第7話 心地の良い職場へ
気付いたら、岡安武雄は大阪メトロ御堂筋線淀屋橋駅のホームにいた。淀屋橋は大阪屈指のビジネス街で、京阪電車への乗り換え駅ということもあって、乗降者数も多い。淀屋橋駅は上りと下りのホームが一緒になっているので、通勤時間帯は余計に混雑するのだ。
今は平日の昼過ぎだが、それでも人が多かった。外出中の営業マンなども多いのだろう。そんなところでぼんやりしていては迷惑だ。武雄は慌てて隅っこに走り寄る。そして、今までいたはずのカフェのことを思い出す。
あれは、夢やったんやろか。
現実感はしっかりとある。温かなレモネードと卵雑炊、パイナップルをごちそうしてもらって、今もお腹が久しぶりにぽかぽかしている。だが腕時計で時間を見てみたら、時間はほとんど経っていなかった。
どちらにしても、自分があのカフェで癒されたのは確かなのだ。
また今日も叱責されるかも知れない。そう思うと気が重いが、少し力が沸いた。あと少しがんばってみよう。武雄は息を吐きながらも拳を握り締めた。
駅から少し歩いたところにあるビルの1フロアが、武雄の職場である。
「ただいま戻りました。って、あれ?」
社内が騒がしかった。戸惑う様な声があちらこちらから聞こえる。そんな中に「小坂課長が」というものもあった。小坂課長とは件の人である。
武雄は慌てて自分の部署がある一角に向かう。すると小坂課長を除く主任や同僚たちが、立ったまま顔を突き合わせて何やら話していた。
「戻りました。何かあったんですか?」
武雄が聞くと、若い女性の柿谷さんが駆けてくる。肩まで伸びたボブカットが跳ねた。
「岡安さん、あの、小坂課長の移動が決まったみたいで、あの」
途中まであった勢いがしぼんでいき、最後にはまごついてしまっている。あとを引き受けたのは、先輩男性の針金さんだった。細い首筋を掻きながら。
「小坂課長、移動になるらしいで」
「え? この中途半端な時期にですか? 何でまた」
「コンプラ違反の訴えがあったんやて。そんでみんなで話しとったんや。誰なんやろって」
コンプライアンス違反。ハラスメントもこれに含まれていて、武雄たちが小坂課長に晒されていたものも、これに確かに当てはまる。
「え、僕やないですよ」
「あー、岡安もちゃうかぁ。ほな、誰なんやろな。ちゅうても犯人探ししてもしゃあないんやけど。確かに大ごとにはしたか無かったけど、俺らが助かったことは確かなんやし」
「そう、ですね」
武雄は不思議な思いに駆られた。あの夢の様なカフェで和ませてもらい、おまじないをしてもらって、現実に戻った途端に状況が改善に向かおうとしている。
因果関係なんてものは分からない。本当にあのおまじないが効いたのか、それともたまたまだったのか。
そう言えば、あのカフェにいる人が言っていた。「巻き込まれたのだろう」と。それがもし小坂課長のことだったとしたら。
「小坂課長は今どこに?」
「人事とかちゃう? 移動になるんやったら」
「その前にコンプラ対策室ちゃいます? 何や注意とかそんなん受けはるんやと思うんですけど」
針金さんと柿谷さんが応えてくれると、武雄は「ちょっと行ってくる」と、自分のデスクにビジネスバッグを置いて部署を後にした。
まずはコンプライアンス対策室に向かう。するとそこの室長である女性の畑中部長が小坂課長に訓告を行なっていた。
凛々しい黒いパンツスーツの畑中部長はそう強く言葉を発しているわけでは無かったが、小坂課長はうなだれて、ただただ黙ってそれを受けていた。
「畑中部長、小坂課長」
武雄が声を掛けると、ふたりの視線が武雄に注がれる。小坂課長はすっかりと憔悴していた。気の毒になるほどだ。
「岡安くん、大変やったらしいなぁ。もう大丈夫やから」
畑中部長のねぎらいに、武雄は「え、いえ」と応えるのがやっとだった。つい勢いで来てしまったが、どうしたら良いのか武雄は戸惑ってしまう。
「小坂くんは別部署に移動になる予定やから」
「あ、あの、僕、小坂課長に話を聞きたくて」
「ん?」
畑中部長はきょとんとする。小坂課長がはっと目を見開いた。武雄を見る目に拒絶の色は見られなかった。むしろ。
「悪かった、岡安くん。ほんま、自分でも何であんないらいらしとったんか分からへんねや」
そう言って頭を深く下げた。これには武雄も面食らってしまって。
「課長、頭を上げてください」
慌てて言うが、小坂課長は微動だにしなかった。
「何や、反省はめっちゃしてるんや。せやけどあったことはあったこととして、処理せなあかんからな」
畑中部長が言いながら溜め息を吐く。
「言うても信じてもらわれへんかも知れんけど、会社に来ると無性にいらいらしてしもて、特になぜか岡安くんの顔を見たらそれがピークに達して、怒鳴り散らしてしもたんや。ほんまに申し訳無いことをした。すまんかった」
小坂課長が絞り出した言葉を、武雄はすんなりと受け入れることができた。あのカフェにいたからだろうか。現実感があるのに、まるで幻かの様だったあのカフェ。明らかにあのカフェが転機になっている、そんな実感があった。
「分かってます」
武雄が言うと、小坂課長は「え?」と顔を上げた。その顔は呆気にとられている。武雄は小さく笑みを浮かべた。そのまま視線を畑中部長に移して。
「部長、僕は大丈夫です。課長ももう大丈夫なはずなんで、処分とかは待ってもらえないですか?」
お願いします。武雄はそう言って畑中部長に頭を下げた。畑中部長は「へ?」と間抜けともいえる声を上げた。
「嘘やん、岡安くんがいちばんきっつぅされとったって聞いてるで。そりゃめっちゃ反省はしてるけど、昨日今日でそんな変わらんやろ」
小坂課長は呆然としている。まさか武雄に庇われるなんて思いもしなかったのだろう。武雄にいちばん強く当たっていた自覚もあるのだし。
「岡安くん、何で」
小坂課長の力の無い声。武雄はゆったりと微笑んだ。
「ほんまに、もう大丈夫なんやと思うんです。せやからもう少し待ってみてもらえませんか?」
畑中部長に言うと、部長は「うーん」と唸る。
「岡安くんがそう言うんやったら、様子見してもええけど、でもそれと処分は別や。あったことはあったこととして、減給なりなんなりはせなあかん。もう1度検討するわ。ほな、とりあえず小坂くんも岡安くんも自部署に戻って。小坂くん、様子見せてもらうからな」
「はい! ありがとうございます」
「はい」
小坂課長は威勢良く返事をし、武雄と並んで部署に戻る。
「岡安くん、ほんまに済まんかったなぁ。私、もうあんなことせんから。今岡安くん見ても、全然いらいらとかせぇへん。あれはほんまになんやったんか。しかも会社におるときだけや」
「大丈夫ですよ。部署のみんなにも事情を説明しましょうね」
神妙に謝る小坂課長に、武雄は安心してもらえる様に穏やかに言った。
きっと、武雄には及びもつかない様な何かが働いていたのだと思う。こんなこと、あの不思議なカフェに行かなければきっと納得できなかった。きっとあの綺麗な男性がしてくれたおまじないが効いたのだ。だから誰かは分からないが訴えてくれ、事態は好転したのだ。
それからは、充実した会社員生活になった。小坂課長はもちろん理不尽に怒らないし、部署みんなで協力して仕事ができている。食欲も戻り、顔も以前の丸いものに戻った。
あのカフェに行けて良かった。また行けるだろうか。あらためてお礼が言いたい。だが、もう行く様なことには陥らない方が良いのだろうな、武雄はそんなことを思ったのだった。




