悪役令嬢の兄ランドルフの決意
転機は、思いもよらない形で訪れた。
ローザリンデとクラリッサが、侯爵家の戦略を練り始めて十日ほどが経っていた。壁に貼った地図の数は三十枚を超え、交易路の分析は第四稿に入り、商人ネットワークの相関図はマリエッタのアパルトマンの壁をほぼ埋め尽くしている。
マリエッタは「私の部屋が作戦本部になっている件については、後日改めて抗議します」と言ったが、二人とも聞いていなかった。
その夜。
日付が変わる少し前に、扉が激しく叩かれた。
ローザリンデが扉を開けると、見覚えのない若い女が立っていた。ルナフォール侯爵家の侍女服を着ている。息が荒い。走ってきたのだろう。顔色が、紙のように白かった。
「クラリッサ様は……クラリッサ様は、こちらに……?」
「いるわ。何があったの」
「お父上様が、侯爵閣下が……」
侍女は、最後まで言葉を紡げなかった。だが、言わずとも分かった。
奥の部屋から、クラリッサが出てきた。部屋着のまま、髪を下ろしたまま。縦ロールではない素のクラリッサを、ローザリンデは初めて見た。意外なほど細い髪が、肩の下まで真っ直ぐに流れている。
「……何があったの」
「侯爵閣下が、お倒れになりました。心臓の、発作だと医師が。容態が……!」
クラリッサの顔から、表情が消えた。
消えた、というのは正確ではない。凍った。一瞬ですべての感情が氷の下に沈み、表面には何も浮かんでいない冷たい湖だけが残った。
ローザリンデは見た。クラリッサの手が、わずかに、本当にわずかに震えたのを。そしてその震えを、握り込んで止めたのを。
「……馬車は?」
「待たせております」
「行くわ」
クラリッサは振り返らなかった。ローザリンデに目もくれず、外套を掴んで扉に向かった。
当然だろう。これは家族の問題だ。部外者が割り込む場面ではない。
ローザリンデは——少し迷った。五秒ほど迷って、外套を手に取った。
「ローザリンデ様?」
マリエッタが寝室から顔を出した。
「……行ってくるわ」
「呼ばれていないのでは」
「呼ばれていないわよ」
「ですよね。……行ってらっしゃい」
マリエッタは何も訊かなかった。ただ玄関先で、ローザリンデの外套の襟を直してくれた。
◇
深夜のルナフォール侯爵邸は、静まり返っていた。
普段の華やかさが嘘のように、廊下の燭台だけが細い光を投げかけている。使用人たちが足音を殺して行き交い、時折、医師らしき男が険しい顔で部屋を出入りしていた。
クラリッサは父の部屋に入っていった。
ローザリンデは廊下に残った。ここから先は自分の領分ではない。壁に背を預け、腕を組み、待った。
……どのくらい時間が経っただろう。
十分か、三十分か。深夜の侯爵邸には時計の音すら遠く、時間の感覚が薄れていく。
足音がした。
軽い足音ではない。迷いのある、不規則な足音。歩いては止まり、止まっては歩く。
廊下の奥から、一人の男が現れた。
ランドルフ・デ・ルナフォール。
クラリッサと同じプラチナブロンドの髪だが、月明かりの下ではもっと淡く、銀に近く見えた。背はクラリッサより少し高い。だが、印象はまるで違う。穏やかで、柔和で、人を疑うことを知らない無垢な目をしている。
顔が赤い。泣いていたのだろう。それを隠そうともしていない。あるいは隠すという発想がないのかもしれない。
「……あなたは」
ランドルフはローザリンデに気づいて立ち止まった。
「シュヴァルツェンベルク嬢?」
「ええ。初めまして、ランドルフ様」
「クラリッサから聞いています。最近よくしていただいているとか」
「よくしているかどうかは微妙なところね。嫌味を言い合って高笑いで競って、最近ようやく紅茶を一緒に飲む間柄になった程度だわ」
ランドルフは少し驚いた顔をして、それから、ふっと笑った。
「……そうですか。それは、嬉しいです」
「嬉しい?」
「妹が……あんなに楽しそうにしているのは、初めて見たものですから」
ローザリンデは眉を上げた。
「楽しそうに? あの女が?」
「ええ。ここ数日、家に帰ってくるときの表情が違うんです。以前はお茶会から戻ると、いつも疲れた顔をしていた。計算通りにいっても、いかなくても、同じ顔。消耗した顔です。それが最近は……なんだか、怒ったり呆れたり笑ったりしている。忙しそうに、でも生き生きと」
「……それは多分、私と口喧嘩しているだけよ」
「それでも」
ランドルフは言った。穏やかな、揺るぎのない声だった。
「それでも、あの子が感情を見せること自体が……僕にとっては、奇跡に近いんです」
ローザリンデは返す言葉に詰まった。
何か気の利いたことを言うべきだが、思いつかない。代わりに、廊下の壁に掛かった絵画に目をやった。ルナフォール侯爵家の歴代当主の肖像が並んでいる。男ばかり。三百年分の、男の顔。
「ランドルフ様」
「はい」
「一つ訊いてもいいかしら」
「どうぞ」
「あなたは——クラリッサに、当主を継がせたいと思ったことはある?」
ランドルフは目を瞬いた。
不意を突かれた顔、ではなかった。むしろ、いつか誰かに訊かれると知っていた問いに、ようやく出会ったような顔だった。
「何度も」
迷いのない答えだった。
「何度も思いました。クラリッサの方が当主に向いている。僕よりずっと賢く、ずっと強く、ずっとこの家を愛している。僕なんかより……ずっと」
「なぜ、そう言わないの。クラリッサに。お父上に」
「……父が許さないからです」
ランドルフは歴代当主の肖像を見上げた。三百年分の男たちの目が、廊下を見下ろしている。
「ルナフォール侯爵家は男子が継ぐ。三百年の伝統を、僕の代で壊すわけにはいかないと。父は……あの人なりに、家を愛している。伝統を守ることが、家を守ることだと信じている。間違っているとは、僕には言えない」
「それだけ?」
「……それと」
ランドルフは目を伏せた。
「クラリッサ自身が、表立ってそれを望んだことがないんです。一度も。僕に『お兄様は当主に向いていない、私に譲って』と言ったことがない」
「望めないのよ」
ローザリンデの声は、自分で思ったより強かった。
「望んだ瞬間に、あなたを否定することになるから。あなたから当主の座を奪うことになるから。……あの女は、あなたが嫌いで継ぎたいのではないの。あなたが好きだから。兄として好きだから。あなたを傷つけたくないから、自分の口からは言えないのよ」
ランドルフの呼吸が止まった。
「代わりに何をしたと思う? 『悪役令嬢』になったのよ。社交界で悪名を売り、恐れられ、影響力を持つことで……あなたが当主になっても実権は自分が握れるようにした。あなたを否定せずに、あなたを守る方法を選んだの。回りくどくて、不器用で、全部一人で抱え込んで」
「…………」
「気づいていなかったの?」
ランドルフの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
それは先程までの父を想う涙ではなく、もっと深い場所——長い年月をかけて、見ないふりをしてきた何かが、堰を切って溢れた涙だった。
「……気づいて、いました」
声が震えていた。
「気づいていて、何もできなかった。できなかったんです。僕は……ずっと、あの子に甘えていた」
ランドルフは顔を覆った。肩が震えている。
侯爵家の嫡男が、廊下で泣いている。取り繕うことも、隠すこともせずに。
この男の弱さは、裏返せば誠実さなのだとローザリンデは思った。自分の不甲斐なさから目を逸らさない。嘘をつけない。逃げられない。
弱いが、卑怯ではない。
それはローザリンデにとって——少しだけ、眩しいものだった。
「ランドルフ様」
「……はい」
「泣いていいわ。でも、泣き終わったら、やることがあるわよ」
「……やること」
「あなたにしかできないことが、一つだけある」
ランドルフは涙を拭って、ローザリンデを見た。赤い目が、真っ直ぐにこちらを見ている。逃げる気はないらしい。弱い男の、精一杯の覚悟が見えた。
「……教えてください」
「自分で考えなさい」
「え」
「あなたが言うから意味があるの。私が台詞を書いたら、それはあなたの言葉ではなくなるわ。……あなたが、あなた自身の言葉で、お父上に伝えるのよ。クラリッサのことを。あなたの気持ちを。逃げずに、誤魔化さずに」
「僕に、できるでしょうか」
「知らないわよ、そんなこと。……でもね」
ローザリンデは廊下の肖像画を見上げた。
「私は靴を隠すだけで手が震える小心者だけれど、それでも、やらなければいけないと思ったことは、やってきたつもりよ。あなたも、やれるわ」
ランドルフは——少しだけ首を傾げた。泣きながら、不思議そうに。
「……靴を隠す?」
「忘れて」
「いえ、なんだか……少し勇気が出ました。ありがとうございます」
「靴の話で勇気が出るのはどうかと思うけれど……まあ、いいわ」




