于謙の決断
「王振は今度の戦禍に至る道筋をつけた張本人です!!一族を罰し、その財を収める事こそ明朝再起の第一歩でしょう!!」
皇帝となるべく育てられた兄・祁鎮とは違い、宦官とそれ程接点を持っていなかった弟・祁鈺はその上奏で王振の名も初めて知ったが、その決断を下す前に
「お待ち下さい!!こやつはかつて王振と対立して投獄された身!!私怨を晴らしたいが為に…」
錦衣衛の長・馬順の言葉は白刃によって中断された。
「これは最早私怨ではない!貴様らを含むかの一党に対する裁きだ!!」
さあ後は群臣入り乱れての流血大惨事。
逃げ出す者もいれば、血の海に沈んだ馬順に更に追い打ちをかける者もいた。
馬順の遺骸は原型を留めぬ肉塊に転化し、思わず玉座を放り出して退去しそうになった祁鈺を、その袖が破れるまで引く者があった。
「お待ちくださいませ、『陛下』!王振達の罪は万死に値し、社稷を安んじる為には彼の行動は必要だったのです。彼に罪など初めからありませぬ」
最初に祁鈺を『陛下』と呼んだその男こそ、新・兵部尚書を拝命された于謙であった。
***
王振の一族は皆殺しになり、生きたまま刻まれた者もいた。
邸宅からは数々の財物が運び出され―――それが戦費になるか遷都費になるかはまた別として―――競売に掛けられ、売上はひとまず国庫に納められた。
その財物の中に、紅く輝く珊瑚の大樹の群生があり、競売の様子を監視していた于謙には、それがオイラトへの業火の、時間を留めた様に見えた。
于謙は例の流血沙汰の件で『新帝』祁鈺の信任を勝ち得、今後の方針を任されたていた。
祁鈺はそれまで宮中の注目を浴びた事が殆ど無く、これまで多くの臣がかしずくのを初めて体験した。
一度玉座に座った者が、心底望んで其処を離れようとするだろうか?
最早、『上皇』の兄には北の果てで一日も早く朽ち果てて貰う事を願いさえしている事も、群臣にも見て取れた。
しかし、誰も其れを言い出せる筈も無かった。
***
「エセンは、『朝貢物資の増加と領土の割譲を承認すれば皇帝は帰してやる』と返答したようです」
「…嘗て皇帝だった御方が夷狄に囲まれて没するのは耐えられませぬ!」
「その様な歴史は、宋朝のみで十二分だ!!」
「いや、皇帝は既に北京に存在します!」
「北を奪われれば、いずれ南も奪われるのみです!!」
この様な侃々諤々の中で、天文学の知識がある文官・徐珵の
「星々は、南京に戻る事こそが明朝を救う道と示しております」という一声で、大明帝国が半減しそうになった所で。
「待て!」
何処からか、剣の抜かれる音がした。
――― 南遷をのたまう者は斬れ!
――― 都は天下の根本である!
――― 一度でも動いてみろ、大局は二度と戻らぬぞ!
――― 各々方、宋が南遷した結果を知らぬ者はおらぬだろう!!
『宋』という過去の王朝を意味する単語、更に嘗て南宋の都だった街で産声を上げた兵部尚書・于謙が剣を掲げ、鬼神の如き形相で高らかに叫んだのでは、星々も無視される運びとなった。
群臣も皇帝も退出し、于謙が剣を納めようとした刹那、腕を固められた。
「兵部尚書様も所詮は文官だな。そんな抜剣じゃ宮中では兎も角、戦場では人っ子一人斬れないぜ」
高僧の予言vs天体現象。
王振の没収された財物の中に、『20株以上の6、7尺の珊瑚』があったというのが個人的には印象的。山西だか河南出身だから海産物に憧れていたのかな。
またしても、名言改竄。