第26話 二者択一
日が沈み、夜が訪れる。石化からエルシャが目覚めると、そこには洞窟から帰ってきたマリーベルとヨミが立っていた。何度も繰り返した馴染みの光景だが、それも今日で最後になるかもしれない。
「おはようございます、エルシャさん」
相変わらずの夜なのにおはようというヨミからの挨拶。これもまた馴染みのやり取りだ。最初は変だと思っていたが、エルシャにとってみれば夜になってからが一日の始まりなので大して気にならなくなってきていた。だがこれも今日で終わりになるかもしれないと思うと、少し寂しい気もしてくるのもまた事実だ。
「おかえりなさい、二人とも。『カギ』というのはあったんですか?」
「もちろんありましたよ。おかげで無事に持って帰れました」
「そうですか……本当に、本当にありがとうございます。これで石像にならなくて済むようになるんですよね?」
「そのはずです。マリーベルさん、エルシャさんに渡してあげてください」
「ええ、分かったわ」
ヨミに促され、マリーベルは龍の雫が入った小瓶を手に取る。
「さあエル、これを飲んでみて」
「へぇ、カギって龍の雫のことだったんですね」
「そうらしいわ。洞窟の奥で大事そうに祀られて……って、なんでこれが龍の雫だって分かったの?」
話している途中でマリーベルは違和感に気づく。どうしてエルシャが小瓶の中に入っている液体の正体を知っているのか。傍から見ればただの透明な水にしか見えないうえ、エルシャには過去の記憶がない。龍の雫という言葉が出るのはあまりに不自然かつ不可思議だった。
「あれ? そういえばなんで分かったんでしょう」
だが、理由が知りたいのはエルシャも同じだった。どうして唐突に龍の雫という言葉が出てきたのか。エルシャ自身も驚いている。
「本で読んだとか?」
「断言は出来ませんが、それはおそらく違うかと思います」
エルシャは首を横に振る。この書物庫には多種多様な本が貯蔵されているが、少なくともそんな内容を見た記憶はなかった。だいたい今のエルシャにそんな難しそうな内容の本が読めるはずがない。
「ま、まあともかく飲んでみてよ。夜が明けてみないと効果は分からないけど」
「……」
マリーベルに促されるが、エルシャは小瓶を手に持ったまま動かない。
「あの、ヨミさん。聞きたいことがあるのですが」
「どうしました?」
「この龍の雫を飲めば、病気でも何でも治るんですよね?」
「はい、そのはずです」
「じゃあ、グラスファ病……とかも」
(……ッ!?)
「石化も解いてしまうんですからグラスファ病も造作ないはずです。でもどうしてエルシャさんがそれを聞くのですか? 何か関係でも?」
「ちょっと待ってエル! どうしてあなたがそれを知ってるの!?」
目を見開き、マリーベルはエルシャに詰め寄る。グラスファ病もまた世間的には馴染みの薄い言葉だ。記憶を失ってしまっているエルシャが知っているはずはない。はずは、ないのだが……。
「今まで黙っていてすみません。実は――」
もはや隠すことは出来ない。エルシャは昨晩の出来事をすべて白状することにした。
呻き声が聞こえてきたこと。マリーベルの妹のセイラに出会ったこと。セイラはグラスファ病に侵されているということ。そして、マリーベルはグラスファ病を治せる薬を探すために旅に出ようとしていること。
それらを話し終えると、エルシャは受け取った龍の雫を返そうとした。
「わざわざ取りに行ってもらったのに申し訳ありません。これはセイラさんに使ってあげてください」
「本当にいいのですかエルシャさん。こんな絶好の機会は二度と訪れませんよ?」
ヨミの言うことはまさにその通りだ。石化を解くことができる薬がおいそれと手に入ることなどまずあり得ないだろう。世界中を旅しても、いや、旅してもなお二本目が見つかるとは言い切れない。
だが、エルシャもそんなことは分かっている。分かっている上での発言だった。
「いいんです。わたしはセイラさんと違って、今すぐ龍の雫を飲まなければ死ぬというわけではありませんから」
「でも!!」
顔をくしゃくしゃにし、マリーベルは声を荒げる。
「でも、それじゃエルは……それを手放したら、記憶を取り戻すのを諦めることになるのよ!?」
「マリーベルさんもそれでいいんですか?! ここで龍の雫を手放したら、セイラさんの命を諦めることになるんですよ?!」
「……!?」
負けじと声を張るエルシャの迫力に圧倒され、マリーベルはたじろぐ。ここまで大声を出すエルシャの姿は初めて見るかもしれない。
「あと、わたしは一言も諦めたなんて言ってませんよ。方法が一つなくなっただけです。きっと他にも石化を治す方法はあるはずですから」
「そんな……ほ、本当にいいの……?」
「はい。マリーベルさん、今すぐこれを持ってセイラさんのところに行ってあげてください」
「うぅ……ごめんね。ごめんね、エル……!」
溢れる涙と嗚咽を堪えながら、マリーベルは小瓶を手に取る。
「ふふ、なんだか変ですよ。どうして謝ってるんですか?」
「それは、だって……ううん。ありがとう。本当にありがとう、エル……!」
何度も何度も謝るマリーベルだったが、最後にはぎこちないながらも笑顔を見せてくれた。
それでいい。
それでいいんだ。
きっと、それで。
エルシャは走り去るマリーベルの背中を見ながら何度も繰り返す。この選択によりセイラの命は救われる。最善かどうかは分からないが、己の心に従った結果に後悔はなかった。
「……すみませんヨミさん。旅、出られなくなっちゃいました」
「エルシャさんこそ謝らないでください。私はあなたの選択を尊重します。強い心と慈悲深さを持ち合わせていなければ、きっとその決断には至らなかったはずですから」
「買いかぶりですよ。わたしはそんな立派な考えは持ってません。ただ、誰かを犠牲にしてまで目的を果たしたくはないと……そう思っただけです」
「いいじゃないですか。私からすれば十分に立派です」
本音を吐露し終えたエルシャに、ヨミは優しく微笑んだ。
◇ ◇ ◇
「わざわざうちまで運んでもらって、本当にありがとねぇ。重くて大変だったでしょう?」
「いえいえ、そんなことないですよ。こう見えても僕、衛兵ですから。力には自信があります」
両手いっぱいに持った荷物と、背中に負ぶったおばあちゃんを下ろしながら少年は言う。
遡ること十数分前。暗くなった道を少年が歩いていると、散乱した果物とともに倒れているおばあちゃんを発見したのだ。どうやら腰を悪くしているのに、無理して安売りしていた果物を大量に買い込んでしまい、案の定限界が来て道に倒れてしまったのだという。
何はともあれ無事に帰宅したおばあちゃんを見届けると、少年はその場を去ろうとする。
「ああ、待っておくれよ。お礼と言っちゃなんだが、果物でも貰っていっちゃくれないかい?」
「すみません、これから用事がありますので。お気持ちだけありがたく頂いておきます」
「そうかい……じゃあ、名前だけでも教えてくれないかい?」
「僕はマウラです。困ったことがあったらまた言ってくださいね」
「マウラ君、だね。今日は本当に助かったよ」
「いえいえ。では僕はこれにて失礼します」
マウラと名乗った若い衛兵は一礼し、再び目的地に向かって歩き出す。予定時刻には少し遅れてしまいそうだが、町民の役に立てたことは衛兵冥利に尽きる。人の役に立つために衛兵を志願した彼にとって、これ以上の幸福はないだろう。
だが、幸福というのは感情の一種に過ぎない。時が経てばいずれは忘れてしまう。ならば忘れる前に記録しておかなくては。
いつものように、マウラは懐から手帳を取り出す。
「道で倒れていたおばあちゃんを助けてあげた。荷物も持ってあげた……っと。ふふふ、親切リストが一気に二つも増えたぞ」
なんて幸福なんだろう。
なんて充実しているんだろう。
今開いているページは、すでに日々の積み重ねを書き記した文字で埋め尽くされようとしている。これを見ていれば自分は社会に、ひいては世界に必要とされているのだと実感できる。すなわちそれは生を実感するということなのだ。
僕の親切でみんなを幸せに。それが、マウラという人間の矜持であった。
「僕は今日、人の役に立った」
手帳に記された文字を見て、思わずマウラは独り言を呟く。
「僕は今日、人の役に立った」
さらにもう一度。自分に言い聞かせるように呟く。
「僕は今日、人の役に立った」




