第113話 歓声と悲鳴
◇
時は数秒ほど遡る
ベルトランに対する黄色い歓声が悲鳴に変わるのは、この直後のことだった。
「ものすごい人気ですね坊ちゃん。なんだか私まで誇らしくなってきます」
そう耳打ちするのは、ベルトランの後ろを付いて歩く護衛の女。背丈はかなり大きく、ベルトランに耳打ちするにも少し屈む必要がある。大人の男でも彼女より背の高い人間はきっと稀だ。
「おいペトラ。公の場でその呼び方はするなと言ってるだろ」
「はっ! 申し訳ありません、いつもの癖でつい……」
「まったく、次はないからな」
ペトラと呼ばれた護衛の女は申し訳なさそうに頭を下げる。
そして再び頭を上げた次の瞬間――二人の目の前に、怪しい格好をした野盗の集団が立ちふさがった。
各々の手には刃物が握られている。
明確な殺意が、ベルトランへ向けられていた。
辺りは一瞬の静寂に包まれる。
「きゃーーーっ!」
異様な状況を察知した最前列の観客が、甲高い悲鳴を上げる。それに釣られるようにして周りの観客も一斉にパニックになり、砂煙が巻き起こるほどの足音を立てながら人が逃げ出していく。
もちろん野盗がこの好機を見逃すはずがなかった。
騒音と逃げ惑う群衆に乗じ、ベルトランとの距離を一気に詰める。
「ぎょえーっ! お、お助けーっ!」
「不埒な悪党め。この私が相手になりましょう」
野盗が動き出すのと同時、ペトラがベルトランの前に立ちふさがる。
彼女の手に武器らしい武器は握られていない。
徒手空拳。
強いて言うなら彼女自身が武器だった。
「邪魔だデカ女! てめえもついでに殺ッたろうか!?」
「度胸だけは買います。しかし勢いだけで私を倒せるなど……思わないことです! ふんっ!」
次の瞬間、野党どもの体は宙へと放り出された。
高く高く飛んだ野盗達は、何が起こったか理解する間もなく地面へ叩きつけられる。
そうして鈍い痛みが全身を駆け巡った段階でようやく何をされたかを理解した。
彼らは皆、ペトラの武術によって投げ飛ばされたのだ。
あまりに一瞬だが、実に見事な身体捌きは群衆の目にもしかりと焼き付けられた。
悲鳴へと変わった黄色い歓声が、今度はペトラに対する賞賛の歓声へと変貌する。
そして次々と巻き起こる拍手。
ベルトランはペトラの元へ、身を隠すように駆け寄った。
「よ、よくやったぞペトラ!」
「いえいえ、坊ちゃんがご無事で何より――はっ、またしても私は……!」
「いや、いい。今回ばかりは見逃してやろう!」
「ありがたき幸せです、坊ちゃん」
嵐は過ぎ去った。
こうしてベルトランの凱旋は再開される――かと思いきや。
「隙を見せたな。その首、貰い受ける!」
ベルトランの背後に、野盗の残党が忍び寄る。群衆に紛れ込み、千載一遇の好機を窺っていたらしい。要するに先ほど投げ飛ばされた野盗どもは陽動で、本命ではなかった。多少の犠牲を払おうとも首を取れれば十二分に釣りが来る。本命の一刀が、ベルトランのガラ空きな背後へと差し迫る。位置関係的にペトラの助けは間に合いそうにない。
「し、しまった!」
「覚悟っ!」
残党の出現から僅か一秒未満。たとえベルトランが断末魔を上げようと歓声と拍手にかき消されてしまうだろう。なにせ襲撃されているベルトランですら、未だに残党の存在には気づいていないのだから。
気づいているのはペトラと、そして――。
「覚悟とは……軽々しく口にするものではないですよ」
群衆の中から飛び出てきたヨミの二人だけった。
ベルトランと残党の間に割り込み、滑らかな抜刀で相手の刃を受け止める。
ヨミにとっては、野盗の襲撃など取るに足らない些事だった。
ベルトランが襲われるより前に、野盗の存在を感知していたのだから。
そして今、その野盗はヨミの手によって制圧された。
刃を受け止めたまま残党の体を地面に押し倒し、そのまま首元へ刀を突きつける。
一連の流れはあまりにも鮮やかで、まるで予め打ち合わせでもしていたかのような華麗さだった。
「命の汚れを洗い流す覚悟は出来ていますか?」
「た、助けてください……! ただ、ちょっと目立ってみたかっただけなんです……!」
「そうですか。目立ちたかっただけ、ですか」
ヨミは残党の首筋に刀を撫で擦る。新たに出来た横一線の筋に新鮮な赤色が滲みだすと、残党はそのまま気を失ってしまった。
「おや。この程度で気を失うとは。まあ私としてはその方が好都合なんですけどね」
そう吐き捨てたヨミが立ち上がると、傍にはいつの間にかベルトランが立っていた。気配がなかったと言うより、存在感がまるでなかったと言うべきか。
なので少しだけ驚きつつヨミが「どうしましたか」と尋ねると、ベルトランはこっそりと一枚の紙を渡してきた。
「見事な剣捌きだった。あとで礼がしたいから、この紙に書かれている場所まできてほしい。だがこのことは他言無用で頼むぞ!」
いや、渡してきたのではなく、一方的に押し付けてきたと言う方が正しいかもしれない。何はともあれ紙がヨミの手元に渡ると、ベルトランは何事もなかったように群衆へ無事をアピールした。
「またこのパターンですか。王侯貴族の間で流行ってるんですかね、これ」
紙には宿屋の住所と部屋番号が書かれている。
どこまでも既視感しかない展開にヨミは苦笑を浮かべるのだった。