天才科学者、一本勝負!
天才科学者である彼にも、ひとつだけ悩みがあった。
それは髪がないことだ。
いや、正確には一本だけ頭のてっぺんに生えているので、まったくないわけではない。
こういうとサザエさんの波平さんを頭に思い浮かべる読者もおられるかもしれない。
だが波平さんのほうが断然恵まれているといえよう。耳の上に黒々とした毛髪をたくわえているのだから。
しかし、彼は天才なのだ。不可能なことなどないはずだ。
ある日、彼はふと思いついた。一本の髪を枝分かれさせればいいのではないか。
人間の髪の毛は通常十万本あると言われている。「通常」という言い方に少し引っかかりを覚えたが、今はそれは置いておこう。
単位は「エダ」と名付けた。もちろん「枝毛」にちなんだものである。
10万エダに分かれた一本の髪の毛なら、はた目には10万本に見えるはずだ。
彼は挑戦することを決意した。極小のナノロボットを開発し、自分の大切な毛を細かく裂いてもらうことにしたのだ。
ひと口に10万エダと言っても、これは途方もない数字だった。AIアシスタントに尋ねると、次のような比較を教えてくれた。
・東京ドームとテニスボール
・大西洋とオリンピックプール
・エベレストと人間の身長
・人間の身長と1円玉の厚み
・東京スカイツリーとアリ
そしてAIは付け加えた。「現実には不可能です」と。
しかしそこは天才科学者、数々の困難を乗り越え、ついに成し遂げたのである。
ここまではよかったのだが、結果は予想とは少しばかり違っていた。10万本の髪の毛が生えているというよりは、頭上にタンポポを載せているようにしか見えないのだ。
それでも科学者は気に入っていた。風が吹くと少し引っ張られるような感じがいいのだ。ああ、自分にだって髪の毛はあるんだなあとしみじみと実感できる。
だが、10万回も引き裂かれた髪の毛はすでに限界をむかえていた。
ある日、ちょっと強い風が吹いた時、とうとう彼の毛根は力尽きてしまったのである。
本体から離脱して、空に舞い上がっていく一本の毛がどことなくうれしそうに見えたのは気のせいだったろうか。
もしあなたが季節外れのタンポポの綿毛のようなものを見かけたら、それは彼の最後の一本かもしれない。
そのときは心の中で「がんばったね」と声をかけていただきたい。
天才科学者にではなく、毛根のほうに。
(おわり)