鍛錬
「遅効性の毒は仕込まれて無かったみたいだな」
そう言って起きてきたのは剣信さんだった。昨日の食事は毒がないものとして食べることにした四人だったが、本人の心の内にはそういう疑念があったのだろう。そんな疑いを持ちながら食べる食事は、ただでさえ美味しくなかったあの料理にどんなスパイスとして降りかかったのだろう──なんて、考えるだけで嫌になる。
それから──昨日の夜、食事を終えた俺は自分の全財産ともいえる鞄の中身を漁ったのだが、その中には何故か、コンビニで買ったはずのガムが入っていなかったのだ。お口直しにでも噛めば気分も晴れるかなと思っていたのだけれど、その中には入っていなかった。あの光が流れ込んで来た時のことはあまり判然としない部分も多いから、もしかしたら目を庇ったりしたときに落としてしまっていたのかもしれない。
普段であれば五、六百円もするガムをそっくりそのまま落としてしまったという損失の方にガッカリしていたのだろうけど、この場においては、食後の不快感を消すための一品としてのガムを落としてしまったということの方に、俺は心底ガッカリとした。
ガム。
しつこいようではあるが、執拗でもあるが、自分が職業として与えられたものの名でもある。三人とも、昨日は敢えてそれに触れずにいてくれたのかもしれないが、今日は否が応でも触れなければならない。
そして剣信さんと話をしながら待っていると、そのうち、聖琥さんと真帆ちゃんが起き上がってきた。
ベッドは三つしかなかったので、二人は同じ寝床で夜を明かすことにしていたのだ──昨夜、寝床に入ってしばらくしてすすり泣く声が聞こえていたのは、多分真帆ちゃんの声だったのだと思う。
誰も取り立てて取り乱したりすることはなかったわけだが、これからどうなってしまうのだろうと考えた時、不安を覚えた時、溢れ出るものというのはあったのだろう。
俺だって何も考えなかったわけではなく、どちらかと言えば明日に備えて眠るためにとあまり考えないようにしていたというだけで、もしそういう意識が無ければ、俺は考え込んだまま、一睡もすることなく朝を迎えていたのだろうとさえ思う。
そんな俺は、昨夜、一つだけ考えて結論を出したことがあった。
それだけ決めて、決心をして、そこからは眠ることに努めたのだった。
「じゃあ、行くか」
朝食を摂り終えると、俺達はぞろぞろと、中庭へと向かって行った。
朝食もまた不味いのかと思っていたが、いや、確かにスープは微妙だったが、流石にパンまで美味しくなくなるということはなかったそうで、それは勿論日本のそれと比べればずっと劣っていたが、十分食べられるものであった。
案内されるままに中庭へと向かって行くと、そこはどちらかと言うと訓練場のような場所で、武器だとか防具だとか、そういった物が端の方にはいくつか置かれていた。そこでは、剣信さんには騎士のような人が付くことになって、剣の握り方だとか、扱い方だとか、そういったことを教え始めた。
聖琥さんや真帆ちゃんには、いかにもという風なローブを着た人が付くことになり、魔力の扱い方だとか、魔法の放ち方だとか、そんなことを、一から教え始めた。
剣信さんは、元々筋がよかったのだろう、それかもしくはその職業とか言うものの恩恵なのだろうが、あっという間にそれらしい構えになっていって、一時間だとか二時間だとか、時計が無いから正確な時間が分からないのは不便だったが、それくらいの時間が過ぎる頃には、藁のようなもので作られた太巻きを一刀両断、切り裂いていた。
前にああいった、試し切り用の藁だとか青竹だとかを日本刀でスパッと切り裂いたりする動画を見たことがあったが、まさにあんな感じに。
西洋の刀剣は日本刀と違い、『引き切る』のではなく『押し切る』のが主だというのはそういう動画の中でも言われたりしていて、それ故に、西洋の刀剣で切り裂いたその断面は崩れやすいものであると認識していたのだが、それが『剣聖』の能力とでもいうものなのだろう、綺麗に、斜めに、切られた藁は滑り落ちていった。
それを教えていた騎士がそこまでの事を出来ていなかったのを見るに、それはやはり、一般的な技術ではないのだろう、周囲からも称賛の声が飛んでいた。少々わざとらしいと思わなくもなかったが、少なくとも俺は、そういったわざとらしさを抜きにして、手を小さく叩いていた。
それから、聖琥さんと真帆ちゃんの方についていた魔法使いで──いいのだろうか。その魔法使いは、魔力などというものにはこれまで触れたことも無い人間二人を相手にして、その原理だとか扱い方だとか、意識の仕方だとかを一から解説していった。
それが、魔法というものが常識として存在していない二人であったので、説明すればするほどに分からない事ばかりが出てくるものだから、その度にそれを質問していって──なんというか、さもそれを理解していて当然だと言わんばかりの態度でポンポンと専門用語を放り込んでくる小説の様で、その単語について質問したら更に理解不能な専門用語が出てきて──結局、延々と、グルグルと、いつまでも先に進めずに循環していくかのような。
魔法の授業に関して言えば、まさしく授業と言えるような、確かに、いきなり『聖女』だの『大魔法使い』だのと言われてもその扱い方が分からなければどうしようもない。そのためにも、分からないものは分かるようになるまで徹底的に尋ねて、その力を自分の力としてモノにしなければならない。
と、少なくとも聖琥さんはそう考えたのだろう。真帆ちゃんの分も合わせて、その疑問を解消していくように、メモ帳を片手にいくつもの質問を重ねていったのだった。
なら、それなら、果たしてこうしてそんな三人の姿を語るこの俺は一体何をしていたのかと言われると、何もしていなかったという一言に尽きるのだろう。
何もしていなかったというよりは、何をすればいいのか、俺も向こうも分からなかったのだ。
向こうは向こうであの後、俺の職業に関する情報を、集めに集め、調べに調べ、解き明かそうと必死になったそうだが、人員を動員して徹夜して書庫をひっくり返す勢いで──それで結局、何も分からなかったのだという。
俺にもあれこれ質問されたが、流石に何も答えられなかった。答えるにしても、だとすればガムというものを説明するところから入らなければならない訳だが、説明したところで意味不明なのは変わりようがないのだ。
ガムというものがこちらの世界には存在しない、食べ物のような嗜好品の一種だという説明をして、なら何故それが職業の欄に出てくるのかは、やはり分からない──否、分からないどころか、それを説明することが俺にとっての不利益にしかならないのだ。
職業欄に食べ物が出てくる人間に対して、果たしてどのような感想を抱くのか──これが俺でなければ、俺はそいつに対して何を思っただろう。
だから俺は、取り敢えず模索してみるとかなんとか適当なことを言って、彼らの手から逃れて、そのまま中には出他の三人を観察していたのだ。もしかしたら何かヒントになるようなこともあるかもしれないと思って。
初めこそ独り、何かならないのかといろいろ試してもいたのだが、結局何も掴むことは出来なかったのだ。
掴めそうになかった。
使えそうにはなかった──俺は。
それから陽が落ちるまでの時間、三人はその力というものを再確認していき、俺はそれをただ眺めていた。
別にそこに劣等感があったわけではない。あんな力が無くて当たり前の世界でこれまでを過ごしてきたわけだし、無いのが当たり前で、だとすればおかしいのは向こうで、だけどこの場所では俺の方がおかしいのかもしれなくて──だから俺は結局、自分がどういう立場にいるのかさえ見失いかけていった。
聖琥さんや真帆ちゃんも、流石にその日のうちに魔法というものを使えるようになったわけではなかったものの、それでもこれまで感じることのできなかった魔力というものを知覚できるようになったという点で、大きな進歩だったのだという。
そんな話を聞かされて、何を感じたのだろう。
向こうは向こうで掴めたものもあったと言うのに、俺は何も掴めなかった。どのようにすれば俺もそのようにして、力を自覚することができたのだろうか。
俺はそれを踏まえて、決めたことがあった。
それから一週間ほど、一人は鍛錬を積み、二人は授業を重ね、残る一人は何も分からないままの状態が続き、そんな日の夜の事。
俺は相も変わらず美味しくない夕食を前にして、重い口を開いた。
「剣信さん、あの……」
「どうした?」
呼びかけると、食事の手を止め、顔を上げた。呼びかけたのは剣信さんだけだったが、いきなり話し始めた俺に、全員の視線が向けられた。
「そろそろ出発するつもりでいるんですよね」
俺は尋ねた。
全員が満遍なく力を確認し始めたところで、剣信さん自身はもとより、聖琥さんや真帆ちゃんも魔法を使えるようになり始めて、そうなれば次にするべきことも見えてくるだろう。
その力というものは実際とんでもないものだということは見ていて理解できたのだ。それこそ、並の人間では太刀打ちできない──平均的な日本人を基準にして言うのであれば、その身体能力はおおよそ数十倍にまで跳ね上がっているとみていいだろう。
そんな力があると発覚した彼らからは、始めの頃に感じられていた不安感のようなものが、段々と薄れていくのが分かった。
日本へと帰るということが現実味を帯びてくるのだ。
これなら行ける──そう感じているのだろうが、そうなるとやはり、俺としてはハッキリとさせなければならないことがあるのだ。
こんなこと、もしかしたら初日か、二日目三日目の内にでも告げておくべきことだったのかもしれないが──俺は悩み、ズルズルと引き摺っては一週間ほど悩んで、今日になってようやく決心がついたのだ。
もう悩むべきではない。
選ぶのなら、さっさとすべきだ。
「だったら──」
と、俺は口を開いた。