いつもの学校
教室に入ると、入口の近くにいた女子が数人会話を中断し、入ってきた俺に注目し、すぐに目を逸らして会話を再開させる。その女子の中に親しい人はいないため、スルーして自分の席に着く。俺の席は窓際の一番後ろという特等席である。入学して一日目、発表されたクラスの所へ向かうと、そこの黒板に「自由に座ってください」とあったため、適当にこの席に座った。すると、後から入ってきた担任は「この席でいきます」と言い放ち、俺たち新入生は騒然とした。
「えー、私がお前……君たちの担任になる、松島小鳥だ。小鳥先生と呼んでくれ。以上」
続けてそんな自己紹介をした俺たちの担任、小鳥先生は席決めの件から察せるように適当な人だが、どうも生徒受けはいいらしい。実際に俺も、小鳥先生のことは好きだ。気楽でいられる、といった感じが良いのだろう。
女子からは可愛い可愛いと可愛がられている。なにせあの童顔に、小さい体だ。むしろ同じクラスの女子の方が大人なのではないかと思える程だ。
まあ、そんなこんなで俺はこの席を手に入れたのだが、どうもこの席は、授業においては特等席だが、休憩時間はそうではなかった。というのにも、関わる人が少ないのだ。なにせ、左隣と後ろがいないのだから。そのため、このクラスで親しいのは、右隣の菅谷梨乃と前の熊谷太一だけだ。まあ、それ以外にも一つ、理由があるのだが……。
「おはよう、北谷くん」
「はよっす。あれ、髪切ったの?」
少しだけだったが、梨乃の髪が短く思えるように感じ、そんな質問をした。すると、梨乃は自身の髪を触りながら「わかる?」と微笑む。
「うん、なんとなくだけどね」
「ふふっ。気づいてくれて嬉しいわ」
そう言いながらはにかむ梨乃を見て、俺は嬉しくなる。
どうも春雨園の女子はませているようで、昔、髪を切ったことに全く気付かなかった俺はこっぴどく怒られたのだ。それ以来、そういうことに注意している。そのため、少し敏感になってしまっているだろう。
荷物を机の横にかけて、席に座り、前の席に突っ伏して寝ている太一の背中をツンツンとつつく。
「なに朝からダウンしてるんだよ」
「……仕方ねえだろ……試験明けてから部活が一層厳しいんだよ。今日も朝から『試験期間中の空白を埋めるぞ!』っていう顧問の声を聞きながらの練習だったんだぞ」
「バスケ部の顧問って堂崎先生だっけ。うん、ドンマイ」
「うっせぇ。……あぁ……それより、返ってくるのか、俺の答案用紙が……」
朝から暗い空気を纏う太一。その原因の二つ目を聞いて、少し俺もテンションが落ちてしまう。
「あっ……そういえば、試験終わってキリがいいから席替えするらしいわよ」
「えっ、マジで!?」
それは俺のテンションを吹き返す、いやそれ以上の朗報だった。この二人と離れるのは少し寂しいが、やはりもっと多くの友人を作っておきたい。
「しかし、普通最初は出席番号順だよな。名前と顔を覚えるのも合わせてさ」
「ふふっ。うちのクラスに授業に来た先生、みんな最初ビックリしてたわよね。……でも、私はこの席、好きよ? こうして、あなたと仲良くなれたのだし」
「……うん、そうだな」
そこで、体育教師特有のジャージ姿の小鳥先生が入ってきたため、俺たちは会話をやめた。
「お前らー、はよーっす」
ついに俺たちを「お前ら」と呼ぶようになった小鳥先生。しかし特に悪い気はしない。むしろ「君たち」と呼んでいた前より、こっちのほうが小鳥先生っぽい。
「んじゃ、今日のHRは……えっと、なんだっけかな。……あ、これか。席替えすんぞ。んじゃ、席決めっから、おい鈴木、適当にこの紙でくじ作れ」
教壇の目の前に位置する席の鈴木さんは、小鳥先生から慣れた手つきでその紙を受け取り、くじを作り始める。別にあのような光景は稀じゃない。むしろ日常茶飯事で、俺たちはあの席を密かに「小鳥のホトドキス」と呼んでいる。命名者が誰かは知らないが、意味としては「鶯の卵の中のほとどきす」から取って、本当の子供ではないが、鶯(小鳥先生)を甘やかすホトドキス(人)というものらしい。最初は「小鳥の卵の中のホトドキス」だったが、やはり名前としては長いために省略化されて、今のものになった。
それを聞いたとき、なんとなく俺は春雨園のことを思い出した。子であって子ではない。本当の親ではないが、育ててもらっている。ピッタリだなと思ったところで、その事についてそれ以上考えるのはやめた。
さて、そんな事を考えている内に、鈴木さんはくじを完成させたようだ。紙を小鳥先生に渡し、小鳥先生はそれを見て、黒板に四十席分の四角を並べ、その中に適当に一から四十までの数を割り当てた。そして、さきほど鈴木さんが作った紙を、片方の端を二回ほど折って、一番前の窓際の人に渡した。
「それじゃ、時間がないからじゃんじゃん書いて回していってくれ。あっ、鈴木は参加しちゃダメだぞ。中身を知ってるからな。だから、鈴木はあまりもんな」
鈴木さんは不平も言わずにこくりと頷く。いや、あれは諦めているのだ。親として、小鳥先生の支えになることを徹底している。なるほど、あれがこのクラスのホトドキスなのか。
しばらくして、回ってきた紙に書かれている棒線の上に自分の名前を書く。そして、梨乃に回した。梨乃は紙を受け取ると、折って畳まれて隠されている数字が書かれている部分を凝視している。いや、そんなことをしても見えませんよ。しかし、すごく必死な目をしているため、そんなことも言えない。そんなに取りたい席があるのか。
数分後、クラスを一回りして小鳥先生の手元に紙が戻ってきた。小鳥先生は折り畳まれた部分を開いて、棒で繋がれた名前と数字を読み上げていく。
「――北谷、十四番」
体をビクつかせ、おそるおそる黒板を見る。――結果は、今現在の席の右隣、つまり、今梨乃が座っている席だった。
「うおっ、また一番後ろの席かよ、颯音。でも、一つしか変わんねえな」
「よっしゃあ!」
「……え? なに、そんなに嬉しいの? ちょっ、なんでよ」
「だって太一ぃ……お隣が、一人増えたんだぜ!?」
「……あぁ、お前は人生楽しそうだな。でも、ついにこの席を脱出できたな」
「あ、あぁ! そうだな!」
そんな会話をしている内に、小鳥先生は淡々と発表していく。
「――熊谷、十三番」
「うおっ!? 颯音の前の席か! またよろしくな!」
「……え?」
「――北谷、七番」
「あら……ふふっ。交換になっちゃったわね、北谷くん」
「……え? えぇ!?」
なんと俺のお隣さんストックの三つの内二つが、既に親しいこの二人になってしまった。嬉しいのやら、悲しいのやら、複雑な気持ちがこみ上げる。
しかし、今の俺は違う。なんていったって俺の席のお隣は三つあるんだ。あともう一人、まだ親しくない人が来れば!
「んじゃ、最後な。――鈴木、二十一番」
「ふふっ。鈴木さん、ついにホトドキスを脱出したわね」
「あぁ……小鳥先生からは見えないが、机の下で小さくガッツポーズをしているのが見えるな」
「ん、なんだよ、鈴木、颯音の隣じゃないか」
「……え?」
いや、まあ鈴木さんと話したことはないが、もう少し知らない人と話してみたかったな、なんて。いや鈴木さんに失礼だけども。
ぐっ……しかし、梨乃と太一がまた隣になったのが痛い。下手したらこの三人で定着してしまう。……でも、この席に恨みはない。なにせ、あの席から抜け出せのだから。
実は、このクラスには「小鳥のホトドキス」以外にも、もう一つ名がついてある席がある。それが、俺の前までの席だ。その名も「小鳥ふぁぼ」。お気に入りという意味である「favorite」の「favo」をローマ字読みして「ふぁぼ」。つまり、「小鳥のお気に入り」である。小鳥先生は自己紹介の後にこんなことを言った。
「一番後ろの窓際の席――そこは黒板から一番遠く、廊下側のような急な来訪者に気づかれることもない。夏は涼しい風を占領し、冬は窓を閉めたりと調節できる。――つまり、一番寝る席に相応しいと決まっているんだな、これが。すなわち、一番後ろの窓際に座ったお前は、怠惰な奴だ。だから、そんなお前は私のどれ……お手伝いになってもらうからな」
それ以来、俺はよく小鳥先生に呼び出されて手伝いをさせられる。「小鳥のホトドキス」がクラス内での手伝いであれば、「小鳥ふぁぼ」はクラス外での手伝いである。鈴木さんには悪いが、断然こちらのほうが苦労する。そのため、こんなもんだと割り切れなかった。
しかし、遂に「小鳥ふぁぼ」から抜け出せたのだ。これで、理不尽な呼び出しもなくなる……!
「あ、そうだ。北谷ぁ、その席になっても私のお手伝いだからな。くじ引きであの席になった奴が怠惰だとは言い切れないからな。でもお前は自分から選んだ、つまりそういうことだ。まあ、よろしくな」
そう言ってニカッと笑う小鳥先生に、俺は真っ白になった頭の中、愛想笑いを返していた。
その後、各自荷物を持って引き当てた席に移動し、あと数分の休憩時間を惜しみなく堪能しはじめた。
俺と太一、梨乃に関しては一つ隣に移動しただけなため、すぐに休憩時間を堪能し始める。
といっても、太一は先程と変わらず机に突っ伏して寝ている。まあ、これも休憩時間の堪能といえよう。
だが、梨乃の動きが俺には理解できなかった。太一と同様に机に突っ伏しているかと思えば、頬を机に擦り付けるようにしている。心なしか、頬が赤く見える。
「……何やってんの?」
「何って……ふふっ。堪能してるのよ」
「堪能って、休憩時間をだよな?」
「……ふふっ。北谷くんも堪能すればいいじゃない……ほら、あなたのも……ね?」
「わけわからん」
会話中もやめようとしない梨乃を見て、俺はひとつため息をついて、逆隣――鈴木さんの方を向く。
鈴木さんは、自身の黒髪の太い三つ編みを撫でながらボーッと前を見ている。とりあえず挨拶をしようと、声をかける。
「鈴木さん。俺、北谷颯音。お隣さんとして、よろしくね」
なるべく無難な文句を並べてみた。すると鈴木さんは、あわわと慌てた様子でこちらを見てペコリとお辞儀を一度だけして、すぐに視線を前に戻した。
嫌われてないよな……? そんな不安が襲ってきたが、本人に聞けるわけでもなく、その言葉を飲み込む。
お互い似たような境遇だったから、それ関連の話で盛り上がると思っていたのだが。お辞儀はされたが、まさか一言も発してくれなかったとは……いや待て、そういえば俺は、鈴木さんの声を聞いた事があるだろうか。いや、学校生活において今までに声を出さなければいけない機会だってあったはずだ。つまり、俺は聞いた事があるはず……しかし、全然思い出せない。おかしいな、俺は人の名前や特徴を覚えるのに長けていた気がするのだが。
頭を抱えて思い出そうと奮起していると、ドアをガラッと開けて数学の担任教師が入ってきた。それと同時にチャイムが鳴り、今日の日直が号令をかける。
その後、返ってきた試験結果に安堵したり、赤点漬けの太一を慰めたりしている内に、俺はその事をすっかり忘れていったのであった。