第24話 グラスファ病
呻き声が聞こえてくるのは、廊下を少し進んだ先にある部屋からだった。それらしき部屋の前に立つと、もはや聞き耳を立てるまでもなく鮮明に誰かの苦しそうな声が耳に入ってくる。
「うぅ……ああ……っ!」
どう考えても緊急を要する事態だ。エルシャは即座に部屋の扉に手をかけるが、そこで悪い癖が出てしまう。そう、究極とも言うべき人見知りだ。
もしかしたらこれは呻き声ではなく、寝言やいびきかもしれない。そんな可能性が頭をよぎってしまう。その可能性が当たっていたのだとしたら、このまま扉を開けると安眠を邪魔してしまうことになり、ほとんど居候に近いエルシャの危うい立場がさらに危うくなってしまう。
時には行動を起こさず、そっとしておく。そんな選択肢が正解になる場面もたまにはある。
(いや、何を考えているんだわたしは……!)
だがエルシャは、扉を開ける直前になって保身に走りそうになった自分の意志の弱さが嫌になった。もしかしたら本当に苦しんでいるかもしれないのに、このまま帰ろうというのか。現に扉の先にいる誰かは今もなお呻き声を上げ続けている。それを黙って見過ごすほどエルシャは人見知りではなかった。
急いで扉を開ける。聞こえてきた呻き声が単なる寝言、あるいは独創的ないびきだったならどれだけ良かったことか。部屋に立ち入ったエルシャが目にしたのは、ベッドの上で苦しむ少女の姿だった。
それが誰なのかは分からない。歳は自分やマリーベルよりもいくつか下のように見える。
額には大量の汗。頬には……いや、顔全体を覆う奇妙な模様の黒い痣。敢えて形容するならば鎖だ。赤黒く錆びた鎖が、顔全体を縛り付けているように見える。しかもそれは手の甲や足の裏にも及んでいることから、おそらく鎖状の痣は全身を覆っている。
「そこに、どなたか……いらっしゃるの、ですか?」
小さな少女はそばに立ったエルシャの存在に気づき、半分だけ目を開けながら尋ねてきた。
「すみません。苦しそうな声が聞こえてきてしまいまして」
「お願いします……そこにある薬を、取ってはもらえませんか……」
「薬ですか? は、はい、分かりました……!」
部屋の中を見回してみると、机の上に置いてある粉末状の薬と、透明な瓶に入った水を発見した。その両方を手に取り、少女に持っていく。
「これですか?」
少女は頷く。受け取った粉末状の薬を口の中に注ぐと、水で一気に流し込んだ。すると赤黒い鎖のような痣は引かないものの、過呼吸気味だった息遣いはだいぶ落ち着いてきた。
「……ありがとうございました。あの、もしかして……いえ、もしかしなくてもあなたがあのエルシャさんですよね?」
「はい、そうで……いえいえ違います違います! 確かにわたしの名前はエルシャですけどこの町の英雄のエルシャさんとは別人というかこの格好もただ憧れているだけでというか300年前の人が今生きてるわけな――」
急に早口になったエルシャ。その必死な姿が可笑しかったのか、少女は弱々しくも笑みを浮かべた。
「ふふっ。誤魔化さなくても大丈夫ですよ。話はお姉様から伺っておりますので」
「え、お姉様?! それってもしかしてマリーベルさんのことですか?」
「はい。私は妹のセイラです。いつもお姉様が世話になっております」
「いえいえ、わたしの方がもっと世話になりっぱなしですから……」
エルシャは遠慮がちに諸手を振る。しかし本当に驚いてしまった。まさかマリーベルに妹がいただなんて。
「ちなみに、話ってどのくらいまで聞いてますか?」
「色々です。昼間は石像になってしまうことや、初めて会ったレストランでのこと……けど一番は盗賊を退治したお話ですね。その話をしているときのお姉様はどこか誇らしげでした」
なるほど。この感じだと本当に色々と洗いざらい話をされていそうだ。まるで丸裸にされるとはこういう感覚のことを言うらしい。初めて覚える感覚に、エルシャは顔を赤くしてしまう。恥ずかしい、という感覚は何度も経験したような気がするが、これはまた別の方向性の恥ずかしさだ。
「うぅぅ。ほ、本当にそんなこと、信じたんですか?」
「ええ、信じますよ。あんなに楽しそうなお姉様は初めてでしたから。私も、本物のエルシャさんに会えて本当に光栄です」
そう言ってセイラは微笑む。それに釣られるように、エルシャの口元も緩んだ。
「え……えへへへっ。面と向かって言われてみたら、ちょっと恥ずかしいですけど嬉しいですね」
「私もです。まさか生きてる間にこんな経験ができるなんて、夢にも思ってませんでしたから」
「――!」
エルシャはハッと気づく。普通の人が、ましてや自分よりも歳が下の人の口から「生きてる間に」なんて出るわけがない。まるでもうすぐ死んでしまうみたいじゃないか。
気にはしないようにしていたが、やはり目には入ってきてしまう。顔を覆う赤黒い鎖状の痣は、何かしらの病気なのだろう。
「あ、すみません……。今のは……忘れてください」
セイラは申し訳なさげに言ってきた。
「その顔の痣、もしかして……いえ、もしかしなくてもグラスファ病ですよね」
エルシャは確信めいた口調で言う。
「ど、どうしてそれを……!」
グラスファ病。世間的にはとても珍しい病気を知っていることにセイラは驚きを隠せなかった。しかしながらなぜエルシャがその病気の名を知っているのか。それは――。
「書物庫の本棚に、グラスファ病に関する本がたくさんあったので。わたしには書いてある内容が難しすぎてまったく読めませんでしたが、載っている絵がセイラさんの痣にそっくりでした」
書物庫の片隅。日も当たらない一角にある本棚には、先の『グラスファ病』に関する本や資料がびっしりと貯蔵されていた。
ある意味では執念とも言うべき異様な光景だった。まるで心を鷲掴みされたかのような感覚だった。その中の一冊に手を伸ばしたのはほんの軽い好奇心からだった。
当然ながら文字を勉強中のエルシャにはさっぱりの内容だったが、病状を記した絵図には強烈な印象を覚えた。体内機能が異常を起こし、全身が鎖で縛り付けられたような模様の痣が浮かび上がる。たとえ記憶がなくとも、生物的な本能が恐怖心を駆り立てるには十分だったはずだ。
「そう……でしたか。確かに書物庫にあるあの本はとても難しくて、私もまったく読めませんでした。ですが私の姿を見ればどういった病気であるかは何となくでも分かるはずです。見ての通り……私の命はそう長くはありません」
セイラの口ぶりは、まるでもう悟っているようだった。エルシャは返す言葉が見つからず、ただただ俯くことしかできない。
「あの、エルシャさん。お姉様がエルシャさんの旅に同行するとお聞きしたのですが、それは本当ですか?」
エルシャは俯いたまま、首をさらに深く降ろす。
「でしたらこうお伝えください。私のことは気にしないでください、と。私から言ってもお姉様は聞いてくれないと思いますので」
「そ、そんな、なぜですか!?」
「お姉様が旅の同行を申し出た理由の一つに、グラスファ病を治せる薬を探し出すことも入っていると思うのです。けど私はお姉様にそんな張り詰めた想いで旅に出てほしくないんです。そんなの、絶対に楽しくないじゃないですか」
「……っ」
またしてもエルシャは返す言葉を見失ってしまい、俯く。落とした視界の先に入ってきたセイラの両手は、病魔に蝕まれているとは思えないほど綺麗な肌をしていた。
エルシャには分からない。なぜこの少女はこんなにも強い眼差しをしているのか。なぜ、自分を顧みず他人を思いやることができるのか。不思議と悲壮感は感じない。しかし、悲壮感を感じない理由もまた分からなかった。
今のエルシャに出来ることはただ一つ。
「わ……分かりました」
セイラの願いを果たせるかも分からない。分からないこと尽くしの自分がとにかく情けない。だが、そう返すしかなかった。
そしてセイラの部屋を後にすると、必死に逃げるかのように書物庫へ戻って朝の訪れを待つのだった。




