第7話 伝えることの大切さ
気付けば、目の前にあるのは、まな板の上にころんと置かれたお茄子と鋭利な包丁。ああ、戻ってきたんやな。柳田真千子はぽつりと思った。
20年以上振りに行けたあのカフェは、厨房に立っていたお嬢さん以外、ほとんど変わっていなかった。いちばん驚いたのが、あの美形な男性の見た目の変わらなさ。あれで自分とあまり年齢が変わらないのだから、本当に驚きだ。ちょっぴり羨ましいなんて思ったりもする。自分はもうすっかりとおばさんなのだから。
真千子は両の掌をじっと見つめる。力がみなぎっている気がした。私はできる、言える。気合いを入れる様にぐっと拳を作る。
そのときだった。
「おい、昼めしはまだか?」
夫、正彦さんの声が響いた。居間で呑気にテレビを見ているはずだ。今日は土曜日なので、お仕事は休みである。
正彦さんももうすぐ定年退職だ。そのあとどうするのかはまだ決めていないみたいだが、もし隠居するのなら、こんな毎日が死ぬまで、もしくは高齢者施設などに入るまで続くということだ。正直言ってまっぴらごめんである。
あのカフェに行くまで頭を巣食っていた熟年離婚への思いは和らいでいるが、それとこれとは別だ。何としてもこの状況を脱したい、その考えは変わらないのだ。
真千子はお茄子をナイロン袋に入れ直して、冷蔵庫に収めた。包丁とまな板も片付けて。そして居間に向かって。
「お昼は外で食べます」
正彦さんに向かってきっぱりと言った。すると正彦さんはむっとした様に顔をしかめる。
「何言うてるんや。わしは外食嫌いやて言うてるやろ」
「だって、めんどくさいんやもん」
真千子は怯まず言い切った。すると正彦さんは「え」とぽかんとする。
真千子はこれまでの真千子とは違う。あのカフェと皆さんに力をもらったニュー真千子だ。それこそ離婚に発展しても構わないと、強い態度に出た。
「毎日毎日、20年以上も1日3食作り続けるなんて、めんどくさいに決まってますやん。あなたは週に1日、今やったら2日お休みがあるけど、私には無いんですよ。ごはん作って洗い物して、洗濯して掃除してあなたと子どもの世話して。もううんざり、限界なんですよ」
正彦さんは呆然としている。本当に、本当に想像もしていなかったのか、妻である真千子の労力や苦労を。いったいこの人はこれまで何を見てきたのか。……見ていなかったのだな、と思い知る。
「正直ね、妻に苦労ばっかり掛ける夫はいらんし、外食もさせてくれん甲斐性無しにも用は無いんですよ。あなたが行かへんでも私は外食に行きますから。あなたはカップラでも食べといてください。お湯は自分で入れてくださいよ」
うちにカップラーメンなんてあっただろうか、と思いながら、真千子はばっさりと言い捨てた。もし正彦さんに文句でも言われようものなら、本当にひとりで外食に行くつもりだった。
真千子が知っている近くのお店は喫茶店やカフェぐらいだが、駅前に出ればいろいろとお店はある。焼き鳥とか焼肉とか、お店で食べたかった。久々にお酒だって飲みたい。ああでも、今はお昼だからそういうお店は開いていないかも知れない。それならまた正彦さんを置いて夜に出かければ良いだけだ。その前に離婚かも知れないが。
すると正彦さんは呆然として。
「そんなにしんどい思いしてるなんて、思いもせんかった」
そんな呟きを漏らした。本当に思いもよらなかったのだろう。
「あなたかて、20年以上も休日無しでお仕事やったらしんどいでしょ? 私はそれをしてたんですよ。そりゃあ今は子どもたちも独立したから前よりは時間あるけど、あなたは一切家庭を顧みんかったから。双子の子育ての辛さとか、分からんかったでしょ?」
「自分の子らの子育てが辛いって」
正彦さんは気分を害した様だ。だがおむつ替えのひとつもしなかった正彦さんに何か言われても、痛くも痒くも無い。
「そりゃあ子どもらのことはめっちゃ可愛い。でも授乳と夜泣きでろくに眠れんで、ふらふらになりながら家事とあなたのお世話もして。辛くないわけ無いやないんですか?」
正彦さんは愕然とした表情になる。想像力の欠如、本当にそうなのだな、としみじみ思う。
「ごはんも、毎日お休み無しで作ってたらそりゃあしんどいです。私かて上げ膳据え膳さして欲しいですわ。あたなは行きません? そしたら私は行ってきますね」
真千子はエプロンを外してダイニングの椅子に掛けると、リビングのチェストからいつも買い物に行くときに持っていく、財布やらが入ったバッグを取り上げて腕に掛けた。
正彦さんを見もせずに玄関に向かうと、正彦さんは「ちょ、ちょお待って」と慌ててついてきた。
「来るんやったらテレビ消してくださいね」
真千子さんが冷静に言うと、正彦さんは焦ってリモコンでテレビを消した。家の中が静かになる。真千子さんがリビングやらの電気を消して。
駅前に向かって、住宅街をふたり並んで歩く。正彦さんはどこか怯えている様でおどおどしている。
真千子はこれまで1度だって、正彦さんに反抗する様な態度を取ったことは無かった。従順といえば聞こえは良いのかも知れないが、ただ単にその考えが無かっただけだ。食べさせてもらっているのだから、尽くすことだって幸せのひとつだと思っていたし、結婚前にはそうしようと思っていた。
それこそ時代の洗脳と言えるのかも知れない。夫婦とは対等なもの、カフェのお嬢さんはそう言ってくれた。なら真千子が意見をしたって良いはずなのだ。
歩きながら真千子は、言ってやった……! そんな達成感、充実感に包まれていた。そして言って良かったのだと、しみじみと感じていた。正彦さんは何も言い返さず、きっと正しくは言い返せず、こうして一緒に来ているのだから。
「真千子、ごめん、まさかそんな負担になってるとか、苦労さしてるとか思わんで、あの」
正彦さんは隣でそんなことをぼそぼそと言う。真千子は小さく息を吐いた。
「分かってくれたらええんですよ。これからは最低でも週に1回は外食ですからね。嫌やて言うたら置いて行きますからね」
「分かった……」
うなだれる正彦さんがまるで大型犬に見えて、真千子は思わず噴き出しそうになってしまったのだった。




