第4話 世界を変えるために
柳田さんのお話を聞いた清明お祖父ちゃんは、「う〜ん」と渋い顔をした。
「わしはちょっと、あんま賛成できひんなぁ」
「そう、ですかね……?」
柳田さんは不安げな表情になる。賛成されるかどうかはともかく、反対されるとは思わなかったのかも知れない。羽菜も清明お祖父ちゃんが異を唱えるのは意外だった。
常に時代に沿って、価値観をアップデートしている清明お祖父ちゃんである。今や熟年離婚は珍しいことでは無い。昔の価値観に当てはめられて長年我慢して来た人、特に女性が多いということだ。もちろん昔だって、女性が虐げられて良いはずが無い。だが悲しいことに、そんな時代が確かにあったのだ。
柳田さんのお話しか聞いていないから、旦那さまの言い分は分からない。だが、少なくとも数十年も渡って外食も中食もさせてくれない旦那さまなら、窮屈になってしまっても仕方が無い。
あ、もしかしたら清明お祖父ちゃんは、お金の心配をしているのだろうか。だが年金が受給される歳になると、元夫婦であっても分割されて受給されると聞いたことがある。財産分与だってあるだろうし。
お子さまにお金を使う場面もたくさんあっただろうが、もう年齢的に老後を見据えていてもおかしく無い。それなりの貯金があるのでは、なんて下世話な想像をしてしまう。旦那さまが稼いだお金でも、それは世帯のお金。奥さまである柳田さんにも等分の権利があるのだ。
年金分割の正確な割合などは羽菜には分からないが、もし年金が充分な額で無くとも、きっと柳田さんはまだお仕事ができる年齢なのだと思う。今はご高齢でもお仕事をしている人はたくさんいる。
長年専業主婦でいた様なので、働けと言っても難しいかも知れない。だがそれが離婚するということなのでは無いだろうか。ひとりになる覚悟、自分で自分を食べさす覚悟。それが必要不可欠だと思うのだ。
「確かにな、毎日3食の飯炊きは大変やわ。それが何十年も続いたら嫌になるんも分かる。昭和の男やったらやってもろて当然て思ってるんもおるわな。けどな、柳田、尽くす日々は、不幸やったか?」
清明お祖父ちゃんに言われ、柳田さんははっと目を見張る。
「前来たとき言うとったよな。将来結婚したら伴侶を支えて尽くしたいって。せやからそうしてきたんとちゃうんか?」
柳田さんは憑き物が落ちた様な顔になる。そうか、前に来たときにはそんなお話をしていたのか。当時はまだ未婚で、お相手にも出会えていなかったから、結婚生活に夢もあったのかも知れない。
羽菜の感覚では、尽くすことはあまり過剰にすべきことでは無いと思っている。支えるのと尽くすのは違う。自分のことは自分で。羽菜にとってはそれが当たり前のことなのだ。
そういう意味では羽菜のお父さんは現状を不満に思っているだろう。お母さんは決してお父さんを甘やかさない。お世話を頼まれても「自分でやり」とぴしゃりと言う。正直自分のお茶も自分で淹れられない様な人は、もしくは淹れない人は、羽菜の人生には要らない。そこまで言い切ってしまう。
だが、旦那さまやお子さんの全てをやってあげることに、幸せを感じる人だっているのだろう。それを否定するつもりは無い。
柳田さんはもしかしてそういうタイプなのだろうか。それなら毎日のごはん支度が苦痛になるというのは矛盾な気もする。いや、それも数十年が重なれば嫌になるのだろうか。
「……正直、夫に尽くして最初は幸せでした。でもそれを当たり前に思われて、感謝もされずにおったら、いくら私でもしんどなります。私、自分が思ってたより利己的やったんかも知れません」
柳田さんは消沈してしまうが。
「いや、何かしたげて感謝が無かったら悲しなる人も多いやろ。でもな、そうして旦那を調子に乗らしてしもたんは、紛れも無いお前さんや」
柳田さんは息を飲む。清明お祖父ちゃんは冷静に続けた。
「男ってな、阿呆が多いんや。いっくらでも調子に乗るしつけあがる。旦那もそうなんやろ。そうさしてしもたんはお前さんやろ。旦那さんに何かひとつでも反抗とかしたことあるか? 何でもはいはいて聞いてたんとちゃうか?」
図星だったのだろう、柳田さんはうなだれる。
「支えるとか尽くすとかは、そういうことや無い。言いなりになることや無いんや。言うてやれば良かったんや。飯炊きめんどくさいって」
虚を突かれたのか、柳田さんは唖然となった。そうだ、言ってやれば良い。誰にだって心はあるのだから、粛々と言うことばかりを聞いていられるわけが無い。全て旦那さまの言いなりになるのなら、それは都合の良いロボットである。もしくは家政婦だ。
しかし、やはり清明お祖父ちゃんは、柳田さんと旦那さまを離婚させたく無い様だ。お祖父ちゃんにしか分からない事情があるのか。
そのとき、羽菜は思い出す。ここしばらくの間、このカフェに来る人はことごとく呪いを受けていた。もしかしたら、柳田さんもそうなのかも知れない。
呪いの影響で離婚したいと思ったのなら、確かにそれは止めなければならない。多分衝動的なもので、先のことを何も考えていない可能性がある。清明お祖父ちゃんはそれを分かっているから、こうした言動なのだろう。
羽菜に何ができるだろうか。言えるだろうか。結婚経験の無い羽菜に、夫婦の機微は分からない。それでも、何か。
「私は結婚してへんので、細かいことは良く分からんのですけど」
羽菜は言葉を探す。柳田さんは縋る様な目を羽菜に向けた。
「夫婦関係も、人間関係のひとつで、特にご夫婦っちゅうんは、対等や無いとあかんのとちゃうんかなぁって思うんです。お金を稼ぐことも、お家のお仕事をするのも、どちらも大変で偉いです。どっちが上とか下とか、そんなん無いはずやって思います。お祖父ちゃんが言うた調子に乗ってるって、それやったら、旦那さまはご自分が上やって思ってはるってことですよね? それがおかしいんやって私は思います。おかしいて思ったらはっきり言うてもええと思うんです。毎日毎日ごはん作るん、大変ですよね」
「それは、はい、そうですねぇ」
柳田さんは少し戸惑っている様に見える。柳田さんのお話を聞いていて薄っすらと思ったのは、柳田さんは自分を旦那さまより下だと、無意識に思っているのでは無いかということだ。そんなはずは無い。休日の無い家事育児を何年も続け、旦那さんに尽くしてきた柳田さんが下なわけが無い。
そもそも夫婦の間に上下を付けるのがおかしいのだ。羽菜の両親を見ていても思うが、どうも男性は家事育児を軽く考えている節がある。男性には想像力が足りないなんて聞くことがあるが、休みなしの労働なんて、辛いに決まっているでは無いか。
「さっきのお祖父ちゃんや無いですけど、言うてええと思いますよ、ごはん作るんめんどくさいって。それで旦那さまの機嫌が悪くなったりする様なら、離婚とかはそれから考えたらええと思います。私、せっかくここまで結婚生活続けたんやからとか、そんなんは言いませんし思ってません。新しい道はいつからだって作ることができるて思ってます。せやからまずは、お家の中でできることをやってみませんか?」
柳田さんは驚いた様に目を見開いた。柳田さんの中には無かった価値観、行動なのだろう。柳田さんにはぜひ新しい世界を見て欲しいと、羽菜は思うのだった。




