第30話 聖竜召喚陣
そこは狭い路地裏だった。昼夜を問わず人通りが少ないどころが無いに等しく、それゆえに緊急時の逃走先としてはうってつけだった。
何もない空中に魔法陣が展開されると、そこから二人の男が飛び出した。
「はぁ、はぁ……大丈夫ですか、マウラ君。手の具合は?」
「僕は大丈夫です。それよりイドラ様の方が心配です。この辺なら人目もありませんし、少し休んでいくべきだと思います」
マウラは肩で息をするイドラの様子を案じ、提言する。
しかしイドラは首を横に振った。
「我々には一秒たりとも休んでいる暇はありません。彼らは……彼女はきっとこの場所もすぐに見つけてしまうでしょう」
「ですが!」
言い募ろうとするマウラを、イドラは毅然とした態度で遮る。たとえ息が乱れようと、追い詰められようと、冷静な判断力に陰りは見られない。
「目標を変更するしかないですね。理想はターゲットの捕縛でしたが、こうなっては仕方ありません。ここから先は抹殺に切り替えます」
「ま、抹殺……」
イドラの冷酷な物言いに、マウラは思わず絶句してしまう。事前に選択肢の一つとして示されてはいたし、やむを得ない場合はそうする覚悟もあったが、いざ目の前に突き付けられてしまうとやはり衝撃は大きい。
「もちろん、私もこの選択を望んでいるわけではありません。むしろ真逆の思いです。しかし我々の目的を考えれば、どのみち避け得ない道です」
「はい。それは分かっています」
イドラの言葉にマウラは頷く。
「しかし方法はあるのですか? ずいぶん時間も経っていますし、衛兵の邪魔が入ると思うのですが」
「取れる方法は一つしかないでしょうね。今こそ……奥の手を使う時です」
そう言うとイドラは、星々が煌めく夜空に向かって手をかざした。体内に残るすべての魔力が、手のひらの上に集約していく。そしてそれは、辺り一帯を覆いつくすほどの魔法陣となって展開された。
マウラは息を飲んで成り行きを見守る。いったい何の魔法陣なのだろうか。長い間イドラに付き添ってきた彼でさえ初めて見る大きさの魔法陣だった。
「見ていなさいマウラ。これこそが主君より賜わりし至高の術……聖竜召喚陣です!」
「聖竜……召喚陣……」
マウラは呆然と呟く。噂には聞いたことがあったが、まさかこれほどとは思わなかった。イドラの体内から注ぎ込まれていく魔力はあまりに密度も量も規格外で、思わず顔も歪んでしまいそうになる。
だがしばらくすると、魔法陣から発せられる光は弱まっていく。消えかかっていく魔法陣の模様に呼応するかのように、イドラも次第に余裕がなくなっていった。流れ出る汗の量がいかに困難な魔法であるかを物語る。
いや、流れ出るのが汗だけならばどれほど良かったことか。あまりに歯を食いしばったせいか、あるいは内臓がやられてしまったか。口元から滴る赤い液体があまりに痛々しく目に映る。
「ぐぅぅぅうううう……がはっ!」
「イドラ様!」
マウラは仰天し、イドラに駆け寄る。咳と同時に吐き出した血の量は決して多くはないが、このまま続けていけば、さらに多大な負荷が掛かることは想像に難くない。
至高の術。先ほどイドラはそう言ったか。確かに効果は至高だが、体に掛かる負担も至高だ。少なくとも魔力を消費した体でやるべき術ではないことは、魔法を一切使うことのできないマウラにも分かってしまった。
「イドラ様、今すぐ中断してください! 体が……命が危険です!」
「ふっふっふ……私は大丈夫です。心配してくれてありがとうございます。やはり君は親切ですね……がふっ!」
「こんな時に冗談はやめてください!」
「私が冗談を嫌っているのは君もげほっ、げほっ! よ、よく知っているでしょう」
「そんなの初めて知りましたよ! とにかく今すぐやめてください!」
ついに血反吐まで吐き始めたイドラを、必死にマウラは止める。だが魔法を使う者というのは例外なく頑固なのか知らないが、一切緩める気配はしない。まるで一度展開した魔法を引っ込めるのは魔法使いの恥だとでも言うかのように、イドラは最後の魔力を注いでついに膝から崩れ落ちてしまった。
「イドラ様!」
「さっから言っているように私は大丈夫です。そんなことよりもマウラ君……キミがいてくれて、本当によかった……」
「だからこんな時に冗談は――!?」
突然、マウラは上半身が縛り付けられるような感覚に陥る。しかしそれは幻覚でも何でもなく、実際に体が鎖で縛り付けられていた。
上空の魔法陣から飛び出た光の鎖が、マウラを捕らえたのだ。
「ありがとう。キミの親切が、世界を、いえ……私を救いますよ」
「イドラ様!? これは、いったいなんですか!?」
「しかしキミは物分かりが悪いのが欠点だ」
「イドラ様! イドラ様!?」
状況が飲み込めないマウラは、ただ名前を叫ぶことしかできない。そのせいで、吐血により鮮やかに赤く染まったイドラの口元が、わずかに緩んだのも見逃してしまった。
「何度言わせる気ですか。不足分の魔力は……君の生命力で補うので大丈夫と!」
「がああああっ!」
マウラに絡まった鎖が急激に強く締まり、苦悶の悲鳴を辺りに響き渡らせる。それと同時に全身の力も抜けていき、次第に声すら上げる気力すらなくなってしまう。これが生命力を奪われるという感覚だ。
そしてマウラから奪った生命力は鎖を伝い、上空に展開された魔法陣に注がれる。
失われそうになっていた光も元に戻り、いや、それどころかさらに強い光を放つまでに復活する。
「おお、やはり魔力よりも生命力の方が効率がいいですね。見てくださいマウラ君。この光は、この光こそが君の生命の輝きなのでしょう。実に素晴らしいとは思いませんか、マウラ君。……マウラ君?」
返事がないことにイドラは不自然さを覚えたが、よく考えてみれば当然のことだった。生命力のすべてを吸いつくされてしまっては、声を出すどころか首を振ることさえ出来なくなるのだから。
――ボトリ。
締め付けていた鎖は解かれ、役目を果たした抜け殻は地面に落下。
その際にポケットから落ちた手帳をイドラは踏みつけながら、高らかに言い放つ。
「おいでませ、聖竜様!!」
町全体を覆うほどの光が魔法陣から放たれると、やがてそれは姿を現す。
神々しく輝く白き鱗に全身を覆われ、四枚の翼を雄々しく広げる、勇ましくも恐ろしい姿にイドラは思わず大粒の涙を流してしまう。
「……美しい」
漏れ出た言葉はたったの一言。
だが、それ以上の言葉は必要ない。
聖竜教団が有する聖竜の一体。
名は、歓喜を表すハーネスタ。
「グオオオオオオオオッッ!!」
その咆哮は、まさに歓喜の轟きであった。
「おお、ハーネスタ様もやる気でいらっしゃる。私のような矮小な存在など邪魔でしかないでしょうし、いったん離れるとしましょうか」
イドラは転移魔法陣を展開し、上空へと移動する。下に広がる町の様子を見るには、まさに特等席とも言っていい場所である。しかしこうしてみると、なんともまあ壊しがいのありそうな景色であろうか。建物からは先ほどの咆哮の正体を探るため、ぽつりぽつりと人が出てきている。
「さてさて、お手並み拝見。まずは手始めに、この辺一帯を焼き払っていただきましょうか!」
その言葉に応えるかのように、ハーネスタはもう一度咆哮を上げる。同時に人の悲鳴のような声も聞こえてきたが、ハーネスタはお構いなしに金色に輝く炎弾を口から発射。地面に着弾するとそれは爆発するかのように燃え広がり、やがて悲鳴すらも聞こえなくなった。
「こ、これは……私の想像をはるかに超えている。恐ろしい……私はなんと恐ろしい存在を呼び寄せてしまったのだろうか!」
一瞬にして町の一部が消え失せた。
あまりにも認めたくない事実に、イドラは戦慄してしまう。
自分でも気づかぬうちに手や足が震えてしまっている。
自分でも気づかぬうちに、口元は緩んでいた。
笑みが止まらない。
本当は笑いたくないのに、こみ上がる愉悦が理性を上回ってしまうのだ。
もう認めるしかないのだろうか。自分は今。この演劇を最高に愉しんでいる、と。
そうしてイドラは、ただ純粋に笑みを浮かべるのだった。




