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新世界より

クラシック割と好きです。

 低い、さらに低いヴァイオリンの音色が携帯から流れる。

 枕元に手を伸ばし、ノールックでアラームを止める。

 時刻は6時半。

 今日はよりによって、ドヴォルザークか……。

 俺のアラーム音は毎日ランダムだ。

 昨日、あんなことがあったのにも関わらず、不思議と脳はスッキリとしている。

 カーテンを開け、高く昇った朝日を見つめる。目を細め、それを満月に置き換えて、昨夜の記憶を呼び起こす。

「明日の正午に迎えに行くよ」

 黒いワンピースに包まれた、濡羽色の髪を揺らす夜空と同化してしまいそうな彼女は別れ際にそう言った。

 ベッドから起き上がり、腕を回す。不思議だ。いつもより、睡眠時間が間違いなく短いのに、やっぱり、体が軽い。

 寝巻きのまま階段を降りる。

 室内は意外と過ごしやすい。まだ6月だし、当分エアコンは必要ないな。

「お兄ちゃん、おはよ」

「おはよ、マイシスター」

 下は制服のスカートだが、上だけ何故かキャミソールの妹が俺に話しかける。

 ひたき。俺の妹の年相応の中学1年生。

 これくらいの年の妹はよく兄を毛嫌いするなんて、同級生の男子が話しているところを何度も聞いたことがあるが、ひたきに限ってはその限りではない。普通に挨拶もするし、普通に会話もする。

「あっ、それとお兄ちゃん」

「何?」

「いつも思ってたけど、その挨拶、絶妙にキモいね」

 前言撤回だ。俺と妹の関係も、もれなく世間一般の兄妹と変わりなかったようだ。

 お兄ちゃん、朝から少しショック。トーストを途中で食べるのをやめてまで、言うことだったのか?

 ひたきは、朝からメンタルにダメージを負う俺のことなど意に介さず、4人がけのテーブルの長辺に置かれた、苺ジャムをふんだんに塗りたくったトーストをもぐもぐと頬張る。

 俺が見てるだけで、3枚はもう食べている。

 ひたきは中学1年女子としては平均的な体格をしていると思うが、俺と違って本当によく食べるな……。

 正面に腰掛ける前にもう一度、ひたきの全身を眺める。

「どうしたの?」

「いや、今日もよく食うなって、思って」

「嘘、えっちなこと考えてた」

「はは、そうかもな」

 何気ない会話を交わした際に俺はひたきが制服のスカートを履いていたということを再度確認した。

 学校なんて、昨夜あんなことがあったのにあるわけがない。

 だが、それは俺と凰花の2人以外、生徒は知る由もない。無論、ひたきも例外じゃない。

「今日も朝練があるから、沢山食べておかないと」

 まだまだ食べるつもりでいるようだ。

 幸せなことに、俺の家は貧困家庭ではない。特別裕福でもないが。両親ともに、愛娘に割く食費なら、惜しくないだろう。美味しそうに朝食を頬張るひたきを俺は肘をついて眺める。

「そろそろお兄ちゃんも着替えないと、朝ごはん食べれないよ?」

 その通りだ。いつもの俺なら顔を洗って、学校に行く支度をしている時間。今日に限ってはその必要はない。

 遅いな。そろそろ来てもおかしくないはずだ。テーブルの上に置かれた、ひたきのスマホを横目に見る。口の中でもゆすごうと、席を立とうとした時に、2階の俺の部屋と目の前のテーブルに置かれた2つのスマホから音が鳴る。

 来たか。

「あれ? 同時に鳴るのなんて珍しいね」

「そんな日もあるさ」

 ひたきはトーストを手を使わずに器用に食べながら、受信されたメールの中身を確認する。

「おぉー……」

 丸く開けられた口からは、喜びなのか感嘆なのか判断しづらい、何とも言えない声が漏れる。まずい。思わず、笑みが溢れそうになる。

 慌てて口元を手で押さえ、白々しく聞いてみる。

「どうした?」

「お兄ちゃん、ツイてるね」

「今日も朝からラッキーボーイか?」

「うん!」

 ひたきは目を細めて、嬉しそうに携帯画面を見せてくる。俯いていた俺は口を手で覆ったままに画面に視線を移した。

『私立枝葉学園    

 件名:本日の登校について

 ※返信は不要です。

 生徒、保護者の皆さんへ

 本日は臨時休校といたします。

 ただいま諸事情により校区への立ち入りを、一時的に禁止しております。

生徒の皆さんは、くれぐれも不要不急の外出を控え、中間考査に向けた家庭学習に励んでください。

 明日以降の登校に関しましては、再度メールにてご連絡いたします。』

 表情を変えるな。間抜け面でいろ。脳の奥が自分自身に警鐘を鳴らす。

「何があったんだろうな。まぁ学校行く必要ないなら、俺はもう一回寝るかな」

 ふとメールを確認して安心したら、また眠気が出てきた。あくびが止まらないし、瞼も重力に負けそうになる。

「えーお兄ちゃん、また寝るの?」

「ああ、俺は毎日頑張ってるからいいんだよ……あと、12時近くに起こしてくれ」

「なんで?」

「なんでも。頼むよ」

「分かったよー」

 あまり信頼を置けない生返事だが、昨夜の疲れが今になって来た。ひたきの歯形が残ったトーストを口に挟んで、階段を上り自室に戻る。甘過ぎる。糖分で口の中が一瞬で埋め尽くされる。それでも今は、昼に向けて少しでもエネルギーが欲しかった。

 ベッドに倒れ込む直前に嚥下して、重力に従う。俺の意識はすぐに途絶えた。


 冷たい何かが俺の首筋に触れられている。

 反射で体が跳ねた。

「わわっ! びっくりした! ちゃんと生きてる!」

「……生きてるに決まってるだろ。死ぬにはまだまだ早ぇよ」

 どうやら生死不明に見えた俺の首筋に指を当てて、ひたきが脈を確認していたみたいだ。

 壁掛けの時計を確認した。11時47分か、ちょうど良い時間だ。

「ひたき、ありがとう。準備したら出かけてくる」

「え? どこに?」

「……俺も分からん……」

 本当に分からないのだ。そう答えるしかない。

「不要不急の外出は、控えて欲しいらしいよ?」

 ひたきは先ほどの学校からの一斉配信メールの画面を俺に見せてくる。知ったことか。凰花が呼んでいる。それは不要にはならないだろ。

「みんなには内緒な?」

 話しながら上を脱ぎ、クローゼットの一番手前にあった肌着とワイシャツを着る。俺が寝巻きの下を脱いだところで、ひたきが後ろを向く。無難な黒のズボンと藍色のカーディガンを羽織ったところで、ひたきの肩に手を置いて1階の洗面所に向かった。

 早々に歯磨きと洗顔を終わらせて、財布と携帯をポケットにしまう。

 チャイムが鳴り、近くにいたひたきがインターホンを見た。

「えっ! ちょ、ちょっ! 凰花先輩??」

 露骨に驚き、腰を抜かす勢いのひたきに少し笑ってしまう。

「代われ、ひたき。悪いな、凰花。今出るよ」

 俺はインターホンを切り、玄関で愛用のスニーカーの紐を固く結ぶ。

「待たせた」

「全然」

「ま、待って! お兄ちゃん!」

 家の外に一歩出た俺に、切羽詰まった様子で、ひたきが呼び止める。ひたきが、ここまで動揺しているなんて珍しい。

「なんで! なんで凰花先輩と一緒なの?」

 ひたきの言葉には、俺が女子と出かけるということに対する驚きよりも、俺みたいなのと、あの凰花がどうして一緒にいるのか、といった意味合いの方がきっと強いだろう。

「帰ったら、話すよ。行ってくる」

 俺が背中を向けたまま、手を挙げる様子を見て隣の凰花は、上品にくすくすと笑った。凰花はちゃんと笑顔で、ひたきに手を振ったようだ。

「ねぇねぇ、ひたきちゃん、びっくりしてたけど、言ってなかったの?」

「ああ、言ってない」

「あー、お兄ちゃん意地悪なんだー」

 肘でぐりぐりと脇を押される。相変わらずの睡蓮の香りが、俺の嗅覚を満たす。

「ひたきにとって、お前は憧れの存在なんだよ」

「そうなの?」

「よく飯食う時にお前の話をするよ」

「ふーん、そっか〜」

 少し気分が上がったのか、手を後ろに組んで俺の二歩前を歩く。ゆらゆらと揺れるベージュのロングスカートが視界の中を行ったり来たりする。

「私、昨日からすごく良い気持ちだから、面白い場所に今日は連れて行ってあげるね」

 手を後ろに組んだまま、笑顔でこちらに振り返る。

 間違いなく、この場にプロのカメラマンがいたら、次号のティーン向けの雑誌の表紙でも飾りそうな勢いだ。俺も健全な男子中学生。ドキッとしないわけがない。

 だけど、表に出すわけにはいかない。出したら出したで、またペースを持っていかれる。

 徹底的に心を凪の状態にして、動揺を隠す。

「今日もまた、連れていかれるのか……」

「嫌?」

 体勢を低くして、上目遣いで俺に問いかける。やけに今日はあざとく来るな。

「嫌じゃないよ」

 くそ。俺は馬鹿だ。

 優しく笑って、歩く凰花の二歩後ろを付いて行く。

 凰花になら、振り回されるのだって悪くない。

もぐもぐ妹よ、大きなれ。

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