北京防衛戦
祁鎮にとって、草原の日差しは、存外に暖かかった。
エセンは、祁鎮に風をしのげる持ち運び可能な邸、肉とその乳を主体とする豪奢な料理を与えた。
「わしらにとってあんたは人質であって敵ではない、人質には丁寧な扱いが必要じゃろう?」
エセンの妹をもあてがわれたが、丁寧に辞退した。
明は北京にいた弟・祁鈺で玉座を埋め、尚も戦うと聞いた。
若し祁鎮があの日運良く北京まで還り付いたとして、そんな決断を下せたろうか。
ふと皇后や太子に建てた筈の皇子達の事が頭を過る度、祁鎮は今すぐにでも北京まで駆け出しそうになったが、人質に逃げられた結果の両国を思うとそれは出来なかった。
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于謙は明の全土から精鋭と物資と武器を掻き集め、北京の軍を再形成した。
南方では鄧茂七の乱を鎮圧したばかりでまだ火種がくすぶっていたが、背に腹は代えられぬ。
王振に貶められていた者にも、有用な人材は多々残っていた。
「城門を閉ざして、市民の協力を得て、全軍外に出して、『逃げる奴はみんな斬れ』…か。そりゃ弛みきっていた田舎もんも必死になるわな」
于謙の腕を固めたのは、土木堡からの数少ない生還者である将軍・石亨であった。
単騎でオイラトの包囲網を突破し、敗戦の責を問われて獄に下されていたが、危急に必要な猛将は赦された。
「並の兵部なら、物資を恃んで間違いなく籠城戦を選ぶだろう…ってあいつ、また筆なんか出してやがる。この状況でも詩を詠む気か。随分と余裕なんだな」
***
「…という感じの事を言っていましたよ!もう直ぐ敵軍も来ますし、いい加減筆はしまいましょうよ!」
違う、そうじゃない。
幾ら遠い昔の予言の加護があれど、不安なものは不安だ。
騎兵には火器で応じれば済むが、炎の先にあるモノが恐ろしい。
精神が危機に陥っている時は、好物を一層手放せなくなるのと同じだ。
仮にも帝と呼ばれた事のある人物のいる方向に武器を向けた者達の、心理状況を計りたい。
そうすれば、きっと炎も消えてくれ――――
「来ましたよーー!!」
その声に応じて、于謙は顔を上げた。
騎馬の大軍の向こうに、輿が見えた。
「も、もしや、あれって」
「―――罠だ。攻撃を続けよ」
***
思った通り輿は空だったようで、矢を射ても騎馬は進んだ。
だがその直後、奇妙にもエセンは退いた。
「…何が起こったんですか?」
「…悟ってくれたらしい。城門を閉じたのみならず軍を外に出している以上、最後には物量と気迫に負ける、とな」
その晩、女真の元宦官が―――今度は『本物』が入った―――輿を後ろに於いて陣に来た。
「『最早、朝貢物資の増加も領土の割譲も望まぬ。皇帝の身代金さえ払えば帰すし帰る』と申しておりました。これくらいでどうですかな?」
そういって彼が提示した物量は―――人をなめていた。
「…悪いが、『皇帝の兄』の生命に、そこまで払う余裕もこの国には無い。彼方此方で冦が起こっているのでな」
その宦官は、「漢人にその様な事をのたまう者がいるとはな」と言いたげな顔で輿を持ち去った。
***
輿が見えなくなった直後から雨が降り出し、日が昇る頃には雨脚が強くなっていた。
「もう誰も引き返せぬのだ。秘策はある」
徳勝門の空家で火器に雨風を凌がせ、伏兵とする。
オイラトの偵察兵をおびき寄せ、弱点と見誤らせる。
思っていたより上手くいき、エセンの弟・ボロやウナハイの首を挙げる事が出来た。
オイラトの水源も凍りだし、撤退を始めたその軍を追撃して多数の財物―――輿は含まれない―――を奪還した。
***
まだ戦は終わらない。
于謙は論功行賞の場で帝に更なる昇進を示唆されたが
「今はまだその時ではない」と返答し、代わりに長城の再編を奏上し、再び全土からの諸々を配備した。
英宗のいた様々な空間、傍から見れば面白い人生ですね。
鄧茂七(何だか日本人みたいな名前)の乱って、土木の変より前でいいんですよね?
あっさり終わっちゃいましたね、北京防衛戦。
英宗についての交渉もそうなりそうで怖い。