第一話 鍋気
頭の中にまだ会議室の残響がくる
――「この方案はダメだ、やり直し!」
――「時間が足りない? それはお前らの問題だ、根性を出さんか根性!」
――「来週までには結果を見せろ」
━━「いいか鄭傑!おい聞いてんのか!」
冷たく硬い声が、繰り返し、釘のように神経を一本ずつ打ち込んでくる。
(るせぇなぁ)
本能的に眉をひそめ、寝返りを打とうとしたが、背中に感じるのはオフィスチェアでも、会議室の固くて痛い折りたたみソファでもない、硬い木の寝台だった。
そう思っていると目が覚めそうになるのであった。
故に感覚も冴えてくるようになる。
だからか、次の瞬間、油脂と薪の匂いが混じった強烈な気配が鼻腔を直撃した。
(ぬ!)
思わずに目をカッ開きたくなる!鄭傑そう思った。
目を開けた瞬間、最初に思ったのは――
(誰だ、俺の顔に中華の出前ぶちまけたやつ!)
焦げてるというべき香りが混じった独特な匂い、いえば炭火特有のむせ返るような刺激さを想起させられる匂い。
それが一気に鼻腔を突き抜けた。
「くっ!ケホ!」
反射的に文句を言おうとしたが、言葉が出る前に乾いた空気に喉をやられて咳き込んだ。
「んだぁ誰だよ...コーヒーが..」
(それにしても..うち給湯室なんかあったか?んでインスタントコーヒーが煮詰まって焦げたような匂いでもねぇな...どちらかといえば...薪が爆ぜ、油が沸騰し...)
「おい、飯まだか!」
(そうそれ!これは飯の匂い!田舎のばあちゃん家の!鉄鍋と木べらがぶつかり合うときに立ち上る、あの調理場の匂いだ!)
「は?、じゃなんでうちのオフィスにこ...は?」
バサ
彼は勢いよく体を起こした。
視界が揺れた。
ありえないものを見たからだ。
天井はオフィスによくある白い鉱物の繊維板ではなく、年季の入った濃い色の木の梁。
木目ははっきりしていて、上にはすでに黒ずんだ干し肉が一連吊るされている。
梁の下は土壁、漆喰が不均一で、隅には煙で燻された暗い痕がある。
もちろん当人の鄭傑はここまで見ていない。
彼が思うのは。 「暗ッと!」
紙を貼った窓から陽光が斜めに差し込み、空気中の細かな埃がゆっくりと舞っていた。
鄭傑は三秒ほど固まった。
「……また会社で寝落ちした?」
(訳じゃないと思うけど..?)
反射的にポケットのスマホを探るが
ない。
ポケットは空っぽ
触れたのは厚手の粗布だけだった。見下ろして――全身が凍りついた。
青灰色の短い上着に長衫を羽織り、袖口は結ばれている。
立ち上がると衣の裾が揺れ、足元は布靴。
(ああ、テレビで見るやつだ〜っておい!)
現代の工業製品とは絶対に違う。
この服。
演劇用の安っぽい小道具ではなく、本当に長年履き込まれて、靴底が薄く、どう見ても本物の布鞋だ。
「は?...いや誰がやったおい!葉非凡!お前か!!?ただでさえ...たくよ鏡ぐらいしろよ用意、ドッキリならよぉ..」
「……くそっ」
思わず悪態をついた。
「う、うわ..」
ドタ
勢いよく立ち上がったことは運動にかけてる彼の体には答えたみたいで、彼は目の前が暗くなり、机の角にぶつかりそうになった。
しばらくして、なんとかして体を支え、周囲を見回す。
鏡は?
彼は自分の様子が気になっていた。油性ペンで塗られてないか、変に絵がないかとか。
「お、あった。なんだこれ?」
部屋の隅に、少々曇った銅鏡があった。彼は近づき、鏡の中の自分を見つめた。
顔は特に変ではない。
眉の形、鼻とか、あごのライン、左眉の幼い頃に転んでできた薄い傷跡まで、そのまま。
ただ髪型が違う。
髪は束ねられ、簡素な髷に結い上げられ、木の簪で留められている。
「……何これ?」
(ドッキリにしては手間かけすぎだろお前、てか昨日..寝落ちした?)
最後に覚えている記憶は、昨にオフィスビルの会議室。白いスクリーンにびっしりと並んだKPIデータ、上司が机を叩きながら「今四半期の目標は倍増させる」と叫んでいた。
ずっと徹夜続きだから、寝落ちしないように瞼を必死にこすりながら、マーカーを握っていた。
会議は深夜まで続いた。
その後デスクに戻り、窓の外に広がる都市の灯りの海を見た。そして――目の前が真っ暗に。
目覚めたらここだった。
記憶の欠落も、時間のズレもない。自分の銀行残高も、書きかけの企画書も、階下のコンビニの店員のおばちゃんの笑顔まで、全部覚えている。
「..?んじゃあ酒で潰れたわけでもないなら..なんでここにきた経緯が?運ばれたなら目が覚めて...るはず..」
「異世界転移?...タイムスリップ?」
その言葉が浮かんだ瞬間、自分で押し潰した。
中二的すぎる。
(アホか、アニメ見過ぎだわ)
深く息を吸い、冷静になろうと自分を叱咤した。
グ〜
腹が鳴る音だった。
(にしても腹減ったな...昨日からエナドリしか飲んでないもんなぁ..妙な格好だけで飯行くか。鍋包肉と行くか)
木の扉を押し開ける。
(ん?木の扉?)
外は通りだった。
青石板の道は踏み固められてつやつや光っている。道幅は狭いが賑やかで、両側には低い木造の店が並び、軒下に布の幌が下がり、さまざまな屋号が書かれている。
『李記湯餅』『王家肉舗』『福源酒楼』。
行き交う人々はみな、古装劇ドラマでしか見たことのない服装。
担ぎ棒を担ぐ者、驢馬を引く者、腰に刀を佩いた者もいるが、誰もが自然体で、演技だったらノミネート確定だ。
「どけこのぬけさく!」
「おっ」
馬車が彼の前をゆっくり通り、車輪が石を踏む鈍い音が響く。
電線はない。
看板もない。
現代の痕跡は一切ない。
鄭傑は扉の前で仁王立ちをして、背筋が徐々に冷えていくのを感じた。
ここは撮影所か?
(本当に大夏か...?ここ?)
さらに観察しようとしたとき、前方から騒がしい声が聞こえてきた。
「早く早く! 趙のおっちゃんが鍋を振るぞ!」
「遅れたら見れねえよ!」
「今日は火加減がキツイってよ、鍋気がちゃんと出るらしいぜ!」
「鍋気ってなんだ?」
「それも知らんかお前、俺も知らんけど」
「はは、なんだそれ」
(ツアォ....なんだこれ)
「ついに俺は狂ったのか?」
「ほら!、福源酒楼だったおっさんがまた鍋を振るぞ!」
「今日のあいつは『九転龍鱗魚』を作るってよ!」
「昨日は『火鳳朝陽羹』だったから、通り全体が蒸し熱くなったんだからな!」
「いや、あいつ勝手に福源名乗ってんだけど」
「まじで!」
(飯..?の名前か?...しただけで、気温が上がるっていったか今?)
彼は野次馬らの後をつけば、大勢の人がいた。
声が先にはかなりの人が集まっている。
なんとかして人混みに割って入った。
がっしりした体格の料理人が中央に立ち、袖をたくし上げ、鉄鍋を握っていた。
(うん、普通のおいたんに見える)
顔に無精髭を生やした中年男が鍋の前に立っているけど特に目が多いとかそんなことはないし。
服装も普通。
服は洗い古され、腰には油で黒ずんだ布巾を巻き、足元は泥と灰で汚れた布靴。
袖を肘までまくり、太い前腕が露わになっている。
見るからに普通の男だ。
「は?」
「趙のおっちゃん、今日は何だ?」
「魚だ」
料理人は顔を上げず、嗄れた声で答えた。
「九転」
誰かが笑った。
「お前も九転とか名乗るのかよ?」
「そうだわ!大きな酒楼で働いたからって、お前皿洗い係だろう!」
「見たくなかったら帰れ」
「つれないね、老趙」
周囲がどっと沸いた。
鄭杰は人群の後ろに立ち、視線を鍋に釘付けにした。
魚が鍋に入る。
油が爆ぜる音。
炎が一気に跳ね上がった。
その瞬間――
鄭杰の呼吸が止まった。
炎がおかしい。
ただ上へ向かって燃え上がるのではなく、何かに抑え込まれているように鍋の縁に沿って巻き上がり、形が異様に安定している。火の光が鉄鍋の内壁に映り、うっすらと流れるような文様を作っていた。
台が轟々と燃えている。
「起——!」
料理人が低く叫び、片手で鍋を振った。
鍋の中の魚肉が跳ねる。
次の瞬間
鄭杰の瞳が大きく見開かれた。
炎が三尺も舞い上がり、赤金色に輝き、火の中には羽のような文様が浮かんで、まるで翼を広げた火の鳥のようだった。
周囲の空気が急激に熱を帯びた。
見物人たちが一斉に声を上げた。
「火鳳だ!」
「見事な火鳳の勢い!」
料理人が再び鍋を振る。鍋杓が剣のように弧を描く。
「落——!」
炎が一瞬で収束し、細い糸のように変化して、正確に魚の身を包み込んだ。
香りが爆発した。
「なるほど...しかし九転ではなさそうだな」
一人の男、高そうな服を着た男が声を大きくして言った。
「あ、あなたは...」
料理人の男の震える声が聞こえた。
(にしても野次を超えて俺が聞こえ得る?いや、俺...全然ヘビーメタルとか聴きすぎて聴力下がってるんじゃ...)
「うおおおお〜!」
(...野次馬....すごい料理、すごい人数... そしてなぜか凄そうなやつも出てきた。これって)
シュー
「ん!」
なんだこの匂いはと言いたくなる。うねりたくなる。
ただの美味しそうな匂いではない。何か圧迫感のある、濃厚な気配。
魚が鍋から出されたとき、表面の鱗が微かに光り、本当に龍の鱗のように見えた。
誰かが思わず飛び跳ねたのを見た、柳葉刀を腰にかけているやつだ。
すごく高く飛んでいた。
(うぉ!高ッ!武侠?ワイヤーどこ!?カメラは!?)
「この料理は天に祭るに値すんじゃないか!趙!」
鄭傑の頭の中が鳴り響いた。
祭天?
彼はその料理を凝視した。
これ?仙人がいるタイプ?
彼は一歩後ずさった。
心臓がさらに速く打つ。
「落ち着け……落ち着け……」
(そうだ、どうせ...ドラマ...)
頭の中で、これまで読んだ小説や映画のシーンが次々と蘇る。
主人公たちはよくこういうところにきて最初は信じないようにしていた。
(いやバカな...)
異象。
炎が形を成す。
飛ぶ人。
CGには見えない。
(ま、まさか本当に...)
祭天。
まさか……
(仙侠?いやいや、きっとドラマだ)
考えていると、すぐそばで二人の通行人が小声で話していた。
「今年の秋祭、城主は『百味供』を用意したそうだ」
「もし上品な霊膳を一つでも出せれば、天光を引けるかもしれない」
「残念ながら俺たち凡人には、遠くから眺めるしかないがな、武功極まれば入道とかあるとか...」
「バカかお前、それ説書の系だぞ、嘘嘘」
霊膳。
天光。
鄭傑の呼吸が一瞬止まった。
もう一度その料理人を見ると――今は目を閉じ、調息しているようだった。
鍋底の炎は徐々に収まっているが、鄭傑にははっきりと見えた。あの炎はただの薪の火ではなく、料理人の体内から引き出された何かの気によるものだった。
あの料理人は、ただの料理人ではない。
(どう見て超能力...とか魔法の類...)
(もう...ドラマじゃないとしか...なんでこんな...いや)
彼は突然悟った――
(ブラック勤より百倍マシじゃねぇ?!)
顔を赤くして考える
(そうだよ!それに、長生不老とかもありえて!ん...でもなんで料理?)
いや...もしここが仙侠世界なら、「料理すること」は単なる技術ではなく、修行そのものかもしれない。
「万千大道とか言うのもあるし...それか?」
鄭杰の頭が高速で回転する。
「……でもどうやって生き延びる?」
そのとき、酒楼の中から騒ぎが聞こえてきた。
「早く! 城守府の者が来たぞ!」
黒い甲冑をまとった兵士の一団が酒楼に入ってきた。腰には長刀、神情は厳粛。
先頭の男が高らかに告げた。
「城主の命により、すべての祭師を集める、力は問わない...いや鍋気なれずとしてのものも、必要だ。」
一同が粛然となる。
(祭天……祭るのか?確か歴史の授業で習った...祭祀は、料理も重要とか...)
しかしすぐに鄭の思考は途切れる。また人混みが湧き立っていたからだ。
(いや人が多すぎる、一旦引く)
彼は人混みからふらついた足取りで離れた。
(俺の身体能力じゃ多すぎる人混みに押しつぶされるからな)
「うん、屋内に戻っても現代じゃないな」
相変わらず木造の建築。
そして外の人を見てもドッキリじゃありえない。
金が掛かりすぎてもとの取れるものじゃない。
(バラエテでも無理だろうこれは...とすると..)
脳裏に昨夜の会議室の光景がフラッシュバックする。
上司の冷たい声、同僚の無表情、モニターの青い光。
彼はふっと笑った。
「今さらKPIのことなんか考えてる俺……」
今の問題は業績じゃない。生き残ることだ。
情報が必要だ。
「まず..俺は誰なんだ?自分の体のままか?」
衣の内側を探ると、木の札が出てきた。
そこには刻まれていた。
鄭傑。
その下に小さな字で『鄭家食鋪』と
彼は呆然とした。
「同姓同名?」
(いや、あれか!?パラレル...?転生!)
ボタ
「ん?これ昨日飲んだエナドリ!?」
だとすると『まるごと』ここに来たのか?
何にしろ『鄭家食鋪』に行かなければならない。
名前の下にあるものを推理しておそらくは何かの食事の...
(レストランだな)
通りすがりの人に尋ねると、すぐに道を教えてもらえた。
「すぐ先の角を曲がったところだよ」
鄭傑はその店の前に立った。
小さな店だ。
入口に簡素な幌がかかり、「鄭家食鋪」と書かれている。
扉を開ける。
中は誰もいなかった。
竈、作業台、数個の鉄鍋。壁には包丁が掛かっている。
空気にはまだ米の香りが残っていた。
(やはりレストラン、食事所...問題は...金だ)
机の上に帳簿が置いてある。
鄭杰がめくると、毛筆の字が並んでいたが、不思議と読めた。
この世界の文字は、彼の知る漢字と極めて近い。
帳簿の内容はシンプルだった。
昨日収入:三十文。
支出:薪五文、魚肉十文。
彼はほっと息をついた。
「少なくとも借金まみれじゃないだけマシか……てか世界は違えど金は重要なんだわな」
(でもなんでだ...収入多くないのに...通りすがりでもわかるのか?廃れてない?俺の代で問題が?)
いやそもそも一番の問題は――
彼は料理ができない。
せいぜいカップ麺を沸かす程度だ。
もし普通の古代なら、なんとか日々をやり過ごせたかもしれない。
だがもしここが――
超能力とかありの世界観なら?
そのとき、外から足音がした。
「鄭兄!」
声の主はすぐにきた。
若い男が勢いよく入ってきて、爽やかな笑顔を向けた。
服装は清潔で、鄭杰を見る目からして長い付き合いのように見える。
「探しましたよ、今日こそ『聚気湯』を試すはずでは?」
(何を言って...どう答えるか...)
しばらくの沈黙
「今日はどうか?なぜ、そんなにぼーっとして」
若い男は笑いながら言った。
「さっきの魚です...または城主様の..?」
鄭傑は口を開いた。
無数の考えが頭の中で渦巻く。
結局、絞り出したのは一言だけだった。
「……ちょっとな...」
相手は疑う様子もなく、近づいて声を潜めた。
「城中のあの厨会....兄台がもし湯の中で気を引けたら、鍋気さえあれば...きっとただの補佐...『打下手』ではなく『食院』に入っては...祭師の修行も....」
鄭傑の心臓が締め付けられた。
だが顔には平静を装って。
「……ん?」
鄭傑の頭の中で爆音が響いた。
食院。
修行。
やはりそうだった。
彼はその男を見つめ、ゆっくりと言った。
「お前は……俺に可能性あると思うか?」
相手は大笑いした。
「鄭兄、昨日は火すら安定させられなかったのに、今日はそんなこと聞くのか? まさか仙人にでも、夢で会ったんじゃないだろうな?」
「い、いや」
「いいですか、まずは鍋気が先です、言うのもなんですがこちらもそのために鄭家に...まぁ、ともはかくとも、鄭兄台の奮闘を祈ります。」
その後、鄭傑は頭を絞っては彼と会話をして、なんとかなぁなぁで済ませた。
(仙人か...)
胸の奥に奇妙な興奮が湧き上がるのを感じた。
オフィスビルの日々は、もはや前世のようだ。
今、目の前にはまったく新しい可能性が広がっている。
(もし修行できるならば...俺の...子供の頃からの夢も...)
彼は自分の手を見下ろした。
白く、弱い手。
料理どころか、卵すら持てなさそうな細くて弱い
「せっかく来たんだ……」
口元がゆっくりと上がる。
ヒューン
「うっ」
空いている扉から風が吹き抜けてくる。
「寒い...まぁ、まずはここの繁盛を目指さなきゃ餓死ぬか...」
「仙人目指すのも簡単そうじゃないつうか...まぁ仙人は俺に無理だろうなぁ...別に俺は天才だったわけでも」
そう言って鄭はここのかたつけをし始める。
しかし鄭傑はまだ知らない。
やがて自分の名が、「食仙』として名高く世に知られることを。




