第四話 誤解
「店家!?何があった!?」
入口から聞こえた声に、鄭傑は肩をびくりと震わせた。
振り向く。
そこに立っていたのは、武人ではなかった。
彼が知る俠客の王大虎ではない。まして自分を支持している家庭と自称していた男でもない。新客だ。
四十代半ばか...ほどに見える男。
衣は上質な綿布で仕立てられた長衣。色は落ち着いた青灰だが、生地の張りが違う。
腰には革の帯が締められ、そこに小さな算盤袋と香袋がぶら下がっている。
靴も、外に出て時に見た大勢の町の行人が履いていたものと違う、言うなればそのような粗末なものではない。
質の良い素材な靴。少しはふくよかな顔。
外見派手ではないが、細部が整っている。
つまり金持ちそうだった。
(……あ、これ)
鄭傑は一瞬で理解した。
(そこそこ金持ってる商人だ)
顔つきも武人のような鋭さはない。
むしろよく商売をしていそうな、計算高そうな目をしている。
だが今、その男は店の中を見て完全に固まっていた。
床板は外れ。
木屑が散らばり。
包丁が転がり。
鄭傑は汗だくで息を荒げている。
どう見てもまともな営業状態ではない。
「店家……」
男はゆっくり口を開いた。
「何があったんだ?」
鄭傑は疲れた体のままにあって、気ごちなく見える動作を見せて、平然を装おうとした。
「いや……あの……」
(説明どうするこれ)
床の穴。
転がる包丁。
汗だくの自分。
(悪事してましたみたいになってる)
男は表情を変えずに少しずつ後退る。
街の端ら辺のここではその足音が良く聞こえて、足を落として、地面に音を出せば、あたりに反響が小さく鳴る。
「争いか?盗賊でも来たのか?」
声には少しだけ警戒が混じっている。
さすがに商人だ。
町の異変には敏感らしい。
鄭傑は慌てて両手を振った。
「違います違います!」
男はそう聞いて店の中を見回していた。
床板は外れ、木屑が散り、包丁が床に転がり、さらに鄭傑は汗だくで肩を上下させている。
どう見てもまともな店の光景ではない。
「いや……あの……」
鄭傑は立ち上がろうとしたが、脚が少し震えた。
さっきまでの作業と、あの頭を割るような痛みの余韻がまだ残っていた。
(いやいやいや、そんな物騒な店じゃないから!)
鄭傑は慌てて手を振る。
「ち、違います違います!
ちょっと……床を……」
「床?」
「修理……というか……」
男は床の穴を見た。
外された板。
ぽっかり空いた空洞。
「……店家」
「はい」
「お前、自分の店壊してるのか?」
「いやまあ、そう見えますけど……事情が」
(隠し床見つけました、って言えるわけないだろ)
「だから修理ですって、ちょっと板が緩んでましてね、客が踏んで怪我したら困るんで……」
男は眉を少し上げた。
「修理か?」
「そう!修理です!」
鄭傑は勢いよく頷いた。
男は腕を組んだ。
店内を見る。
竈。
鍋。
そして――
何も並んでいない台。
「……で?」
「?」
「飯はあるのか」
その一言で、鄭傑の思考が止まった。
(あ)
完全に忘れていた。
料理。
頼まれていた料理。
竈の火はもう消してある。
材料も準備していない。
「……」
沈黙。
男の眉が少しずつ寄っていく。
「店家」
「はい」
「まさかとは思うが」
鄭傑は乾いた笑顔を浮かべた。
「……まだ、準備が」
「ないのか?」
「……」
沈黙。
男は深く息を吐いた。
「店家」
「はい」
「ここ、飯屋だよな?」
「……はい」
「昼時だぞ」
「……」
(詰んだ)
鄭傑は心の中で天を仰いだ。
さっきまで秘伝書だの気だの床下宝物だので頭がいっぱいだった。
料理。
完全に忘れていた。
男はしばらく黙っていたが、やがて肩をすくめた。
「……まあいい」
そう言って踵を返す。
「修理中なら仕方ない」
(助かった)
鄭傑が胸を撫で下ろしかけたその時。
男が振り向く。
「店家」
「はい!」
「次来るときは、飯くらい出してくれ」
「はい!!」
男は小さく笑った。
「腹が減ってるんだ」
そう言って店を出ていった。
まぁ、彼の内心はその表情のように軽くなく、鄭にもわかるほどに、あらわれとしてフットワークに出ている。
さらに徐々にその足踏みは速くなっていた。
(まずいまずい、なんだあそこは!?)
戸が閉まる。
慌てる男みたく、鄭傑の内心も慌てふためいていた。
(まずったな)
店内は再び静かになった。
鄭傑はしばらく立ち尽くしていた。
それから頭を抱える。
「……ぎゃああああああ!!」
店の中に絶叫が響いた。
「料理忘れてたぁぁぁ!!」
しばらく叫んだあと、彼は床に座り込んだ。
(……やばい)
懐の紙を触る。
「聚気湯」
気を集める湯。
子供の頃から夢に見ていたあの世界の入口。
仙人になる最初のチケット。
だが――
鄭傑は天井を見上げた。
「これ……」
小さく呟く。
「料理の役には全く立たねえじゃねえか……」
静かな店内に、ため息だけが残った。
(おっさんしか来ないし美少女エルフがいい....)
戸が閉まってから、しばらく。
店内には相変わらずに沈黙しかなかった。
正確にはまだ一人の男の声はいた。
彼の呼吸が鳴り響く。
その声の主、鄭傑は床に座り込んだまま、ぼんやりと天井を見上げていた。
梁には長年の煤やらがこびりついているのか、黒く光っている。
(……やばい)
さっきの商人の顔が頭に浮かぶ。
落ち着いた服。
金のありそうな持ち物。
計算高そうな目。
どう考えても、常連になりそうな客だった。
鄭傑は両手で顔を覆った。
「……終わった」
商売人として致命傷だ。
この辺りは街の端とはいえ、人通りはある。
客が一人来て帰ったということは、また来る可能性もあるということだ。
鄭傑はふらりと立ち上がった。
店の中はまだ荒れている。
床板は外れ、木屑が散り、鍋も片付けていない。
その中で。
ふと目に入ったのは――
床に転がる包丁だった。
鄭傑は拾い上げる。
鉄の重み。
刃を光にかざす。
砥ぎは甘くもない、重さもある
だが少し持ち手は古いような
(しかし料理には鋭さがいるんじゃないか?これ以上の?砥石うちにあるのかな……)
そんなことを考えながら、指で刃をなぞる。
「いて!」
包丁に手を充てては切れたかと思った。
しかし血は出ていない。
料理人としては、あまり良い状態じゃないかもしれない、包丁で手を切るなんて。
だが。
(まあ……これで、これで....さっき料理出せればなぁ...)
鄭傑は包丁を握ったまま、ぼんやり考えていた。
(おそらくは...食院までに...あの湯を聚めないといけない...し....いくつかの材料が金銭で買えるか...わからないがけど、金は必要だろう...まず生きるには)
料理。
商売。
そして――
さっきの客。
答えは導き出される。自分なりの
力だけではない、俗世の金銭も、いかなる土地にて必要だろうと。
突然、そんなひらめきが彼の頭をよぎった。
そして
(……まだ近くにいるんじゃないか?)
彼が思ったことは、先ほどの男が出て行ってから、まだそんなに時間は経っていない。
通りをまっすぐ歩いているだけなら、走れば追いつくかもしれない。
(そうだ、「今からでも作ります」そう言えば、もしかしたら戻ってくれるかもしれない。)
そう思うと鄭傑の目がぱっと開く。
「そうだ!」
彼は包丁を握ったまま立ち上がった。
戸口へ向かいながら、
頭の中ではもう言葉を考えている。「さっきはすみません!今すぐ料理出します!」
言い訳の言葉だ、しかし決して包丁を持って言っていい言葉じゃない。
彼は気づかずむしろ、これで戻ってくれれば万々歳だと考えている。
そう思って勢いよく戸を開け、通りへ飛び出した。
夕方の光が石畳を赤く染めている。通りにはまだ人影がちらほらあった。その中で、少し先に青灰色の長衣が見えた。
「あ!」
あの商人だ。歩く速さは普通だ。距離もまだ遠くない。
「あっ」
またして思わず彼から声が出た。
声がけに迷っている証だろうか。
鄭傑はすぐ走り出した。手にはまだ包丁を握ったままだったが、そのことにはまるで気づいていない。
「お客さーーん!」
通りに声が響く。商人は肩をびくりと震わせ、振り向いた。そこで彼が見たのは、汗だくの男が全力でこちらへ走ってくる姿だった。そしてその男の手には、夕日に光る包丁が握られている。
男の顔が凍りついた。
「……え」
鄭傑はまだ叫んでいる。「待ってくださーい!」
だが商人の耳には別の意味に聞こえた。彼の頭の中で警鐘が鳴る。壊れた店、汗だくの店主、そして包丁。全部が一本の線で繋がった。
(まずい)
男は踵を返した。
「うわああああ!!」
全力で走り出す。鄭傑は驚いた。
「え!?ちょっと!」
さらに速度を上げて追いかける。
そんなもう速度で包丁を握ったままじゃ、音はすごく、それに当然商人は振り返り、そこで光景を見ては完全に恐慌に陥った。
「ひいいい!!」
悲鳴と共に少しふくよかな体型の男の顔は酷く歪む。
彼から遠くにいる鄭の名を冠する、いかにも不審者なこの男、白昼堂々と包丁を持って走る、この男、店主の鄭傑にもその引き攣った顔はよく見えていた。
「助けてくれえええ!!」
通りに悲鳴が響いた。
対するように鄭傑は必死で叫ぶ。
「違う!料理の話で――!」
シュ
ド
「おアー!!?」
そのときだった。屋根の上から影が落ちた。風を裂く音とともに何かが飛び、鄭傑の足元の石畳に突き刺さる。短刀だった。
彼が驚いて顔を上げると、屋根の縁から一人の女が飛び降りてくる。
石畳へ軽やかに着地するその姿は、まるで鳥が地面に舞い降りたように優雅で、または猫を彷彿させるように軽やか。音もしないようだった。
(ひっ!?)
彼女はゆっくりと立ち上がった。
長い黒髪が背中で揺れる。腰まで届く髪はまっすぐで、夕方の光を受けても黒いままの光を反射するほどにいい髪だ。
肌は白く、顔立ちは整っている。
鼻筋は細く、唇は薄い。
だがその美しさには柔らかさよりも鋭さがあった。まるで研ぎ澄まされた刃のような雰囲気だ。年の頃は二十代半ばほどだろうか。
濃紺の衣を身に着け、袖口は戦いやすいように締められている。
腰の革帯には三本の短刀が差され、背には細身の長剣。
ここにきてから鄭が見た王大虎に近い姿。
武を知っていそうな者の姿だった。
女はゆっくりと一歩前へ出る。
「下がるがいい。」
「あい!!」
シュ!
逃げようとした鄭傑の方角にまた短刀が飛んでくる。
「ぎゃ!」
それとは違い、商人らしき男はすぐにと逃げた。
女は剣の縄を解いてはそれを抜き、刃を掲げる。
夕日がその銀を赤く染めた。
「聞け!」
通りに澄んだ声が響いた。
「我が名は柳月華!」
彼女は刃を指し示し、鄭傑を見据える。
「晴天白日のもと、よくも人を襲うとは!」
そして一歩踏み込んだ。
「天に代わって成敗する!」
鄭傑は口を開けたまま固まった。
「……え?」
思考を整理するにも難しい次の瞬間、拳が飛んできた。
鄭傑が反射的に腕を上げて受ける。
骨が軋むほどの衝撃が走った。
「あっあっあー!」
女はすでに次の動きに入っている。回転しながら蹴りが飛び、
さらに短刀が閃く。鄭傑は慌てて包丁を上げて受けた。金属同士がぶつかり火花が散る。
「待っうあ!」
「ばびぶ――!」
弱い体が攻撃を受けて話すのは至極不可能であり、さらに、いくら話そうとしても柳月華の攻撃は止まらない。
拳、蹴り、刃。動きに無駄がなく、まるで風のように速い。
鄭傑は必死で防ぎながら叫ぶ。
「おま、殺す!」
(おま、やめてくれ!なんでいきなり殺しにきて、どうすんだよ!)
ぎん!
鄭が体内の謎のエネルギーで応戦し柳を弾き飛ばす。
意識してか無意識の動きか。それは彼にもまだ判断は難しかった。
「俺は祭師だ!」
大声での宣言、内心は確定していない。
(多分まだそうじゃないが!いつかなるから、どうだ!恐れろ!)
「ッッ!お前のような祭師こそ倒さねば!」
柳月華は冷たい声で言った。
「包丁を持って人を追い回す祭師ならば、悪賊!」
「なんだこいつ!」
驚いている隙に蹴りが腹に入る。
鄭傑はよろめいた。短刀が喉元へ迫る。その瞬間、遠くから怒鳴り声が響いた。
「止まれ!!」
足音、大人数だ。
通りの向こうから役人たちが駆けてくる。
先頭には古装劇に見る、捕頭のような存在か、背後には捕快が数名ほど。
まだ遠くへいけていない、少し丸顔の商人息を切らしてならが叫んだ。
「捕爺!お助けを!」
捕頭は状況を見るなり怒鳴った。
「往来で刃物沙汰とは何事だ!取り押さえろ!」
捕快たちが一斉に動く。
やがて鎖が飛び、鄭傑の腕に絡みつく。
(奇門兵器!?よく使えるな!?)
「イテッ!」
彼は引き倒され、石畳に押さえつけられた。
柳月華もまた三人がかりで取り押さえられる。
彼女は最後まで抵抗したが、数が多すぎた。やがて鎖で腕を縛られ、二人とも地面に座らされた。
捕頭が腕を組み、二人を見下ろした。
「往来で喧嘩とはいい度胸だ」
「両方とも連れて行け」
バッ
こうして鄭傑は役所の牢へ放り込まれることになった。
石の床は湿って冷たく、空気は黴臭い。夜になってから、牢番が松明を持って見回りに来たとき、鄭傑は壁にもたれてぼんやりしていた。
隣の牢には柳月華が腕を組んで座っている。
しばらくして彼女がぽつりと聞いた。
「お前」
「……はい」
「本当に追い剥ぎではないのか」
鄭傑は疲れた顔で答えた。
「だから...そうだ俺は鄭傑という、自己紹介遅れたが...鄭家食舗の店主だ。」
沈黙が落ちる。
やがて柳月華が小さく言った。
「……紛らわしい、包丁を持って追うな」
鄭傑は思わず叫んだ。
「忘れてたんだよ!」
そのとき牢番が近づいてきた。
「鄭傑」
「出ろ」
彼は顔を上げた。
「え?」
牢番は鍵を開けながら言う。
「釈放だ」
「石家の若旦那が口を利いた、罪には問わんそうだ」
鄭傑はしばらく呆然としていた。石家。そんな名前に心当たりはほとんどない。ただ牢番は肩をすくめて言った。
「運が良かったな」
「おお」
「まさかお前のような....男寵...?」
(殺すぞてめぇ!)
こうして鄭傑は牢を出された。怒りを秘めているものの、相手は数多く、彼はめちゃくちゃに殴られたくはないから、そのまま出ていくことになった。
(!?なんだこの感覚!?)
背中からゾワゾワした感覚があるする。
そんな彼の背後では、柳月華が静かにこちらを見送っていた。
(ただ視線を感じた....だけか…が...やはり俺の五感か何かが強化されている...?つうか何みてんだこいつ。)
「鄭兄弟!こちらだ!」
(うっ...)
見覚えのある人物だった。
「...」




