千字文
その次に闇が来ても、青年は眠りに落ちることがなかった。
また、アレはやってくるのだろうか。
ナニカたちとは違う、異質の存在。
―――いる。
***
「其方は人なのか否か、答えよ」
そもそも「人」の意味を解しているかどうか別として。
「私の言う事がわからぬのなら、これでも読め」
読んでもらえるとは端から思っていない。
創成者は一夜にしてこれを書き上げ、その代償に髪が全て白くなったという。
同じ字は二度使われていない奇跡の文章。
投げ込まれた白い紙の、その模様のような筆の痕跡にモノは興味を示した。
どうやら破壊されずに済むらしい。
「天―地―玄―黄、宇―宙―洪―荒…」
まだこの意味はわかるまい、しかしモノが人の字を理解するようになるまではそう遠くもなかろう。
モノがやっと唱和し始めた頃に、また鬨が響いた。
***
食物を届けに来たナニカに、白い紙を見せた。
ナニカは表情を変え、「これはだれが」と発した。
「これはだれが」
まだ、他者の、音韻の意味は解らない。
しかし、自分も同じ音韻を出せることが―――酷く嬉しかったのだ。
「天―地―玄―黄、宇―宙―洪―荒…」
模様をなぞりながら、アレの声真似をしてみたらナニカは顔色を変えて、走り去った。
***
その頃、官吏たちの間では奇妙な噂が流れていた。
『北東の小屋の物の怪の様子を見に行った若い進士が、その物の怪に憑かれた』のだと。
同年代の進士はみな、仕事中に意識を失ったり、長く歩くとよろけたりする噂の本人を心配したがその本人である于謙は「私は学問に没頭しているだけだ」と笑うばかりであった。
***
そして于謙は今夜もまた、モノの居所へ向かう。
この頃はモノも言葉のみならず、簡単な文字は書けるようになっていた。
そして、単語を組み合わせて詩文のようなものを諳んじるまでになっている。
そろそろ筆談も可能になるだろう。
紙と筆と硯を携え、いよいよそれを渡そうとした時。
「お主、その小屋の前で何をしようとしている!」
周囲が明るくなり、灯火の向こうから錦衣衛が現れた。
***
「あの中にいるのは、まだ陛下が燕王と呼ばれていた頃に当時の北京を騒がせていた人食い妖魔なんだぞ!陛下が亡き姚広孝殿の力を借りて何とかあそこに封じ込めるのが精一杯だったんだ!!」
「肝試しの際に妖魔に魅入られ、詩文を聞かされる羽目に陥ったか。一歩間違えばお前が再び最初の犠牲者になって、封印を解かれたあの妖魔が都中を恐怖に陥れたのかも知れんのだぞ!!!」
要するに、彼は封印されていた邪悪な妖魔の復活をそうと知らずに手助けしていたらしい。
「詩を好み、良い声で諳んじるお前だからこそ、魅入られてしまったのかも知れんな」
「一説には、科挙も詩賦の成績で通ったようなものらしいからな、こいつは」
「まあなんだ、今後はこの辺りに近寄らない事だな」
―――宦官共の手先は、散々彼を小馬鹿にしてからやっと解放した。
***
ナニカが、火に呑まれた。
そして、青年の前に二度と姿を現すことはなかった。
青年は、言の葉の意味を知る由もなく、耳を傾ける他者のいない音韻を呟き続けた。
ええ、于謙は謎皇子のために千字文を移してきたんですよ、興味本位で、ね。
わざわざこんな事してくるうちの于謙は、結構変人の部類。
于謙は、若いころから宦官と相性が悪いらしい(笑)
謎皇子から見れば、『毎晩来てたアレは、丸い沢山の炎に囲まれて、遠ざかって、それっきり』です。