八咫烏
どういうことだってばよ。
あまりにも壮大な話に言葉を失う。不敵に笑う江永は俺を見下ろす。
急激にこの部屋だけ酸素が薄くなった。いや、違う。俺の呼吸が浅くなっただけだ。
「鶫くん、良い表情になってきたね。私たちの同胞に近い顔だ」
鏡がないから自分の表情を窺い知ることは叶わないが、今の俺はきっと、多少なりとも興奮しているのだろう。
「江永さん、詳しくお聞かせください」
待ってました、と言わんばかりに、彼は後ろ髪の一部を一本に束ねた特徴的な毛束を、後ろに流して語る。
「私たちの組織の名は『八咫烏』。古来より活動してきた私たちの目的はただ一つ。この国、日本を有るべき姿に回帰させることだ」
江永が指す、有るべき姿すら、俺には分からないが、きっと今がその状態ではないと言うことだけは確信できる。
「君も既知の通り、この日本という国は今、澱んでいる。超少子高齢化、溢れる非正規雇用者に所得格差に教育格差、社会問題だけでも挙げたらきりがない。そこで、鶫くんが言っていたことをするんだ」
「……ゼロからやり直す」
「そうだ。一度リセットを掛ける」
「……仮にそれを成したとして、その後は?」
「大丈夫。もう手筈は整えている」
その手筈とは何だ……。仮に国家転覆を成したとして、それ以降に、改めて体制を敷く、計画が組織にはもう有るのか。
「簡単だよ、鶫くん」
ずっと口を開かなかった凰花がようやく隣で口を開いた。俺に視線を向けることなく、彼女は江永を見つめている。数秒待った後に彼女は凍るような冷たい声音で言った。
「——新たな王を立てる」
王という言葉は、この日本で聞いたことがない。
ヨーロッパの一部の国では、まだ王国がいくつか存在していることは知っているが、俺の中では半分ファンタジーのような話だ。
江永が言う。
「鶫くん、日本の王は?」
「……そもそも日本に王はいなかったはずです。強いて言うならば、天皇?」
「違うな。彼は国民の象徴としての地位を確立しているが、実質的な王ではない」
「それじゃ……政治的な観点から見て、内閣総理大臣?」
「その通りだ。この場合での国全体の統治権限所有者は、現時点での内閣総理大臣と言えるだろう」
たまにチャンネルを回している時に、目に入るニュースを思い出す。内閣での会議や臨時国会などの、上席に座していた柔和な顔をしたお爺ちゃんが、脳裏をよぎる。
脳内補正で、そのお爺ちゃんに王冠を被せてみる。
うん。割と様になっているな。あまり違和感を感じない。
「日本は内閣制を謳っているが、私たちがそう感じたことはない。今の日本は実質的な王制だ。その王制が今の腐敗しきった日本という国をさらに汚し、大きく国力を低下させていると考えている」
「……それはあまりにも言い過——」
「——言い過ぎじゃないんだよ、鶫くん。分かってくれ……」
食い気味に俺に語りかける。話の度に彼の言葉には熱を帯びていき、遂には体を半身にして言った。
「このままじゃ日本終わるぞ」
江永の言葉が重くのしかかる。どこかのインフルエンサーが言う言葉とは、まるで重み、いや次元が違う。彼は本気で日本の現状と、これから先の未来を憂いている。
食い下がるのはこれで最後にしよう。
「江永さん、それに凰花……国家転覆罪の刑罰をご存知ですか?」
「ああ、もちろん知っている。だが、その刑罰が適用されないようにも作り変えるから、関係がない」
完全に言い切ってしまうあたりに、目の前の男から狂気を感じる。隣の凰花も、相変わらずニコニコしている。
ちなみに国家転覆罪と言う罪は存在しない。今回のケースは恐らくだが、内乱罪が適用されるだろう。過去、日本において、内乱罪の適用を検討された事件はいくつかある。だが、実際に適用された事件は、ただの一つもない。適用されたとならば、首謀者は死刑もしくは無期懲役。その幹部も間違いなく禁錮以上の刑罰が課される。
当たり前だが、冗談で済むような話ではない。それに、この先のことなんて関係ない。上手くいかなかった後のことなんて、後から考えればいい。そんな危うさをこの人は孕んでいる。
「必ず完遂する。私たちの代で成し遂げてみせる」
外の景色を見つめる江永から、強い意志が熱を帯びた空気と共に伝わる。彼の背景や過去に何が有ったかは分からないが、思いの強さを感じる。
「……俺に、そこまで話して問題ないんですか?」
「どうして?」
「部外者の俺が口を割ったら、終わりじゃないですか?」
「そんなことはあり得ないな。凰花のお墨付きだ」
俺のいない所で凰花が何を言っているかは、知る由もないが、一定の信頼を得ているならそれに越したことはない。
「それで、俺は何をしたらいいですか? 江永さんは俺に何を求めますか?」
「聞き及んでいた通りで話が早い。まずは一つ、やってもらおうか」
俺は凰花を見た後に天井を仰いだ。もう小細工はやめた。この男にそれは無駄だ。それに、俺が木地を殺したこともこの男は確実に知っている。
「……これ以上のことは、何をすればいい。こちとら、もう一人殺ってしまっているんだ」
俺は昨夜、凰花と別れた後に再度、学校に戻った。木地の死に目を見るために、落下したはずの所まで足を運んだ。だが、そこにはまだ乾き切っていない血溜まりがあるだけで、彼の体はなかった。
残されたのは、何枚かの烏羽。そこで俺は確信した。
凰花の手引きで、誰かが木地の遺体を処理したことを。
「へぇ、期待以上だ」
「それなら結構だ。要件を言って欲しい」
もう引き下がれない。まずはこの人に従うことにしよう。
きっと、それが凰花のためにもなる。
「鶫くんに求めることは二つ。一つ、これからも君が君らしく在り続けること。そして二つ……」
一つ目は実質ないものとみて問題ないだろう。
俺が今後、何らかの事故や怪我で、心神喪失状態になることは可能性として相当に低い。
問題は二つ目。その二つ目がきっとこの場でのメイン。
俺と江永の間の空気だけが停滞する。
「二つ目は」
時が止まるような感覚にさえ陥る。江永の唇の動きが、やけにスローモーションに感じる。
それでも、その言葉だけは、物理法則を無視しない。
現実時間の等倍で流れる。
「南椋哉を消せ」
は? 今日は衝撃的な事実が続く。
それでも、これはあまりにも……。
「どうした? 君にとっては造作もないことだろ?」
違う。難易度の話じゃない。俺が真っ先に議論したいのは、対象のことだ。
「南椋哉。15歳。私立枝葉学園中等部3年4組。サッカー部。ポジションはフォワード。背番号は10番。身長175センチメートル。体重65キロ。所属委員会は放送委員会。得意科目は理科。苦手科目は美術。家族構成は父と母と兄の四人。兄は同学園の高等部……」
「もういい」
「……趣味はサッカー。好きなタイプは胸と器が大きい人。過去の交際歴は……」
「もういいって、言ってるだろ!」
うすら笑いを浮かべる目の前の男に、つい声を荒げてしまった。
駄目だ。冷静を保てない。
左手が凰花の手の温もりに包まれる。まるで俺の冷え切った心に、毛布を掛けるように。
「流石に分かっているか。私たちの何十倍も、君は彼のことを理解しているよね」
「当たり前だ。どれだけの時間を一緒に過ごしてきたと思っている」
南椋哉。愛称はムク。俺もずっとそう呼んでいる。クラスメイトであり、部活のチームメイトだ。そして、10番を背負うエースストライカーでもあった。今にして思えば、俺の約2年間の部活動生活は、彼の背中を追い続けたものだった。
その彼を消す。
「悪いが、私たちは一切の援助はしない。いいね?」
俺を試す、その言葉に俺の中の何かが弾けた。まだ葛藤がないわけじゃない。
だけど、凰花の手前、カッコつけさせてもらおう。
「……問題ない」
凛と張り詰めた空気感。俺の一言が響いた。
女の子の前だとカッコつけちゃうのって仕方ない。