朱高煦の乱
一四二四年。
『妖魔』を封じ、甥から帝位を奪い、北に都を移し、決して頑健とは言えない身で国の外を見続けた永楽帝は崩じた。
父・永楽帝によって堕とされた無辜の者達を救い上げ、再び南に都を還そうとした洪熙帝もまた天命に恵まれなかった。
その間于謙は、余り帝たちに注目されていなかったので経書を読んだりあの『妖魔』の残した詩文らしきものを眺めたり、ときには自ら筆を執って暇を持て余していた。
望んで権力と富への道を進む為に喜んで男をやめ、次第に領分を肥大させる宦官達とは根本的に合わなかった。
―――自分は何の為に進士になったんだろうか。
―――そもそも、官吏は自分で望んだ道ではなかったのではないか。
―――『国家の危急を救う日』は、本当に訪れるんだろうか。
しかし、新帝である宣徳帝は彼を呼んでいた。
「―――― 叔父の漢王が、朕に刺客を差し向けた」
柔和な印象の宣徳帝は、しかし祖父・永楽帝譲りの胆力を内に秘め。
「更に私兵を用いて、北京に向かおうとしている。―――やるべき事は、わかるね?」
***
―――こんなにも早く、あの僧の予言は成就するのだろうか。
勿論、于謙は文官としての『救国』を想定していたのであり、戦場に出るとは思ってもいなかった。
その父に似て野心を滾らせていた漢王・朱高煦は、父・永楽帝が殺した甥・建文帝とは似ても似つかぬ甥に、刃を向ける前に捕えられた。
捕えられた漢王を前に帝は、于謙の名を再び呼んだ。
「君が明朗で魂の底まで響き渡るような声を持っているのを皆も知っている。そして君は、詩文を好むとも聞いた。君なら、この大役を任せられるだろう」
渡された紙巻には、漢王の罪が箇条書きで数え上げられていた。
***
―――すげえな、あの取調官。銭塘の于謙って言うんだろ?
―――あの怪力無双の漢王を、すっかり震え上がらせちまった!
―――上奏を綺麗に仕立てあげるだけの文官じゃなかったんだな!!
帝が主な将軍と同じだけの褒賞を彼に与えるまでもなく、于謙はいつの間にか百戦錬磨の武官達に一目置かせる存在になっていたようだ。
―――これで、あの予言は成就されたのだな。
しかし、何か心に引っかかるモノがあった。
自分は結局、陛下の後をついてって、来た途端に戦闘も何もかもが終了した。
そして、紙巻に書いてあった文をもとに罪状を問い質しただけではないか。
これで、『国家の危急』を『救った』と言えるのだろうか。
まだ、何か――――― そこから先は、考えることを保留した。
***
隙間の向こうに、ナニカの騒ぎ声が聞こえる。青年の知らない言葉である。
男も女も老いも若きも、皆ひとところに集められていた。
ナニカがあんなに集っているのは、はじめてだった。
***
皇帝が、宙を舞ったらしい。
正しくは、帝が紫禁城の一角に閉じ込めた漢王を見舞った途端に蹴飛ばされたとのことだ。
更に、小さな部屋の中から尚も各地の地方官との連絡を取っていた事も同時に発覚した。
もう、更生の見込みがない男を生かしてはおけなかった。
「この世で唯一アレを震え上がらせた君にも、是非立ち会ってほしいんだ」
***
今回は別の男が罪状を読み上げ、于謙は文官の一席にいた。
とてつもなく大きな銅釜の中に、朱高煦は封入された。
初めは、改心の言葉を吐き出すか、さもなければ飢え死にするまで待つ心算だったらしいが。
動く筈の無い蓋が、動いた。
「そこ…いる…は…銭…の于…か?」
おかしい。
確かあの銅釜って、三百斤はある代物ではなかったか。
紙巻を持った男は、否定の言葉も紡ぎ出せず、
自分がこの化け物の最初の犠牲者になるのではと怯えているのが手に取るように解った。
「急ぎ、点火せよ!!」
直ちに木炭が集められ、銅釜の周りを黒く囲み―――炎が、宿された。
***
「私ではない者に罪状を読み上げさせたのは御英断で御座います」と、後に于謙は帝に零した。
朱高煦は結局、躯も残らず金属と共に液体化して土に染み込んでしまった。
彼のみならず様々な者の名、帝の諱、最期にその父を呼び、後は人の残滓を流出させたかのように獣の様に吼え狂った。
暗い釜の中から一転、段々と常人の形をなくしていく自らの肉体を見せつけられながら尚吼えたのである。
一番初めに名指しされた于謙も、平静を装っていたが震え上がっていた。
ただ、彼が本当に怖れたのは、三百斤の銅釜を持ち上げ、自らを焼失させる劫火の中に在っても尚闘おうとした漢王なのか、そんな叔父に蹴飛ばされても平気そうにしていて、人体溶解中にも顔色一つ変えなかった宣徳帝なのかは、彼自身も終に解らなかった。
于謙、資料を読んだ限りでは
『科挙受かったのは永楽帝の時代だけど、宣徳帝に気に入られて才能を見出された』という印象。
一説には『明朝最高の名君説』もある人だしねー。
三百斤の銅釜を持ち上げられる人に蹴飛ばされて無事な宣徳帝もなかなか剛の者かと。