスではなく、紺色の質素なドレス。化粧も薄い。ろくに眠っていないことが、目の下の隈に表れている。
ランドルフは、クラリッサの隣に立った。
重臣たちが部屋の壁沿いに並んでいる。顧問弁護士。財務官。軍事顧問。いずれも侯爵家に長く仕えた者たちだ。
ローザリンデは部屋の外にいた。
扉の前に立って、背筋を伸ばして。これは家族の問題だ。自分の出番はもう終わった。あとはランドルフが、自分の言葉で語る番だ。
扉の向こうから、声が聞こえる。
「父上」
ランドルフの声だった。
「お願いが、あります」
穏やかな声だ。きっといつもどおりの、優しい声。
だが震えていなかった。
「僕は、当主に向いていません」
短い沈黙が落ちた。重臣たちの息を呑む気配。
「それは父上が一番よくご存じのはずです。決断ができない。人を切れない。利害を天秤にかけて冷徹に判断することが、僕にはできない。領主に必要な資質が……決定的に、欠けています」
「ランドルフ」
侯爵の声は弱々しかったが、そこに宿る厳しさは健在だった。
「何が言いたい」
「クラリッサを——跡継ぎにしてください」
空気が固まった。
重臣たちが目配せを交わす。顧問弁護士が口を開きかけて、閉じた。
「ルナフォール侯爵家の跡継ぎは男子が継ぐ。三百年の伝統だ」
侯爵の声は、病床からとは思えない重さだった。
「それを、お前の口から覆すと言うのか?」
「はい」
ランドルフの返事は、一拍の迷いもなかった。
「三百年の伝統を守って家が潰れるのと、伝統を変えて家が続くのと。どちらがルナフォール侯爵家のためになりますか」
侯爵が息を呑んだ。
「僕が継げば、十年で行き詰まります。父上もわかっておいでのはずだ。領地の運営には決断が要る。誰かを切り捨てる判断が要る。僕にはそれができない。でもクラリッサには……」
「兄さん……やめて……!」
クラリッサの声が割り込んだ。
ローザリンデは扉の向こうで、その声を聞いた。クラリッサの声が、揺れていた。初めて聞く種類の揺れだった。怒りでも冷静さでもない、もっと生々しい何か。
「やめてちょうだい。そんなこと、言わなくていい」
「言わなくていい?」
「兄さんが自分を卑下する必要はないわ。兄さんは、兄さんは、領民に慕われている。誰よりも優しくて、誰よりも……!」
「優しいだけでは、家は守れない」
クラリッサの声が止まった。
「わかっているだろう、クラリッサ。お前だって、ずっとそう思っていたはずだ。僕に代わって、家の実権を握ろうとしていたのは、優しさだけでは足りないと知っていたからだ」
「……それは」
「僕に気を遣うな。僕を傷つけまいとするな。……お前が一人で全部抱え込んで、悪役を演じて、悪名を被って、孤立して……それを見ているだけの兄が、どれだけ情けないかわかるか」
クラリッサが、黙った。
「お前は僕を守ろうとしてくれた。でもそれは、僕がお前を守れなかったということだ。兄として、それが一番、情けない」
ランドルフの声が、初めてかすかに震えた。だがすぐに持ち直した。
「だから——もう、やめよう。互いに遠慮して、互いに傷つかないようにして、でも結局二人とも苦しい……そういうのは、もう、やめよう」
沈黙。
「クラリッサは僕よりも強い。ずっと賢い。そして、誰よりもこの家を愛している。当主に必要なものを、全部持っている」
「全部なんて、持っていないわ……!」
クラリッサの声はかすれていた。
「私には、兄さんのような優しさがない。兄さんのように人を信じることが、できない」
「だから僕がいるんだろう」
クラリッサの呼吸が止まる音が聞こえた。
「お前が決断する。僕はその決断が正しいと、領民に伝える。お前にできないことは、僕がやる。僕にできないことは、お前がやる。それでいいじゃないか」
「……ランドルフ」
侯爵の声が、静かに割り込んだ。
「父上」
「……その言葉は、お前自身の言葉か? 誰かに言わされているのではないか?」
ランドルフは一瞬黙った。
一瞬だけ。
「はい。僕自身の言葉です。ただ」
「ただ?」
「背中を押してくれた人は、います。靴を隠すだけで手が震えるような人ですが——その人のおかげで、勇気が出ました」
扉の外で、ローザリンデは顔を手で覆った。
なぜ今そのエピソードを出す!?
侯爵の沈黙は長かった。病室の窓から、夜明けの光が差し込み始めていた。
長い夜が終わろうとしている。
「……三百年か」
侯爵の声は——疲れていて、老いていて。
でも、その奥に、微かな笑みが聞こえた。
「三百年の伝統を破るのが……まさか、息子の方からの申し出とはな。てっきりクラリッサが殴り込んでくるものと思っていた」
「父上。知って、おいでだったのですか」
「クラリッサが何を考えているか、親が知らぬとでも思ったか」
病室に、不思議な空気が満ちた。厳粛でありながら、どこか柔らかい空気。
「知っていて、何も言わなかったのは」
「言えるものか。親の口から『お前は当主に向いていない、妹に譲れ』と、言えるはずがなかろう。お前を傷つけるとわかっていて」
「…………」
「クラリッサも同じだったのだろう。ランドルフを傷つけたくない。親子三人、誰も本音を言えずに、全員が全員を庇い合って、身動きが取れなくなっていた。……滑稽だな」
侯爵が咳き込んだ。小さく、苦しそうに。しかしすぐに収まり、再び声が続いた。
「風穴を開けたのが……お前だったとはな、ランドルフ。一番動けないと思っていた人間が、一番先に動いた。父として、誇らしく思う」
「父上……」
「クラリッサ」
「はい」
クラリッサの声は、もう震えを隠していなかった。
「お前を、次期当主に指名する」
静寂。
「異論のある者は、今この場で申し出よ」
誰も声を上げなかった。重臣たちは一人一人、静かに頭を下げた。
クラリッサの嗚咽が、聞こえた。
小さく、短く。
すぐに止まった。当主になる人間が泣いてはならない、そう思ったのだろう。ローザリンデにはわかった。自分でも同じことをしたはずだから。
だがすぐに、もう一つの声が聞こえた。
「泣いていいぞ、クラリッサ」
ランドルフの声だった。
「泣いたからって、弱いわけじゃない。お前の兄が言うんだから、間違いない」
「……兄さんが言うと、説得力がありすぎるのよ、泣き虫のくせに」
「否定はしない」
笑い声が混じった。泣きながら笑っている。二人とも、泣きながら笑っていた。
ローザリンデは扉から離れた。静かに、足音を殺して、廊下を歩く。
もう、ここにいる理由はない。
家族の物語は、家族のものだ。自分は少し手伝っただけ。背中を押しただけ。あとは、あの三人の問題だ。
侯爵邸の玄関を出ると、夜明けの空気が冷たかった。
秋の早朝。吐く息が白い。空はまだ薄暗いが、東の端にほのかな橙色が滲んでいる。
「……よかった」
誰にも聞こえない声で、呟いた。
靴を隠して手が震える程度の悪役令嬢に、できることなんてたかが知れている。でも、たかが知れていても、何もしないよりは、ましだろう。
ローザリンデはマリエッタのアパルトマンに向かって歩き出した。
途中、八百屋の前を通りかかったとき、ふと足を止めた。開店準備をしていたおかみが「あら、朝早いわね」と声をかけてきた。
「ええ。少し夜更かしをして」
「体に気をつけなさいよ。薬草茶とか飲んでる?」
「……作る側なんだけれど」
「なら大丈夫ね」
おかみは笑って、林檎を一つくれた。
ローザリンデは林檎をかじりながら歩いた。甘酸っぱい味が、夜通しの緊張をほぐしていく。
こういう些細なやりとりが、辺境での暮らしに似ている。名前も知らない八百屋のおかみが林檎をくれて、「体に気をつけなさいよ」と言ってくれる。それだけで、世界は、そう悪くないと思える。
アパルトマンに着くと、マリエッタが起きてハーブティーを淹れていた。
「おかえりなさい。どうでしたか」
「……うまくいったわ。たぶん」
「たぶん、ですか」
「私がやったのは、背中を押しただけだから。あとは、あの家族の問題よ」
「ローザリンデ様は、いつもそうですね」
「何が」
「自分のやったことを、過小評価する」
「……過小評価なんてしていないわ。事実よ。私は靴を隠す程度の」
「その靴の話、もういいと思いますよ」
「…………」
「おやすみなさい。少し眠ってください。顔色がひどいです」
「ひどいは余計よ」
ローザリンデはベッドに倒れ込んだ。
目を閉じると、クラリッサの嗚咽が耳に残っていた。あの、小さな声。すぐに止めようとして、止められなかった声。
大丈夫。あの女は強い。泣いた後に立ち上がれる女だ。
そう思いながら、ローザリンデは眠りに落ちた。




