第136話 ペンネームはまだ秘密
ギルドからある程度離れたところで、四人は一息ついた。さすがにここまで来ると騒ぎの声は耳には入ってこない。息も整ったところで、メルティーナは改めて申し訳なさそうに頭を下げた。
「……ごめん。あたしが早まったばかりに」
そう言って、元々深く被っていたフードをさらに深く被るメルティーナ。だが他の三人は気にするどころか、なぜ謝られているのかすら分かっていない状況だった。
「どうしたの? 突然謝って」
マリーベルの返事に、メルティーナは面食らったように顔を上げた。自分が想像していたものとはまるっきり別の反応だった。
「あれ? お、怒ってないの……?」
「怒るも何も、ティナちゃんは何もしてないじゃない」
「だって……騒ぎになったのは、あたしの軽はずみな行動のせいだし……」
「気にしなくたっていいわよ。だって憧れの人が目の前に現れたんでしょ? きっとあたしがティナちゃんの立場だったなら同じことをしてたと思う。顔を隠したままだと失礼な感じがするしさ」
「……! そ、そうなの。失礼な気がして、無意識にやっちゃった……」
「それじゃあ仕方ないわね。実際にハイネさんに会ってみてどうだった?」
「なんというか……想像してたよりだいぶ小っちゃい感じだった」
メルティーナのあまりにもあんまりな感想に、マリーベルは吹き出した。失礼ながらマリーベル自身も、初めてハイネに会った時は同じ感想を抱いていた。
「でも、別れ際に見た背中はとても大きく感じた。実際に会ったからこそ……いつか追いついてやるんだって、追い越してやるんだって決心が出来た」
「それはいい体験になったわね。きっとティナちゃんならすぐに追いつけると思うわ。なんたって王女様が書いた本なんだもん」
「……! それはダメ!」
「ダメって?」
マリーベルはそっくりそのまま聞き返す。いったい何がダメなのか。
「あたしの名前や立場を使って人気になったって意味なんかない。背中を越すと言っても、ちゃんと正々堂々と勝負して越したいんだ」
そう語るメルティーナの青い瞳には、確かな炎が揺らめいていた。青く滾る、赤い炎よりも数段上の熱がこもった熱い炎が。その表情を見て、マリーベルは自省の念がこもった頷きを深く落とす。
「意味がない……か。ティナちゃんの言うとおりね。ごめん、私の考えが甘かったわ」
「謝らなくたっていいよ。別にマリーベルは何も悪くなんかないし」
「ティナちゃん……ありがとね」
「お礼もいらない。そのこっ恥ずかしい呼び方さえ改めてくれるならね」
「ええ、前向きに考えておくわ。ティナちゃん」
「……」
メルティーナは何を言っても無駄なことを悟り、押し黙った。
「それはそうと、自分の名前を出さずに本って出版できるんですか?」
「もちろん出来るに決まってる」
エルシャからの何気ない質問に、メルティーナは生気を取り戻したかの如く得意げに答える。
「ペンネームって知ってる? 自分の名前とは別の、作家としての名前。あたしはそれを使って本を出そうと思ってるんだ」
「へぇー、そんな便利なものがあるんですね。ちなみにどんなお名前を使うつもりなんですか?」
「うーん……まだ秘密」
「えぇー。勿体ぶらないでくださいよ~」
「そんなこと言われたって、まだこれといって決まったわけじゃないし。というか、その前にまず本自体を書かないといけないしね」
確かにそうか、と思わずエルシャも納得。どんなペンネームにするか気になるところだが、ここは大人しく引き下がることにした。
「やること盛りだくさんですね」
「そうだね。大変そうだけど、不思議と悪い気はしない。むしろワクワクしてる自分がいるよ」
相変わらずメルティーナの口調は平坦だが、依然と比べると明らかに熱意が感じられる口ぶりであった。あるいは元々胸の奥に秘めていた熱意が、ハイネと出会ったことをきっかけにコップの淵から溢れ出たとでも言うべきか。ともかく鉄は熱いうちに打てということで、早くもヨミは王都からの出発を提案する。
「ティナさんの熱い想い、確かに聞き届けました。ではさっそく次の目的地へ向かいましょう」
「……あ、ごめん。その前にやらなきゃいけないことがあった」
「やらなきゃいけないこと、ですか?」
「ハイネ先生に会って思い出したんだけど、大図書館から本を借りたままだった。出発する前に返してこないと……」
メルティーナは鞄から取り出した“千路八界旅行記の第17集”を抱えながら申し訳なそうに言う。エルシャとマリーベルも確かに覚えている。その本が、メルティーナから依頼されて直々に取りに行った本であることを。借りたものは必ず返さねばならない。後腐れなく旅立つためにも、一行は再びフェイルガルド魔法図書館へ向かうことにした。