土木の変
一四四九年。
突如として、オイラトからの朝貢数が爆発的に増加した。
つまりは、もっと『明からこちらに物資をくれ』と宣言して来ているのだ。
最近オイラトの族長・エセンは北元のハーン・トクトアを掲げて急速に勢力を拡大し、資源の供給が追いつかなくなってきているとは聞いたが、元々五十人と定められた使節数を、四桁というのは明らかにやりすぎである。
しかも、使節は事前通知より遥かに少ない人数だった。
「舐めているわ。大明帝国の規模を知っていての行動かしら?」
祁鎮の『先生』こと王振はそう言って、祁鎮にオイラトの攻撃を薦めた。
「いけません。奴らは機動力に優れ、数の差等物とも致しません!!」
父・宣徳帝の代からの功臣らしいが頑固者で周囲との折り合いも悪い于謙という男は、戦だけはするなと諌めた。
「どんな精兵も、物量にだけは勝てないのよ。物資が欲しくてこんな事やっているぐらいならあっさり潰せるわ」
『先生』は、何でも知っているから。
「永楽の御代、明はオイラトの族長を討ち取りましたわ。歴史は繰り返すものです!!」
きっと、今度も何とかなるだろう。
***
五十万の兵と、二十人の武官。北京の留守は弟・祁鈺に。自分の隣には、『先生』もいた。
なのに。
どうしてこうなってしまったのだろうか。
輿の中からでも漢兵と狄兵が入り乱れているのが解り、『先生』の名を幾ら呼んでも返事はない。
豪雨に苦しんだ次は、渇水に苦しんだ。
前線が大敗したと聞いて、撤退しようとして追いつかれた。
相手は、たった二万の騎兵。
使節の一件から考えれば、もっと少ないかも知れない。
辺りが静かになり、輿の中身を開けたのは、オイラトの人間だった。
彼に連れられて、輿の外に出てみると、死体の山が築かれていた。
自分以外の漢人は、死体であった。
やっと、祁鎮は、自分が皇帝としてどういう状態なのかを知った。
***
北京内外は、まだ敵兵も見えないのに敗残兵が還りついた瞬間から阿鼻叫喚であった。
何せ運ばれた情報と言うのが、靖康の変以来の、『皇帝が北狄に生け捕り』の報せだったのだから!
「「大明帝国はもうおしまいだ!!」」
「「建国から百年も経ってないのに!!」」
「「北京を捨てて南に戻れば、まだ何とかなりそうだ!!」」
早くも断末魔の様相を見せる彼らの絶叫の中から、
北京で留守を命じられていた兵部左侍郎の于謙が掬い上げ、整理した情報は以下の通りである。
『帝は今のところ生命の危険はなさそうである(人質として利用するのだろう)』
『王振の遺体は後頭部の傷(刃物か鈍器かの詳細は不明)が致命傷となっており、腐敗も早く、衣服でやっと見分けられた』
『兵部尚書殿を初め将軍の大半が戦死、残ったのは数名』
帝を一人人質にした所で、大明帝国は揺るがぬぞ?留守にしていた弟君を玉座に置けば社稷は廻る。
王振が死んだのも、むしろ好材料ではないか。戦費の調達が捗りそうだ。
兵部尚書亡き今、軍事に関する全ての権と責は私の両肩にかかっている。
残暑厳しい秋の紫禁城にかつてない緊張が走っていたが、于謙只一人だけは焦燥を顕わにしなかった。
たった1回で土木の変が終わっちゃいました…
いくら騎兵が歩兵に強いといっても、50万が2万に負けるってどんだけ。
皆さん北宋滅亡を思い出して、岳飛を求めたろうな、当時。
『主君個人<その君主制度を中心にする社会システム』という考え方は、地元ネタで恐縮ですが仙台藩の藩主連続押籠め隠居事件を思い出しますね。