第4話 青天の霹靂
井上さんと元彼氏さんとの交際は、順調といえば順調だったそうだ。最初は井上さんに気持ちが無かったが、付き合っていれば情ぐらい沸く。好きと言えるものかどうかはともかく、徐々に大切な人と思える様になっていった。
それでも、井上さんのお仕事第一は変わらなかったそうである。平日はできるだけ会う約束は入れない様にしていた。そのころには短時間であっても残業が発生する様になっていたからだ。大きな案件も、補助という立場ではあっても任せてもらえる様になっていて、井上さんは充実していたそう。
完全週休2日制で祝日もお休み、連休もしっかり取られている職場で、休日出勤などはほとんど無かった。だから主に土曜日にデートを重ねた。元彼氏さんは日曜日も会いたがったが、井上さんはひとり暮らしだったので、家事をする時間が欲しかった。
井上さんはお仕事最優先と考えるからか、どうにも恋愛に関しては淡白だった様で、それは社会人になってからますます顕著になった。
大学時代にもお付き合いしている人はいたが、そのときの方が頻繁に会っていた記憶がある。井上さんが会いたがったというか、相手がそうしたがったのだ。
ちなみにこのときお付き合いしていた人とは、就職を機に自然消滅したそうだ。九州出身だったお相手が就職で地元に帰ったからだった。
さらにちなみに、高校のときにお付き合いしていた人とも、大学進学をきっかけで終わったそうである。進学先が違ったからだ。そのときのお相手は東京の大学へと進んだのだった。
どちらもそう悲しくは無かった。多分そこまで思いを寄せてはいなかったのだろう。学生時代に楽しむおままごとの様なものだったのだ。若い学生だったからなのか、結婚なんてものも視野に無かった。
自分はあまり恋愛に興味が無いのでは無いか、人に恋愛感情を持てないのでは無いかと考えたことがあった。だが悩みはしなかった。それならそれで良いと思ったからだそうだ。
そんな井上さんだから、学生時代にはお勉強に部活、社会人になればお仕事に打ち込むことは不自然では無かった。
それでも時間が進むにつれ、元彼氏さんへの思いはゆっくりと大きくなっていた。
年齢を重ね、結婚も意識する様になっていた。
子どもが欲しいと思ったことは無かったが、自然に授かるのであれば、それもまた運命なのだろうと思っていた。
そうしているうちに、元彼氏さんに実家に誘われた。季節は春。お付き合いが始まって、3年が経っていた。
「うちの親に会ってみてくれへんか」
そんなことを言われれば、ますます結婚が視野に入る。井上さんに結婚願望は無かったが、やはりこれも自然、縁のもの。交際期間は過去の記録をとうに超えた。話が出てもおかしく無かったと思う。
果たして週末、土曜日、井上さんはいつもよりお洒落をして、元彼氏さんと待ち合わせをした駅からお家へと向かった。
出迎えてくれた元彼氏さんのご両親は、井上さんを歓迎してくれたそうだ。昼下がりの訪問だったので、コーヒーとアンリ・シャルパンティエのザ・ショートケーキを用意してくれた。
「ごめんねぇ〜、コーヒーはインスタントやねん」
そんなのは瑣末なことだ。もてなしてくれようとする気持ちが嬉しかった。
アンリ・シャルパンティエは兵庫県芦屋市に本店がある洋菓子店だ。特にフィナンシェが有名で、年間売り上げ世界一のギネス記録も持っている。今や北海道から九州までデパートに店舗があり、知らない人の方が少ないのでは無いかと思うほどの有名店である。
生ケーキももちろん美味で、井上さんにとっては贅沢品である。元彼氏さんとのデートで芦屋本店のサロンにも行ったことがあって、甘党の井上さんはクレープ・シュゼットバニラアイス添えを平らげたあと、物足りないといちばんの好物であるザ・ショートケーキを食べたそうだ。
アンリ・シャルパンティエに限らず、井上さんにとってショートケーキは特別なものだった。甘酸っぱい苺がちょこんと乗ったショートケーキは可愛らしく、小さなころからいろいろなお店のものを食べてきた。特にアンリ・シャルパンティエのザ・ショートケーキを食べたときは感動したのだそうだ。
そのことは井上さんが元彼氏さんに話したことがあって、きっとそれをご両親に伝えたのだ。だからご両親はわざわざデパートに行って、用意をしてくれたのだ。
それから、井上さんは時々元彼氏さんのお家にお邪魔する様になった。元彼氏さんは実家暮らしだったこともあって、気遣いながらも気安く行くことができた。
その代わりというわけでは無いが、井上さんのご両親にも会ってもらったそうだ。井上さんは独立していることもあり、お外でお茶をした。井上さんのご両親も、安心したそうだ。
そうして信頼関係が築けていると思っていた。
また時が流れ、ある日。
先約などが無ければ行っていた土曜日のデート。お昼前、いつもの待ち合わせ場所に行くと、少し遅れてきた元彼氏さんの顔色が悪かった。
もしかしたら体調が悪いのに、それを押して来てくれたのだろうかと思ったのだが。
直後、移動したカフェで、注文したドリンクが来て店員さんが去った途端、深く頭を下げられた。
「ごめん、会社の後輩の子妊娠させてしもたんや。その子と結婚しようと思う。別れてくれ」
それが今日のこと。井上さんは29歳になっていた。




