紫禁城の怪
一四二一年、北京。
十代から七十代まで、様々な年齢層の男が群がる掲示の前で眼は掲示方面に固定したまま
『銭塘の于謙、銭塘の于謙』と連呼しながら駆け寄った挙句、状元殿に激突したのでは眼をつけられてもしょうがなかった。
状元殿は、三十代後半であった。
二十代前半と、今回の進士の内では飛びぬけて若いが、成績の方はそれほど飛びぬけていたわけでもなかった于謙は、宴席で話題になった
『紫禁城の北東の小屋みたいな建物に物の怪がいるらしい』
という怪談を確かめる為に深夜にその建物を訪れる羽目になってしまったのである。
***
その青年は、明るくても暗くても同じだった。
食事が小窓から差し出されると、すぐに飛びついて咀嚼できるものは咀嚼し、飲み込む。
幾ら歯を使っても切断できない物体は全身と部屋中で弄び、一つとして無事に回収された物はない。
その残骸で傷を負っても、青年は一向に痛がる素振りも見せない。
時々面を覆った幾つかの『ナニカ』が自分を拘束して伸びすぎた髭や髪を恐ろしい物体で切断していく時まで
残骸は青年と共にあった。
部屋の状態が自分以外によって変化することは、恐怖でしかなかった。
暗闇は徐々に全体的に明るくなっていくはずなのに、一点だけが急速に闇が失せた。
闇の退避は進み、一穴は隙間の並んだ向こうにあるとようやく分かった。
隙間の向こうに指を伸ばし、隙間を除く。
一穴の向こうに『ナニカ』が見えた。
ナニカは、異音を発した。
いつもだったら危険信号なのだが、彼には隙間の向こうの『ナニカ』は安全という確信があった。
***
窓の向こうに、獣の如き爪と二つの円い光を認識して、于謙は僅かに悲鳴を挙げた。
しかし、件のモノは案外頑丈そうな建物の見かけ通り頑丈な格子の奥なのに、正体を確かめずに逃げ出すことは于謙の信条に反していたし、同期の者達も単に『化け物は確かにいた』では納得できないと思う。
灯を更に、窓の手前まで近づけた。
――――灯に映ったのは、何とか人の形はしていた。
のだが、恐ろしい美貌と常人ならぬ身形は、于謙にとっては人間の形をした何らかのモノでしかなかった。
(人…なのか――――?)
人というには、余りに常軌を逸している。
化け物にしては、何一つ人間と変わった形状をしていない。
何物かを確かめるために、モノのいる室内を覗いてみた。
陶磁器の破片が散乱している。
恐らくこのモノはこの部屋にずっと幽閉されていて、食事を出された後はずっと食器を弄び、破壊することしか知らなかったのだろう。
―――ということは、自分がコレに危害を加えられる恐れは無いということだ。
不意に、モノが唸った。
***
長い時間、ナニカが隙間の外側にいる事に怯えた青年は声を上げた。
しかし、他のナニカは来ない。
「おぬし…ひとのことのははわかるか?」
ナニカが音を発するのは、初めてだ。
ナニカの音は、意味を持っているのだろうか。
「ひとのことのはは、わかるか?」
また、同じような音声。
「ひーとのことーのはは…」
繰り返し、近い音声が出るまで、口と喉を動かした。
***
―――どうやら、私の言葉の意味は分かっていないようだ。
―――私の口に出した言葉を繰り返すのが精一杯らしい。
于謙は失望しかけた瞬間、ある啓示に思い当たった。
―――色々な言葉を出せば、こやつの語彙は増えるのではないか?
「おぬしはひとなのかいなか」
そう発した瞬間、何処かで鬨の声がしたので、于謙は慌てて衛兵に見つからぬように官舎へ戻った。
***
「確かに人とも化け物ともつかぬ人型のモノがいたが、正体は遂に確かめられなかった」
「人の言葉を解する様子もなかったが、小屋を破壊してまで人に危害を加える様子もない」
その曖昧な于謙の報告を以て、状元殿は沙汰やみにしてくれた。
同僚に危険な橋を渡らせてしまった事への負い目もあったのだろう、それ以上は詮索せずに「すまなかったな」と謝罪までもらってしまった。
―――しかし、于謙は小屋のモノの事が脳裏から離れぬままであった。
謎皇子視点は本当に書きづらいものがあります。
私の知っている版権キャラではBLOOD+のディーヴァやサンホラ・メルヒェンのエリーザベトも似たような境遇の筈なのですが、この人は二人の間をとった感じの扱いを受けていた印象が。
言葉を使ってくれれば、コミュニケーションも成立しそうなんだが。