大蛇
考えたところでそれを大人しく受け入れるはずもないのだが、しかし現実問題として、俺はこの場から逃げおおせる術を持ち合わせてはいない。脚を怪我している状態で果たしてどこまで逃げられるのか、匍匐前進でも何でもすればその可能性が無いわけではないのかもしれないが、この変な化け物が逃がしてくれるとは思えない。
いや、怪我をしていなかったところで、やはり俺は足が竦んで動けなかったのだろうし、走れたところで、野生動物のスピードに人間が勝てるはずもないのだから、結果としては同じことで、抵抗出来たか出来てないかの違いでしかないのだろう。
だとすれば、この後俺に待ち受けているものは死のみということになるのだろうが、流石にそれは嫌だ。こんなところで、誰にも看取られずに死にたくはない。こんな見た目の奴にムシャムシャとされたくはない。
だから出来ることとして、取り敢えず叫んだ。叫べていたかどうかも定かではなかったけど、自分的にはこれでもかと叫んだ。
それが功を奏したのかはやはり不明だったが、それでも向こうは警戒した様で、こちらの様子を窺い続けていた。向こうも当然威嚇しながらではあるが、野生的な本能でこちらを威嚇している向こうと、人間的な思考で向こうを威嚇したこちらとでは、その内面にあるものが違っている。
こちらは向こうが強いことはなんとなく確信した上で威嚇をしているのであって、向こうがこちらをただ警戒しているのとでは違うのだ。向こうは警戒などせずとも俺くらい簡単に胃の中に収められるのだろう──が、野生であるが故にそういう判断は取れない。こちらが隙を見せない限り、向こうは警戒することを止められないのだ──多分。
だから俺は叫び、叫び、叫んだ。
そして気が付いた。
ここからどうすればいいのかと。叫んではいるものの、かと言ってこの状況を打開できたというわけではなく、ただ食べられないでいるという現状を維持しているに過ぎない。
それ即ち、俺の声が枯れたら、俺の体力が尽きたら、向こうが辛抱ならなくなったら──そこで終わる。
そんな状況を再認識して、俺は顔を背けることなく、辺りに視線を送り、視界の範囲内で何かないかと探る。石でもあれば、大きめの握りやすい石でもあれば、それを武器にして一矢報いることも不可能ではないなどと、淡い期待をしたりしなかったりしながら、俺は周囲を見回す。
しかしあるのは巣を作っている藁か蔓のようなものだけ。卵を柔らかく温かいところに保管しようと、この巣を一生懸命に作ったのだろうと思うと罪の重さを感じさせられるものではあるのだが、これでは俺が生き残ることができない。
全身から脂汗が吹き出て行くのを感じる。声がだんだんと出し難くなっていくのを感じる。呼吸が雑になり、酸欠になっていくのを感じる。
そんな風に朦朧としていく意識の中、とうとう視界さえ機能しなくなっていく。目の前に靄でもかかったかのような、これはヤバいと直感できるような──しかしもうすでに十分ヤバいのだから、俺はこれ以上ヤバいと感じることも無く、ただ掠れそうになる声を張り上げながら威嚇し続ける。
声が出なければ、息を吐いて。見えているのかどうかも分からないけれど、目をひん剝いて睨みつけながら、そいつをその場に縫い付ける。やはりここから逃げ出すすべなんて思いつかないし、思いついたところで隙を見せたらそこで終わるのだけれど、俺は死にたくないという一心で──いや、死ぬという予定がこの後すぐ入れられていることはなんとなく理解した上で、俺はその予定から少しでも離れてもらおうと、それこそ必死になっていた。
必ず死ぬ──この状況にはこれ以上ないほど相応しい言葉だと思う。
ひしひしと感じる。
だけど、結局人間、土壇場で根性を見せたところで限界はあるし、火事場の馬鹿力なんて言うけれど、普段出せないような力を出せば、当然その所為で体力は削られていくもの。
それにそもそも、火事場からは逃げるべきであって、その場に残って体力を消耗すべきではないのだ。
逃げることにこそ、体力を使うべきだったのだ。
それは勿論、逃げられないと判断したからこうすることを選んだ自分の責任ではあるのだけれど、試してみるくらいはすべきだったのではと、俺は思わなくもない。
あぁ、これだから嫌なんだ。自分で選ぶのは。自分で判断を下すのは。自分から行動するのは。
やってみて、後になって、やっぱり間違えていたんだなと、常々思うから。
その選択が正しかったとは、どうしても思えないから。
──いや、でも。
でも何故なのだろう──自分が選ばなかった方の選択肢が、それを選んでいたら上手くいっていたなんて保証はないし、そっちを選んでいた方の自分を確かめることなんて出来はしないのだから、間違っていると感じること自体不思議な事でもあるのに。
もう見なくなって久しくはあるけど、テレビだとかラジオだとか雑誌だとかに出てくるような、所謂成功者と呼ばれるような人々は、そのインタビューの中で、「あの時こうしていなかったらと思うとゾッとします」なんてよく言うけれど、俺はそれを見て、聞いて、やっぱり思うのだ。
何故言い切れるのだろうかと。
それは勿論、自分が常にそのゾッとする方を選び続けているのではという自意識があるからこその想いでもあるのだろうけど、苛立ちというか、嫉妬というか、今自分は煽られてるんじゃないのかという勝手な怒りでしかないのだけれど、選ばなかった方を選んでいたらどうなっていたかなんて、どうして言い切れるのだろう。
自分に対しても、誰に対しても思う。
これは純粋な疑問だった。
死の淵に立たされて──いや、立ち上がれないから逃げ出すこともできないのだけれど、そんな状況に陥って、こんな状況だと言うのに、俺はそんなことを考えていた。
逃げずにこうして威嚇を続けていた自分の選択は本当に間違っていたのかと──死ぬ間際にまで自分が間違ったことをしていたと思いたくなかっただけなのかもしれないけど、それは俺のプライドから来る辞世の句にも似た何かでしかなかったのかもしれないけど。
歯ぎしりしながら、思うのだ。
目の前の奴を見て、思うのだ。
この、生き物か化け物かは分からないけれど、それでもこんな見た目の奴にも守るべきものはあって、俺はそれを台無しにしたのだから、俺を餌ではなく敵として見ているのだろう。勿論殺した後は食うのだろうけど、食うことが目的というわけではなく、自分の敵として、我が子の仇として、これは俺を殺すのだろう。
こんな山の中で下りの道を全力疾走するという愚かな選択をしたのはやはり俺なのだから、その責任を取るという意味で、その償いをさせられるという意味で、この生き物がこれからする選択は誰に言わせても正しいのかもしれない。
大人しく歩いていれば、こんな事には。
大人しく──か。
剣信さんは俺を子供だと言ったわけだから、子供らしくそれに従っていればよかったのだろうか。子供というのは大人によって守られるものなのだろうし、この場においてさえそれは同じなのだから、野生でさえそうなのだから、社会性のある生き物なら尚の事、そうすべきだったのだろうか。
目の前の化け物はその瞳を光らせながら、ゆっくりとその距離を詰め始めた。
そこで気が付いた。もう声が出ていない。出せなくなったのではなく、出していなかった。
舌を出しながら──蛇のような舌だ。あまり蛇っぽくはなかったように思うが、これがこの山に住む蛇なのだろう。そんなどうでもいいことに気が付いたりして、俺は最後にもう一度だけ叫んだ。
毒を食らわば皿まで──自分で一度威嚇するという選択をしたのだから、最後までやり切らなければダメだろうと思って。
蛇っぽい何かは叫んだ俺に対して、今度は臆することなく窺うことなく、スッと、飛び掛かってきた。
殺す為に、仇を討つ為に。
俺の頭部目掛けて飛び掛かってきた。
そして──俺は、初めてかもしれない。自分の選択で救われた気になったのは──否、救われたのは。
どこからか飛んできた、眩く光る光線のようなものに、その蛇は撃ち抜かれたのだ。横殴りの暴力的な嵐が吹き荒れると、それはその蛇の命を刈り取り、そして、俺の意識をも刈り取っていったのだった。