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第72話 芸術家とは名乗れない

 外観の寂れ具合から感じた不安を裏切ることなく、中もまた非常にボロボロだった。壁の一部は崩れ落ちており、外から吹き込んだ生ぬるい風が頬を撫でる。床や机の上には埃が積もっており、誰かが立ち入った形跡もなければ、何者かが生活していたという痕跡もない。本当にここがミデロの隠れ家なのだろうか?


「ここ、ちょっと怪しいですね」


 ヨミが目を付けたのは、本棚に収納されている一冊の本だった。埃がかぶっている他の本とは違い、その本だけ新品同様に汚れていなかった。

 しかも背表紙には何も書かれていない。本棚から抜き出そうとしても、どういうわけかいくら力を込めても抜けなかった。


「おやおや。か、硬いですね……どうしたら抜けるんでしょう」


「ちょっと、こんな時にまでふざけなくたっていいんじゃない?」


 呆れ気味にマリーベルはヨミを注意するが、どうやら本当に抜くことが出来ないようだ。なおさら怪しく、というかきな臭くなってきた。


「残念ながら私は至って真面目です。仕方ありません、ここは引いて駄目なら押してみろの法則で行きましょう」


「いやいや、そんな都合よくはいかないでしょ」


 カチッ。

 ヨミが謎の本を奥へ押し込んだ瞬間、何かが作動するような音が聞こえた。

 すると次の瞬間、本棚が横にスライドし始め、その先にある隠し通路が姿を現した。

 三人は唖然とした表情で立ち尽くす。開いた口が塞がらないとはこのことだ。


「えー……開いちゃうんだ。都合よくいっちゃった」と、マリーベルは呆れ果てる。予想は呆気なく外れてしまった。


「いえ、これは決してご都合などではありません。私の第六感が作用した結果なのです」一方でヨミはしてやったり顔だ。予想が見事に的中し、得意げである。


「見てください、階段がありますよ。地下へ続いてるんでしょうか」


 エルシャは遠巻きに隠し通路の先を覗く。薄暗いが、そこには確かに下り階段があった。そしてつくづく思う。自分たちは、どうしてこうも地下空間に縁があるのだろうか、と。

 階段の先まではさすがに見えないが、どこかへ続いていることは間違いないようだ。いよいよ「隠れ家」の雰囲気が滲み出てきた。これはもうミデロ本人から話を聞くしかないだろう。三人は意を決して、階段を降りることにした。


 長い階段を降りきると、その先にはまたしても部屋が一つあった。室内の様子を探るが、人がいたような気配は全く感じられない。あるいはもうとっくにここから出て行った後なのだろうか?

 三人はそれぞれ部屋の中を物色し始めるが、どれもこれも絵画に関する資料やメモ書きの類ばかりである。いくつか目ぼしい資料があれば持ち帰ろうかと話していると、エルシャがある物を見つけて他の二人を呼び寄せた。


「み、皆さん……これ、どこかで見覚えがありませんか……?」


 指を差した先には、三つの物がひとまとめに置いてあった。

 

 茶色い帽子。

 真っ黒なサングラス。

 赤いマフラー。

 

 どれもこれも使い込まれた形跡のある品たちだ。そして、どれもこれも見覚えのあるものばかりだった。具体的に言えば、美術館にてつい最近見た気がする。


「これ! あの怪しい男が身に付けてたものばかりじゃない!」


 興奮気味にマリーベルは叫んだ。この近くにあの不審者がいるのか。あの不審者が、顔を晒しているとでもいうのか。名刺を渡したのが、本当のミデロなのか偽物のミデロなのかが分かる時が来たのかもしれない。


「おお、意外と早かったな。お前たちならばきっとたどり着けると信じていたぞ」

 

 すると程なくして、一人の男がさらに奥の部屋から姿を現した。年齢は40代か50代といったところで、白髪交じりの長髪。芸術家という割には体もがっしりしている。顔に見覚えはなかったものの、彼の声には確かな聞き覚えがあった。

 いや、顔に見覚えがなかったのはエルシャだけかもしれない。

 どうやらマリーベルは男の顔にも見覚えがあるらしく、興奮気味に叫んだ。


「あ、あなたは……ミデロ先生ですか!?」


「あまり大声を上げるな。地下とはいえ他人に聞かれるのはまずい」


「す、すみません……つい興奮してしまいました」


「それで、あなたは本物のミデロさんということでいいんですか?」


 顔を火照らせるマリーベルに代わりヨミが尋ねると、男は静かに頷いた。


「確かにオレがミデロだ。世間じゃ巨匠だの現代を代表する芸術家だのと言われてるな」


「自分で言っちゃうんですね」


 至極まっとうな指摘がヨミから入った。彼女から言われたらもうおしまいだ。


「そう言われてることは確かだからな。しかし、世間のやつは何も分かっちゃいねえ。オレは……そんな大したやつなんかじゃねえ。それどころか、芸術家を名乗るのもおこがましい卑怯な人間だ」


「これまたずいぶん卑下されますね」


「卑下なんかしてねえさ。事実だから言ってんだ」


「そんなことありません!」と、大声を上げたのはマリーベルだ。「ミデロ先生は素晴らしい芸術家だと思います!」


「ほぉ、嬉しいこと言ってくれるねえ。ちなみにどんな絵が好みなんだ?」


「そうですね……私は特に『人間』が好きです」


 それは美術館にも展示されていた絵だった。黒い背景に白い線が不規則に散りばめられた、後期のミデロを代表する抽象画だ。


「ほらな。やっぱり世間は何も分かっちゃいねえんだ」


「そ、そんな! 私、あの絵が本当に好きなんです。あの『人間』の絵が本当に好きなんです!」


 自分の気持ちを素直に伝えたつもりが、ミデロの気分を害してしまったようでマリーベルは困惑する。いくら弁明しようとしても、ミデロは聞く耳を持ってくれなかった。


「ミデロさん。それはあんまりじゃないですか? マリーベルさんはあなたからの質問に答えただけです。どういう理由(わけ)があって『世間は何も分かってないか』くらい、お答えしてもよいのではないですか?」


 庇いだてるようにヨミはミデロに突っかかる。そちらの質問に答えたのだから、向こうもこちらの質問に答えるべき。実に理にかなった反論ではある。


「分かったよ。答えりゃいいんだろ答えりゃ。元はと言えば、そこのアンタがすべてのきっかけなんだしな」


 ミデロの視線が、エルシャに向けられる。言われてみれば確かに、この怪しい隠れ家までやってきたのはエルシャが「人間」ではなく「海と砂浜の風景画」が好みだと盗み聞きされたのが事の発端だった。


「え、わたしですか……?」


「ああそうだ。アンタは……魔眼(・・)の影響を受けてねえみてえだからな」

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