第8話 晴れやかな心
気を取り直した井上さんは、ナポリタンのお皿をすっかりと空にした。
「ごちそうさま! ありがとうね、美味しかった」
井上さんはカトラリーをお皿に置き、笑顔で手を合わせた。
「良かったです」
羽菜は心底ほっとする。ナポリタンを褒めてもらえるのもそうだが、清明お祖父ちゃんの年齢どっきりから立ち直ってくれたのが、本当に何よりである。もう、清明お祖父ちゃんは悪趣味なことはほどほどにして欲しい。
「食後にコーヒーとか紅茶とかどうですか?」
羽菜が言うと、井上さんは「んー」と迷う素振りを見せる。
「できたら帰って、歯ぁだけ磨いてすぐに寝たいから、もう1杯何かお酒欲しいな。酎ハイって焼酎やんな。それでなんか作れるやつある?」
「そうですねぇ……」
酎ハイレモンはできる。だが他に何か。ここにあるものでできそうなものは。
「コーラはお好きですか?」
「嫌いや無いけど、普段はあんま飲まんなぁ」
井上さんはきょとんとして小首を傾げる。
「ほな、試してみはります? あっさりいただけると思いますよ」
「そうなん? そんなら任せるわ。よろしく」
「はい」
羽菜はにっこりと微笑むと、新しいグラスを出して氷を詰めた。そこにいいちこを入れ、コーラを注ぎ、レモン汁を数滴垂らして菜箸でステアした。
「お待たせしました。麦焼酎のコーラ割りです」
「ありがとう」
井上さんはさっそくグラスを傾ける。羽菜は空いた食器を素早く引き上げた。
「あ、美味しい。焼酎の味をうまーく打ち消して、でも少しお酒感があって、レモン? の酸味がええ感じにコーラの濃さを和らげてる」
よっしゃ! 羽菜は心の中でガッツポーズを作った。
「良かったです。レモン汁入ってますよ。それだけでコーラの印象、大分変わりますよね」
「うん。これはええわ。うちでもやろ。焼酎ってなんでもええん?」
「これは麦焼酎のいいちこっていう銘柄使ってます。でも他の麦焼酎でも、お好きなのを使ってもらえたら。芋焼酎は癖があるので、お酒の味が好きや無い人には向かんかも知れません」
そう言いながら、羽菜は芋焼酎も好きである。飲み方はロックが好みだ。ちなみに清明お祖父ちゃんは日本酒が大好きである。
「麦焼酎とか買ったこと無いわ。何やまた大人になった気分。楽しみやわ」
井上さんの表情はわくわくと高揚している様に見える。ああ、傷付いてしまった心が、少しでも癒されてくれているのなら。それこそがこのカフェの存在意義だと感じる。
ここは清明お祖父ちゃんが常にいて、大阪府の陰陽師の駆け込み寺である。陰陽師の仕事は府市政の手助けだけでは無い。現実に超常現象に悩まれている人だって多い。そんなときに清明お祖父ちゃんの手腕は発揮されるのだ。
現代人の悩みに、清明お祖父ちゃんの時代の価値観では合わない。それでも清明お祖父ちゃんは陰陽師たちのお話を聞いたり、テレビやネットを見たりしてアップデートを試み、羽菜たちに寄り添おうとしてくれている。
このカフェは陰陽師の血縁にしか開かれていない。そんな限定的な空間だからこそ、ご縁があるのなら、できる限りのことをさせてもらいたいと。それは羽菜も清明お祖父ちゃんも同じ思いだった。清明お祖父ちゃんはやんちゃだが、それは本心だった。
「お気に召してくれはったんやったら良かったです」
羽菜はつい泣き笑いの様な表情になってしまう。だが井上さんはそれには気付かないと言う様に、朗らかに微笑んだ。
麦焼酎のコーラ割りを飲み終えた井上さんは席を立つ。
「ほんまにありがとう。ごちそうさま。めっちゃ癒されたわ」
「良かったです。今日はゆっくりおやすみくださいね」
「うん。めっちゃ良う寝れそう。いくら?」
井上さんはバッグからブランド物の黒い長財布を出したのだが。
「ここはお代をいただかんお店ですので」
「え、何で?」
井上さんは目を丸くするが、羽菜は笑みを崩さない。
「ここはそういうお店なんです」
「嘘やん、ほんまにええん? あとで法外な額の請求書が届くとか、あれへん?」
「ほんまに無いですよ。安心してください」
「んー、ほな、お言葉に甘えようかな。ありがとう。いろいろ、ありがとう」
井上さんはさっぱりとした気性の女性なのだろう、あまり長引くことも無く引いてくれた。正直助かる。大阪のおばちゃんとなると「私が払うて!」「いやいや私が」の押し問答が呆れるほどに続いたりする。あ、でも「タダやで」には素早く乗っかる、それもまた大阪のおばちゃんなのだ。
「いえ、こちらこそ、ありがとうございました」
ここに迷い込んできた人に、羽菜ができることは少ない。ごはんを作って、お話を聞くことぐらいだ。それでも少しでも井上さんの心が癒されているのなら僥倖である。
井上さんがドアに向かってくるりと身体の向きを変える。すると、清明お祖父ちゃんが立ち上がった。
「井上、ちょお待て」
井上さんが振り返ると、清明お祖父ちゃんは真剣な表情で、井上さんの額に右の人差し指と中指を押し付けた。
「え、何?」
井上さんはうろたえる。羽菜も驚く。だが清明お祖父ちゃんは構わず手を組んで、両の人差し指を立てると、自身の息が掛かる位置に持っていった。
そして。
「……其は理にあらず、めしませ、めしませ、急急如律令」
言い終えたその瞬間、何かが弾けた様な音がした。これはまさか。
井上さんには聞こえなかった様で、「は? え?」と目を瞬かせている。清明お祖父ちゃんはにやりと口角を上げた。
「ま、まじないみたいなもんや。これから井上が幸せになる様にな」
井上さんは一瞬呆気に取られた様な表情になるが、すぐに「あはは!」と笑顔になった。
「ありがとうございます! はい、私は絶対に幸せになりますよ。また来ますね!」
そう言って、颯爽とカフェを出て行った。恐らく、もう2度とこのカフェに来ることは無いだろう。そうであって欲しい。同じ大阪に暮らしているのだから、お外でばったり会うことはあるのかも知れないが。
「清明お祖父ちゃん、最後のあれ、まさか」
羽菜が聞くと、清明お祖父ちゃんは「ふん」と鼻を鳴らした。
「井上は呪いを受けとった。それを解呪したんや」
羽菜は衝撃を受ける。あの井上さんに呪われる要素などあったのだろうか。とてもそんな人には見えなかった。未熟な羽菜が見抜けなかった何かがあると言うのか。
「多分井上は何も悪くあれへん。ま、大体の予想は付くわ」
清明お祖父ちゃんは冷静に言って、いつもの席に掛けた。それ以上は何も言うつもりは無い様で、口をつぐんでしまう。そうなるともう何を聞いても無駄だ。清明お祖父ちゃんは頑固でもあるのだ。
そのうち分かるだろうか。羽菜にはそう思うことぐらいしかできなかった。
あ。ここ、さっき、光が出たとこや。
気付けば井上美智香は、家に帰る途中の路地に立っていた。ぐるりと見渡してみれば、いつもの見覚えのある景色。家の近くの住宅街の通りである。人通りは無い。
あのカフェはなんだったのだろうか。夢だったのだろうか。歩いている途中で立ったまま寝てしまったとか? そんな阿呆な。
だが、さっきまで頭や心をぐるぐると乱暴に渦巻いていた大きな怒りは、綺麗さっぱり消え失せていた。それに、メニューに無いのにわざわざ出してくれた酎ハイカルピスやコーラ割り、ナポリタンの味も覚えている。
何とも奇妙なできごとだった。まだ若い可愛らしい店員のお嬢さんと、まるで主の様なイケメン、そして最後のおまじない。
不思議だったはずなのに、現実感はしっかりと残っている。だがここは紛れも無くいつもの帰り道。
しかし今、美智香の心は晴れやかなぐらいだった。話を聞いてもらって、美味しいナポリタンとお酒をごちそうしてもらって。あのお嬢さんもイケメンも、美智香が見舞われた惨事を我がことの様に怒ってくれた。
ま、えっか! 深く考えないのが、美智香の良いところであり、悪いところでもある。今はきっと良い様に作用している。
左の手首に巻いているスマートウォッチを見ると、時間もあまり経っていない様だ。本当に、まるで夢の様な時間だった。
家に帰って、もうお風呂はキャンセルして、でも歯だけは磨いて寝てしまおう。雨はいつの間にか、すっかりと上がっている。美智香は傘を閉じてゆるりと口角を上げると、軽やかな足取りで家路に着いたのだった。




