第103話 不浄なる時の狭間に潜む獣
「……!」
エルシャがそう尋ねた瞬間、部屋の空気はピシリと張り詰めた。もしかしたら地雷を踏んでしまったのかも知れないが、どうしても気になってしまうのだから仕方がない。
なにせ“角がない”というのは誇張なしに本当のことなのだから。部屋に置かれている家具はテーブルも椅子もクローゼットも、それどころか部屋の外にあるものも含め、すべてが鑢か何かで角が削り取られて不自然な丸みを帯びていた。
まさかこれも安全対策のためだとでも言うのか。確かに角を削り取って置けば頭をぶつけても大怪我はしないかも知れないが、ここまでやってしまうのはいくら何でも気にしすぎだと言わざるを得ない。
だが返ってきたのは、今まさに考えていた通りの答えだった。
「はは、角があったら危険だからね」
平静な口調で答えるハルピンに対し、エルシャは即座に反論する。
「でも、食堂や宿屋の家具にはこんな加工はされてませんでした」
食堂や宿屋でも度肝を抜かされたのは同じだが、さすがにここまでの安全対策は施していなかった。少なくともテーブルや椅子は普通に角張っていた。そして出来ることなら“普通に角張っていた”という表現を使うのはこれで最初で最後にしてほしいものだ。なんというか、意識するだけで背筋がぞわぞわしてくる。
「ははは、我々は特に心配性だからね」
「……心配性とかっていう次元ですかね。安全性以外に、何か別の意味というか意図があるのではないですか?」
「エル!」
マリーベルが話を遮ったが、エルシャの弁舌は止まらない。
「百歩譲って家具の角を丸くすると言うのは理解できます。でも、部屋の隅まで丸くしてしまうのは理解が出来ません! いくらなんでもそこにぶつけて怪我することはないでしょう!」
エルシャは改めて部屋の中を見渡した。端の四隅。正確には天井の四隅も含めた八隅が、石膏のようなもので塗り固められ、角が潰されているのだ。
念には念を入れての処置と言われればそこまでだが、やはり別の意図を感じてしまうのもまた事実。
たとえば危険をなくすために角を潰しているのではなく、“角を潰さなければならない”特別な事情があったのだとしたら。
前後関係はすべて逆で、食べ物をドロドロにしたり“世界一安全な村”だと宣っているのがカモフラージュのためだとしたら。
村長親子には秘密があり、屋敷の中の“鋭い角度”を取り払っても怪しまれないようにするために、洗脳じみた“情操教育”を村単位で行ったのだとしたら。
そう考えるとつじつまは合う気がする。
あまりにも突飛すぎる考えだと言うことに目を瞑れば、だが。
「キミは……どこまで気づけたんだい? 旅の体験談の代わりに教えてはくれないか?」
ハルピンの目の色が変わった。
それと同時に、部屋の中にある物がゴトゴトと音を立てて揺れ始めた。
タイミングが合いすぎてひょっとして……と思ってしまいそうになるが、この揺れはもちろんハルピンの仕業ではない。
そして揺れは次第に大きくなっていき、ある時を境に立っていられなくなるほどの大きな振動へと変動する。
かなり大きな地震だ。
「す、すごく揺れてます……!」
石化から目覚めて初めて経験する自然現象に、エルシャは恐怖で取り乱してしまうが、それ以上に取り乱しているのは村長親子の方だった。
「ま、まずいです! 揺れで石膏が剥がれ落ちてしまいます!」
「いかん! 早く、早くどうにかしろォォォ!」
正気どころではないハルピンの叫び。
ロングは這ってでも剥がれ落ちた石膏を塗りなおそうとするが、揺れている中では前に進むことすらままならない。
「今は危険です! なおすのは揺れが収まってからでもいいんじゃないですか!?」
エルシャが叫んでも、ロングはなおも止まらない。何かに取り憑かれたかのように這い続ける。しかし最後にドスンと来た大揺れにより、八隅の石膏すべてが剥がれ落ちて部屋の角が露出した。
「なんとか揺れは収まったわね」
マリーベルは立ち上がり、村長親子の様子をうかがう。そこには、先ほどまでとは全く違う二人の顔があった。
目をひん剥いて青ざめているハルピンと、口すら閉じるのを忘れてしまったかのように絶叫するロング。
二人とも全身が震えており、何かに怯えているようだった。
「き、来てしまいます……! 不浄なる時の狭間の猟犬が……!」
「ティ、ティンダ……何ですか?」
聞き慣れない単語の意味をロングに聞こうとしたエルシャだったが、すでに返答を期待出来るような状況ではなかった。石膏の崩落で露となった部屋の一角からは、酷い刺激臭とともに青黒い煙が噴き出す。そしてその煙は徐々に凝固していき、やがて獣のような姿となって顕現した。
「ティンダロスの猟犬です。あなたが思っている通り、この屋敷に角がないのはあの化け物から逃れるための苦肉の策です。奴は……鋭い角度の中に潜み、お父様を殺すために付け狙っているのです」
それは、犬のような形をしていた。しかし犬ではない。全身から青黒い煙を噴き出しながら部屋の中央に鎮座し、体表にはビッシリと無数の目玉が張り付いている。体に曲線はなく、全身が角張った鋭い形で構成されている。まさに異形の化け物と呼ぶに相応しい風貌をしていた。
「グシュぅぅぅ……」
猟犬は奇怪な鳴き声を出しながら、無数の目玉をギョロギョロと動かす。そして一瞬にしてハルピンの姿を視界に捉えると、全身から舌とほぼ同じ色合いと質感の触手を何本も伸ばしてきた。
「ひいーっ! お、お助けーっ!」
ハルピンは逃げられないことを悟り、せめてとばかりに頭を抑えて屈みこむ。もちろんそんなことで防げるはずもなかったが……。
「グシャぁぁぁーーっ!?」
断末魔を上げたのは猟犬の方だった。ハルピンは不思議に思い、頭を上げると、そこには見知らぬ青年が立っていた。彼の足元にはその右手に携えた剣で切り落とされたと思われる触手が数本落ちている。
「あ、あなたは……」
いったいいつの間にやってきたのか。ハルピンは青年の名を尋ねる。
「俺はヒューゴ。一応、王都の衛兵だ」
ヒューゴ。
その名と顔にエルシャは思い当たりがあった。
どこかで会ったことがある気がするのだ。
もう少し、あと少しで思い出せそう……。
「あ! あなたはもしかして“タダ飯”を奢ってくださった衛兵さんですか!?」