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第70話 とある絵描の作風変遷

 目を覚ますとそこは、館内にある救護室だった。白いシーツと布団が敷かれたベッドに、エルシャは寝かされていた。記憶はぼんやりしているが、あまりの恥ずかしさに失神したことだけは覚えている。

 どうやら気絶してからあまり時間は経っていないようだが、倒れた際にぶつけたのか後頭部が少し痛む。それでも力を込めて身体を起き上がらせると、マリーベルとヨミが傍に座っているのが見えた。

 二人ともエルシャの目覚めをずっと待っていたらしく、起き上がった姿を見るなり安堵の表情を浮かべる。


「よかったぁ。目が覚めたみたいね」


「エルシャさん、調子はどうですか?」


「あ……皆さん……すみません、心配をおかけしました。わたしはもう大丈夫です」


 エルシャはベッドから速やかに降り、身体の無事を伝える。水の入ったグラスをヨミから受け取り、一口飲むとようやく落ち着きを取り戻した。


「本当に大丈夫ですか? 大事を取って、今日はもう引き上げてもいいんですよ?」


「心配してくれてありがとうございます。けど、わたしはもう平気です。せっかく美術館に来たんですから、最後まで見ていきたいです」


 そう言うとエルシャは、おもむろにその場を歩き始めた。顔色もよくなっているし、足取りもしっかりしている。どうやら本当に心配はなさそうだ。

 

「そうですね。せっかく来たんですから、最後まで楽しんでいきましょう」


 ヨミは頷き、エルシャに続いた。マリーベルも後を追うように歩きだす。救護室を出た三人が向かった先は、一番近くの展示室だった。どうやらこの部屋に飾られているのは、ミデロという画家が手がけた作品群とのこと。

 マリーベルいわくとても有名な画家らしいが、記憶のないエルシャにはピンと来るはずがない。


「そんなに凄い方なんですか?」


「そりゃ当然よ。なにせ現代を代表する巨匠の一人って呼ばれてるくらいなんだから」


 エルシャからの質問に、マリーベルは誇らしげに答えた。どうやら彼女はミデロという画家を前々から知っているらしく、しかもかなりのファンであることが弾んだ様子の声色からうかがえた。

 三人は早速、展示されている絵画の一つの前に立つ。それは大きな油絵で、青い海と白い砂浜が描かれていた。風景画ではあるが、どこか心が安らぐような温かみのある作品だった。


「へぇ~、確かにきれいな絵ですね。この青い部分は水……でしょうか。こんな場所が世界のどこかにあるんですか?」


「エルシャさん、それが先ほど申した海という場所ですよ。いつか行ってみましょうね」


「えっ、こんなきれいな場所が本当にあるんですか? ぜひとも行ってみたいです!」


「ははは……。確かに海は海だけど、ここまできれいな海はめずらしいでしょうね」


 ミデロの絵を前に、三人は大いに語り合う。特にエルシャは初めて見る海の美しさに大興奮だった。それがたとえ絵の中の海だったとしても、彼女の心を打つには十分過ぎた。

 その後も三人は順路に従って、ミデロの作品を順番に鑑賞していく。

 どうやらミデロという画家は年代によって画風や描く対象も変わっていったらしく、初期は写実的な風景画が中心だったのが、だんだんと抽象的でモチーフもぱっと見では分からないものが殆どになっていった。

 特にタイトル「人間」に至っては黒い背景に白い線が適当に配置されただけという、どこをどう見ても人間にすら見えない……それどころか「絵」にすら見えないようなものに変化していった。


「ああ……やっぱり初期の繊細な絵もいいけど、私は後期の絵の方が好みね。この独特な雰囲気がたまらないわ」


 だがエルシャとは違い、マリーベルは独特というか意味不明というか、そんな抽象的な絵の方を好んでいるようだった。こればかりは好みの問題だとは思うが、やはりエルシャには解釈の難しい絵ばかりで少し退屈だった。

 やはり素人目線だとこんな感想しか出ないのだろうか。マリーベルのように少しでも絵について知識を得れば楽しめるようになるのだろうか。疑問ばかりが募っていく。まさに目の前にある「人間」というタイトルの絵のように。


「エルはどういう絵が好み? やっぱり後期の雰囲気の絵よね!?」


 食い気味に迫られ、少しエルシャは困惑。ここは自分の心に正直になって答えることにした。


「わたしはやっぱり……最初の海の絵が一番好みです。後期の絵はちょっと……難しすぎてわたしには分からないです」


「へぇー、そうなん――」


「キミ! 今の言葉は本当かね!?」


 マリーベルの言葉を遮り、奇妙な風貌の男が割って入ってきた。頭には茶色い帽子、目には真っ黒なサングラス、首周りには赤いマフラーと素顔をがっちりと隠している。怪しい以外の言葉が見つからない。


「ひええっ?! ど、どちら様ですか……」


 エルシャの困惑はさらに深まる。

 が、その対応の仕方からはエルシャの確かな成長が見受けられた。以前ならば謎の男に割って入られた時点で良くてフリーズ、最悪の場合早くも二度目の気絶と相成っていたであろう。

 そう考えれば、相手の素性を尋ねた時点で大進歩である。

 ただ、その男がエルシャの質問に答えることはなかった。

 それどころかエルシャの肩を掴み、ブンブンと揺らし始めた。気絶まで秒読み段階へと移行する。今までコツコツと溜めてきた勇気P(ポイント)と覚悟P(ポイント)も、男に揺らされるたびにジャラジャラと落ちていくような感覚があった。


「あばばば……勇気が……覚悟が……」


「キミ! 先の言葉に嘘偽りはないのだね!」


「ちょっとあなた、いい加減にしなさいよ! この子が困っている顔が見えないわけ!?」


「マリーベルさん、この男を見張っててください。私は警備員を呼んできますので」


 ヨミが警備員を呼びに行こうとすると、男もまずいと思ったのか揺らすのを取りやめる。

 だが代わりと言わんばかりに、男は何かをエルシャに差し出してきた。


「キミにこれを渡しておく。私の隠れ家の住所が記された名刺だ。後で……できれば近いうちに来ていただきたい」


「いや、その、困ります……」


 当然エルシャは受け取りを拒否したが、男は強引に手渡してきた。すると程なくして警備員たちの足音が聞こえ、男もさすがに限界を感じたのか足早に去って行ってしまった。なんとまあ逃げ足の速いことか。嵐を呼ぶ男とは、ああいう人間のことをさすのだろう。


「まったく、とんでもない奴がいたものね。芸術のゲの字も知らない下種野郎に違いないわ」


 マリーベルはここぞとばかりに悪態をつく。距離的に男には聞こえないが、耳元で叫んでやれるなら大音量で怒鳴ってやりたい気分だった。


「はぁ、はぁ、つ、疲れました……」


「ところでエルシャさん。あの男から何を押し付けられたのですか?」


「確か名刺だとか言ってましたが……」


 ヨミに言われ、改めてエルシャは手元の紙切れを確認する。何か文字が書かれているようだ。マリーベルの屋敷で勉強したおかげで、簡単な文字くらいは分かる。ので、読み上げてみることにした。


「えーっと……。み、で……ミデロと書かれてあります」

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