終章
岳飛の再来とまで呼ばれた漢族英雄の非業の死に、涙せぬ民衆はいなかった。
程無くして于謙の邸に錦衣衛が差し押さえに入ったが、兵部尚書と言う地位にも関わらず、あばら家すれすれの邸には金目の物は無きに等しく、僅かな書物のみが残されているばかりであった。
「流石は『両袖清風』の人だ」と彼等が嘆じたのも束の間。
「この部屋、鎖を幾重にも巻いてあって怪しいですぜ!!」
専用の開錠道具まで持ち出して、やっとの事で扉を開いた、其処には。
唯、景泰帝から下賜された衣服と刀剣、幾ばくかの宝物が安置されていた。
その後、それらがどうなったのかを知る者はない。
だが、英宗はやはり最後まで彼を処刑した事を悔いていたらしく、こんな逸話がある。
殺したのは本人のみで、妻子をはじめとする親族は各地に流された。
山海関に流された妻の張氏にある晩、亡夫が夢枕に立って言うには。
『身体は滅びたが、魂魄はまだある。然るに、陛下に今一度お目通り願いたいが生憎眼球も失われているのだ』
『其処で、しばしお前の眼球を貸してはくれぬか。この様な事、お前にしか頼めぬのでな』
張氏が翌日、暁光を視る事は無かった。
暫く後、北京の奉天門から出火したとの報せが入り、英宗が直々に駆け付けたところ。
炎の向こうに人影を見たので『まだあそこに取り残された者がいるではないか!!』と兵士に命じて接近した。
人影は、紛れもなく。自らが殺すように命じた、功臣の姿をしていた。
影は消え、気づけば帝と兵士は炎に取り囲まれていた。
やっとの事で死地を脱した帝は、兵士から『そもそも私共にはあそこに人影なぞ見えませんでした』と聞き、元々バツが悪かったこともあって于謙の妻を赦免する事に決めた。
ほぼ同刻、山海関の張氏はまた夢枕に亡夫を見た。
『事は成った。二度とお前に迷惑はかけぬ』
張氏は久方ぶりに朝の光を視た。赦免の詔が届いたのは、暫く後の事であった。
しかし流石に英宗の在位中は表立って本人の名誉を回復する事は出来ず、それが達成されたのは次の成化帝の時代になってからの事である。
弘治年間には粛愍と諡を追贈され、故郷の銭塘(=現・杭州)に改葬され、祀られる存在になった。
さらに万暦年間には忠粛と諡を追贈され、今でも杭州、北京、巡撫として視察した山西や河南で主に崇拝されている。
***
さて、功臣である筈の于謙を殺したり、かと思えば自分がオイラトに囚われる切欠を作った王振を死後も手厚く弔ったりしている英宗は一般的に暗君と断じられているが、果たしてそうであったろうか。
例えば奪門の変の功臣達はその後仲間割れを起こし、先ず徐有貞が讒言で地方に流された。
石亨と曹吉祥は何れも一族を高官に取り立て、自宅に違法な蓄財をしていたが、英宗は新たなブレーン・李賢と共に排除を画策し、其々一族の罪から獄死、それに焦ったクーデター未遂で凌遅刑という末路を辿った。
是を『英宗は幽閉生活を経て疑り深くなった』と評す者もいる。
また、同じ幽閉者同士ということなのだろうか―――何処で存在を知ったのかは不明だが、靖難の変以降皇籍を剥奪され、二歳の頃からずっと幽閉されていた建文帝の皇子・朱文圭を解放し、女性を娶る事を許した。
この時実に五十七歳、赦免の報を聞いた際は特に感情を示すことは無く、人間以外の動物の存在も知らなかったという。
しかし、朱文圭は解放されてから一年も経たずにこの世を去った。
史書には『病没』とされているが、余りに広がり過ぎた世界に己が耐え切れず、領地の鳳陽に向かう船中から脱走し、運河に転落して溺死したとの説もある。
***
英宗は重祚の八年後に崩じたが、今際の際に気遣ったのは、オイラトに囚われた自分が玉座に戻れるように私財を擲って資金を集め、昼も夜も涙ながらに天に懇願した結果、片目と片足を失った銭皇后の事であった。
南宮にいた時でさえも彼を気遣っていた最愛の皇后との間には子が生まれる事は無かったが、彼女が崩じた時には自分と合葬するように懇願した。
―――だが、今すぐでは無い。
―――皇后が生き抜いた上で崩じた後で良い。
―――朕は高が数十年の孤独などどうって事は無い。
英宗は明の後宮殉死制度を廃止した皇帝でもある。
本当は、于謙ではなくて朱文圭を主役にするつもりだったんですよ、これ。
しかし、五十年以上何の教育も受けずに幽閉された人の心理を文章にすることは物凄く難しくて。
野生児に関する資料とかも参考にしましたが、言語や文字を習得出来たかどうかは人それぞれですね。
『いい研究者に預けられて、言葉も覚えられるようになったものの、研究費の打ち切りで厳格な施設に預けられ、退行してそのままになってしまった』というケースが一番近いです。
于謙が千字文を持ってきて、筆談が出来る寸前まで行きましたが錦衣衛の出現でゲームオーバー。
その後は言語能力が退化して唯、千字文の言葉を意味も解らずに暗誦していただけです。
とうとう、詩を詠めぬままで終わりました。
建文帝は美男説があるので、それっぽい容貌です。
于謙はですねぇー、詩人としての一面を強調してみた結果がこの有様だよ!!
彼の造った詩とその邦訳は結構集まりましたが、自分の文章に合わせる形で訳した結果、本来の意味を失っているかもしれません。
決して参考にはしないでください、いやマジで。
私には、彼が最初の『予言』に縛られて生きた人に思える。
最初にこれをアメブロに掲載した頃の自分は、丁度オイラトに抑留されていた頃の英宗と同い年でした。
大学卒業まで2ヶ月ちょっと、されど内定はゼロ。
結局就職が決まったのが卒業の半年後で、その職場も肌に合わずに年を越さない内に離れ、その後も職を転々としつつ、正社員経験は未だになし。
正直当時と比べても明るい未来の展望は描けないままですが、草原でも南宮でも常に英宗の味方はいた様に、
自分も生きているうちは本当に一人になることはないと信じて足掻き続けます。
…以上、突然の私事で失礼致しました。
表題の《Inferno》とは、英語で『烈火』、イタリア語では『地獄』の事だそうです。
矢鱈と炎に関係のある主役達だなあ、と思い
(特に于謙。石灰吟、漢王処刑、北京防衛戦の火器、奉天門の火災…)
『罪人を罰する炎』『人々の命を奪う炎』のイメージで命名。
でも、炎は決して恐ろしいだけじゃなくて、人々に進化、光、温もりを齎す存在でもあるよなぁ。
土木の変周辺は掘り下げたい人物が(明サイドだけでも)本当に沢山出てきたので、もしかしたらまた他の人物を書くかも知れません。
それでは、ここまで全て読んで下さった方に、この場を借りて御礼申し上げます。