変化
「肉体にも変化……?」
俺は掌を見て、それを握ったり開いたりして、特に変化がないことを確認。
足を上げてみても、特に変化はない。
いや、ガムに変身できるようになったという意味ではそうなのだけれど。
「うん。僕からの無茶にも耐えられているのは、その影響もある──いや、説明するよりは試してもらった方がいいはずだ。何でもいい、身体を伸ばしてみてくれないか?」
「何でもいい……ですか?」
「ああ。出来れば、固いところを伸ばすような感じで頼む。分かり易いだろうから」
「はぁ……」
俺は一度その場に座ると、足をまっすぐ前に伸ばした。そして、両腕を前に突き出し、背中を前に曲げていく──長座体前屈だ。俺はあまり体が柔らかい方ではなかったので、固いところを伸ばすというのであればこういうのがいいのだろうが、俺はそれをして驚いた。
くっついたのだ。脚と腕が、ピタッと。
指先がつま先にくっ付いた、であれば俺は驚かなかっただろう。それくらいは流石にできるだろうと思っていたから。
しかし、身体全体がこうしてガラパゴス携帯のようにして折りたためるとなると、流石に驚きもする。一瞬、曲がっちゃいけないところまでやってしまったのではないかと思い体を起こしたが、特に異常は無し。
それを見たリゼルさんはふむふむと頷いていた。
「やっぱり、影響を受けているね。ガム化した影響を」
「体が柔らかくなったって感じですか?」
「平たく言えばね。本来の身体能力より強化されていたりもするのだろうけど、特筆すべき点はそこだ。君の身体は今、かなり無茶な動きにも対応できるような柔軟性を持っている」
「柔軟性……」
俺はガムというものを説明する時、粘着性や弾性、伸縮性と説明をしたが、そう言えばそうだ。
ガムもゴムも柔軟な素材なのだ。
俺は一度立ち上がると、Y字バランスも今ならできるのではと、右足を持ち上げた。
すると、これまでならカタカナの『ト』が限界だった俺の身体は、綺麗なI字バランスを作り上げた。
骨は果たしてどこへ。
もしかしたら今の俺には骨が無いのではと、意味は違うが骨抜きにされてしまったのではと、骨なしチキンなのではないかと、腕を揉んだり胴をさすったりしてみたのだが、そこには確かに骨があり、俺の中の混乱は加速した。
骨も柔らかくなっているのだろうか──しかし、それならまずまともに立ってはいられないはず。ふにゃふにゃの骨組みなど、骨組みとは呼べない。
「それこそが、職業がその人間に与える影響の、ほんの一端だ。力を使いこなせるよう、肉体そのものをそれに合わせてしまう──それ故に、越えられない壁というものが、どこかに存在するんだよ」
「越えられない壁……」
「勿論、それを別の角度から補ってやることはできる。そう、僕のようにね!」
「は、はぁ……」
「まぁしかし、君のその身体能力であれば、かなり無茶な動きも出来てしまうのだろう。身動きを重視する僕としては少し羨ましいよ」
「……、強い人にそう言われると、ちょっとは嬉しいものですね」
「ふふふ。強い人だなんて言い方はよしてくれ。それでは僕が数ある強者の内の一人でしかないみたいじゃないか」
「……? 違うんですか?」
「違わない。だが、僕は強者である前に──リゼル=クディアだ。この世に唯一の存在なんてないが、だからこそ僕は唯一でありたい」
「……なら、リゼルさんに褒められたから嬉しいんだということで」
「そういうことだ!」
彼の長髪が風になびいた。
鼻に掛かった前髪を払いのけると、実験は続行だと、彼はこちらに向き直る。
これまでに分かったことをもとに試していった結果、俺は思ったより体を動かせるようになっていて、武器を振るうことこそできはしなかったが、リゼルさんの軽い攻撃くらいであれば身のこなしだけで回避もできた。向こうがかなり手を緩めて何とかではあったが。
それから、変身や肉体の一部変化はかなりスムーズに、そして素早く出来るようになってきている。これはもう少し修練を積まなければならないのだろうが、コツは掴んだ。とにかく思考をブレさせないこと、他の事を考えないこと、悩んだりしないことだ。アレをやろうかコレをしようか、そんな風に悩みを見せると途端にブレてしまうのだ。
特にこの、腕の先や足の先だけをガムに変化させて一気に伸ばすという技──技と言っていいのかも分からないが、この能力は使えると思う。壁の多い場所であればそれこそフックショットのように利用してのマニュ―バもできるのではないか。
無論、加減をミスれば大怪我待ったなしなのだが、これも場合によっては何とかなる。壁にぶつかりそうになったら全身をガムの塊にしてしまえばそれでいい──そんな判断能力が土壇場で発揮できればの話でもあるのだが、希望が、期待が、全く無いわけでも、出来ないわけでもない。
俺は確かに可能性を掴んだのだ。
「今日はここまでにしようか」
実験を切り上げ屋敷の方へと向かって行くリゼルさんを追い、俺も屋敷の中へ。
頑なに着替えを見られたりすることを拒む彼ではあったが、そういう文化の人間なのだろうか。かと言って、別に俺もそれを覗く趣味などはないのだから構わないのだけれど。
そして夜になって、外がすっかり暗くなった頃、俺とリゼルさんは蠟燭の明かりを頼りに、少し話をしていた。
蠟燭の明かりなど頼りないのではと思ったが、彼の持つ、光を強めるスキルにて、部屋は昼間と同程度に明るく照らされていた。本人曰く微調整も自由自在で、もっと明るくすることもできると言っていたが、流石に見せてもらう事は遠慮した。キノコの例が無ければ、俺は愚かな選択をしていたかもしれない。
「それで──そろそろ聞かせてもらおうか。君がどういう存在なのかを」
席に着き、蠟燭の火の揺らめく中、彼は切り出した。
「君が普通の存在でないことはもう十分理解している」
「普通の存在でない……?」
「物を知らなさすぎるという話だ。これまでの人生をここで過ごしてきたとは思えないほどの知識の無さ──生まれたてでもなければし得ないような反応さえ見せた君は、普通じゃない」
「あぁ……」
知らないものを知っている風に振舞うというのは難しいもので、それが知っていて当然の事であろうがそうでなかろうが、それそのものを知らないのだから、それが常識かどうかさえ、俺は知らないのだ。
別に俺がこの世界の人間でないことは隠しているわけでもないが、しかし大っぴらにしていいものだとも思ってはいない。
しかし、ここでは誤魔化しようもないのだろう。ガムという正体不明の食べ物のことについて説明してしまっている以上、向こうも薄々勘付いた上でその質問をしているのだろうし。
「その、何から話せばいいのか分からないんですけど……」
なので俺はゆっくりと、出来るだけ誤解などを生まないように気を付けつつ、それを語っていくことにした。
「まずなんですけど、確認したいことがありまして」
「確認したいこと……? あぁ、ここで聞いたことは他言するなと、そういう話かい? だとしたら安心してくれ、僕はこの名に泥を塗るようなことはしない。約束するよ」
「あ、それもそうしてもらえるとありがたいんですけど、そうじゃなくてですね」
「……他に何か?」
「リゼルさんは四英雄……っていう存在について、どれくらい知っているんですか?」
「……まぁ、御伽噺の中の人物──くらいの認識かな。勿論実在したであろうことは知られているんだけど、あまりにも非現実的というか。それに、あまりその情報自体広く知れ渡っているわけじゃないんだよ」
「広く?」
「あぁ。大まかな話はみんな知っている。像なんかも建っているから、その人たちがどんな姿をしていたのかも知っている人は知っている。けど、その詳しい話に関しては秘密──というか機密でね。国の上層部が極秘にその情報を持っているだけだとかなんとか。それさえも半信半疑なんだけどね」
まぁそうだろう。英雄だという部分だけを前面に押し出して讃えていればそれでいいのだから、詳しい話──就中、どこからやってきた者なのか、どのような力を与えられていたのか、どのような旅をしていたのか……その詳しい部分に関しては、広めていいものとそうでないものを選別した上で語られているのだろう。
特に、他所の世界から人を連れてくることができるだなど、もしそんな儀式の事が外に漏れたら大変なことになりかねない。そんな強い力を持った人間なら、自分の家を守らせるなり兵士にするなり、そういった手段で呼び出したいと考える人間だっているはずなのだ。
だとすれば、そんな儀式は国の側からすれば危険極まりない。
それこそ、どうしようもない外敵から自分たちを守ってほしいと、そう考えでもしなければ容易に実行することも叶わないのだろう。
まぁだけど、敢えて言うのであれば、無責任なことを言うのであれば、そんなこと、俺からすれば知ったことではない。
「リゼルさん。俺は多分、存在としてはその四英雄に近しいんだと思います。弱いんで説得力が無いですけど」
「…………そう思ったのには、何か理由が?」
「思ったというか、王城に召喚されたときに、三百年前の四英雄の話を聞いたんです。それと同じように、異界から人間を召喚した──と」
「異界……召喚……」
リゼルさんの表情が変わった。さっきからずっと真剣な表情はしていたものの、そこにさらに陰影が入ったようだった。
「聞いておいてなんだけれど、それは話してよかったものなのか?」
「さぁ、分かりません。なにぶん拉致された側でしかないので、そういうことを周りにバラすなとは言われてませんし。ただ、リゼルさんがそれを周りに広め始めるとマズいのかもです」
「そうだろうねぇ。まぁ、死ぬまで無言を貫けばいい話だ、問題も無いだろうさ。……それで、続きは?」
「あぁ、その、四英雄が強かったのは──というよりは、異界人は何かしら、特別で格別に強力な職業が与えられるんだそうで、俺という反証材料がいるので何とも言えないんですけど、強さの秘訣は多分、この世界の人間ではないからなんだと思います」
「…………なるほど、夢も希望もない話だ──その話については、僕は聞かなかったことにするよ。聞かなかったことにさせてくれ」
「……実際、俺と同じようにして連れてこられた人達は、これまで戦ったことも無かったのに、数日のうちに剣を扱えるようになったり、魔法を使えるようになったり……それが職業が肉体に与える変化なんですかね? あまり分からないんですけど」
「他にもいるのかい?」
「はい」
流石に特徴などは言わなかった。今日に至るまでの日数で、彼の事もそれなりには信用していたのだが、それとこれとは関係なく。
しかし、それを言うのであればそもそも自分がそうであるということさえいうべきではなかったのかと、言ってから思った。どうせこの地では珍しい髪色をしているのだから、俺が何を言おうと言うまいと同じことかもしれない。
「だとすると──魔王が現れたというあの話……眉唾物の噂じゃなかったのか……?」
「公表されてないんですか?」
「事実なんだね……。確かに、魔族が活発だというところまでは広く知らされていたけど、魔王となると、流石に話のレベルがぐんと上がる。上としても、そんなことが広く世に広まれば混乱しかねない訳だから、出来ればそうならない内に処理したかったんじゃないのかな」
「まだあまり被害は大きくないってことですか?」
「いや、大きいだろうね。だが、ここらに住むような人間は、僕を含め、情報を遮断されてしまうと、流石に遠く離れた場所で何が起こっているのかを正確には把握できないから。知っている人間も、口を噤ませる方法はあるしね」
口封じと言うやつか。しかし、混乱を避けたいというのであれば、それもせざるを得ないのだろう。
この世界にはSNSなんかも無いようだし、だとすれば、情報の規制だとか操作はある程度自由が利く──のだろう。
「で、君は結局職業が謎で──だとすると、君はそれが原因で追い出されてきたのかい?」
「あ、いえ。追い出されたんじゃないんです。勝手に逃げてきたと言いますか」
「お、王城からかい?」
「はい」
「よくやったもんだね。その度胸はさしもの僕と言えど、持ち合わせてないよ」
「マ、マズいんですか……?」
「マズい……それもそうだけど、あの警備兵の中を潜り抜けて来た時点で、彼らの面目は丸潰れだ」
「あのって……王城に行ったことが?」
「あぁ。前に一度、ドラゴンを討伐した時に、褒章を受け取りにね」
「ドラゴン……」
ドラゴンにもいろいろあるのだろうが、脳内にはオーソドックスな、大きな翼の生えた四つ足のドラゴンが思い浮かべられていた。
「それで、君はこれからどうするんだい?」
「……少しは戦えそうな気もしますし、だったら向こうに合流するのがいいのかなとは思ってるんですけど」
「向こう……というと、王城に戻るのかい? だとしたら流石に止めざるを得ないのだけど」
「え?」
「勝手に脱走した君がそのまま王城に戻ったら、どう扱われるかは分かるだろう? さっきも言ったが、向こうは面子を潰されてもいるわけだ。普通に戻れば、まず揉めるよ」
「……あ」
「それにそもそも、彼らももう出立している可能性だってある。まだかもしれないが、いずれはそうなるはずだ。魔王を斃す目的が何かは知らないが、もし合流するのならそっちを目指した方がいいんじゃないのかな? 少なくとも、ここ数日のうちに君が指名手配されているという話は聞いていないし、普通に向かって行けば途中で捕獲されたりということも無いはずだ」
「情報収集をしながら……なるほど……」
「街から街を繋ぐ乗合馬車もある。移動するのには時間もかかるけど、それは多分向こうも同じだ」
魔王が何処にいるのか、その具体的な場所は知らない。それを聞くことも無く逃げ出してきたのだから仕方が無いのだけど。しかし、確か聞いていた話の中に、南東と言う単語があったのは覚えている。王城から見て南東なのだとすれば、俺が今いるこの場所もそちらだ。
そっちの方角にひたすら進んでいけば、その道中に彼らと合流することも、不可能ではないのかもしれない。俺と向こうの移動スピードが同じであるということを前提にする必要があるのだが、それはこちらが少し無理をしてでも急げばいいだけで──しかし。
俺はそこで一つ気が付いた。
外を一人で出歩いても問題ないのだろうかということに。
忘れるはずもないが、俺は一度山の中で蛇のような化け物に襲われている。
「心配かい?」
「ま、まぁ。またあんなのに襲われたら、流石に勝てると思えなくて」
「別に勝つ必要は無いだろう? あの能力なら逃走は容易だ」
「でもあの速さで壁に突進して行った俺を止めてましたよね」
「それは僕だからだ。普通の人間や魔物には出来ないよ。まぁ、出来る奴もいるにはいるが、しかし、そうそう出くわさないだろうね」
彼はやはり自慢げに、そう言うのだった。
そしてそれが、リゼルさんとの最後の会話になった。