コールド・ブルー
「ねぇブルー、今日の晩ご飯は何がいい?」
ブルー。英語という大昔の言葉で「青」を意味する単語らしい。今では僕の名前となっているその単語を反芻し、振り返りつつ僕は答える。
「マスター、僕には晩ご飯なんて要らないですよ。一日一食で十分動くんですから」
「でも、いざって時のために食べておくのも有りでしょ? それにこんな時代でも人間、一日三食きちんと食べた方がなんか安心するじゃない?」
――僕は人間じゃないのにですか? 一瞬過ぎったその言葉を、僕は飲み下した。危ない危ない。マスターが必死になって眼を逸らしてる事実を、わざわざ突き付ける必要はない。それが分からないほど、僕は旧式じゃないぞ。
「じゃあ、肉じゃが……がいいです」
「ブルー、あなた本当に日本料理好きよね」
――笑いながらそう言われても、そう作ったのは貴女でしょうに。とも僕は言わなかった。人間というのは事実を話せば納得するという生き物ではないと、分かっているからだ。
「それじゃ、買い物行って来るね。留守番よろしく。あと――」
「雨が降ったら洗濯物入れておいて、でしょう? わかってますよ」
「もう習慣みたいなもんだね。じゃあ、いってきまーす」
えへへ、とべたな笑い方をしてマスターはパタパタと足音を鳴らし、出掛けていった。
貨幣のシステムなど崩壊しているのに、未だに買い物という概念が通用するのだから……まったく、世の中というのは分からない物だ。
世は西暦――いや西暦という言葉はもう通用しない世界。未だにこの惑星は地球と呼ばれているけど、昔は何十億以上もいた「ヒト」という種は世界全体で一億にも――下手したらその半分にも満たないらしい。
らしい、というのはそれを確かめようとする者が居ないし、確かめる意味もないからだ。
人間は――特に僕のマスターなどは、もう人類は滅びる他無いのだと諦めているらしい。
……とは言え、それを責める気には僕はなれない。
何故なら僕は人間ではないし、今の人類の置かれている状況を理解しているからだ。
何でも、世界がこうなってしまう前から人間の生殖機能は衰える一方で、子供が生まれにくい状態だったそうだ。そんな状況に重なるように、人間は戦争やら何やらであっさりと数を減らし、未来のために子孫を残そうなどと言う余裕もなくなってしまった。
その代わり、と言っては何だが人類は自分達に代わる存在を作りだした。それが僕、いや僕達だ。即ち「デヴァイス」と呼ばれる人間が持つ様々な機能を持たせ拡張したロボット。正式名称はちょっと忘れてしまったが、人類に対し独立した機能を果たすとかなんとか、そう言う由来でデヴァイスと呼ばれているらしい。元々は英語だそうだ。僕の名前と同じだな。
今の時代ではヒト一人に最低デヴァイス一体を従えるのが当たり前。人に付き従い、人に尽くす。ロボットの基本は前時代から何ら変わっていない。
マスター曰くデヴァイスはロボットよりも数段高級な物らしいが、比較対象に上げられているロボットを僕はよく知らないため、その辺は分からない。
とは言え、以前読んだ小説にあったロボット三原則と言う奴は僕たちの原則に限りなく近かったし、僕は殆ど同じ様な物だと思っている。
昼から夕方になる途中、陽光に赤が混じり始める最初の時間帯、僕は物思いに耽るのも飽きてしまった。とっくに乾いた洗濯物は取り込んでしまったし、夕食の下準備は出来る分を全て終えてしまった。既にやるべき事も済ましてしまっているから、僕は図書室に行く事にした。
マスターと僕が住んでいるこの無意味に広い家に設けてあるその部屋は、人間が「図書室」と呼ぶには少ない蔵書量らしいけど、そんな時代を知らない僕からすれば紙の本が百冊以上もあれば、何処でも図書室だ。
僕は図書室に行くのを特別に扱っている。
「本当に何もすることがない時以外は入らない」と決めているのだ。
何故なら、図書室は大事な宝の山だから。
僕の読むスピードで情報だけを読み込むのなら、とても短い時間で済んでしまう。だけど、それは酷くつまらない。
読書っていうものは、もっと神聖でなければならない。
だから、その日の何もかもを全うして僕が僕自身のためだけに時間を使える時に、味わうべきなのだ。まぁ、これは僕の持論だが。
何年か前、マスターにそんなことを話したら大笑いされた。涙を浮かべるほど笑っていたのを僕は覚えている。まったく、何もあそこまで笑う事無いじゃないかと今思い出しても少し腹立たしい。
さぁ、読書の時間だ。と、僕が意気込んだ途端インターホンが鳴り響いた。その音を僕は憎々しく思いつつも、視覚に玄関のカメラを呼び出す。
そこに映ったのは、不健康そうな女性と背が高く筋骨隆々の男性だった。双方耳に識別ピアスが無い。このご時世では珍しく二人とも人間だ。僕は見覚えがないけど、こんな辺境の地にわざわざ訪ねてきたのだから、恐らくマスターの知り合いだろう。違う手合いだとしても、まぁ僕が何とかすればいい話だ。
仕方なしに僕は図書室を出て、音声と聴覚を玄関のマイクにリンクさせる。
「はい、どちら様ですか?」
「スカーレットに用が有って来た。あいつは居ないのか?」
大柄な男がそう言った。スカーレット、というのは僕のマスターの名前だ。
というか、まずは名乗って欲しいな。まぁでも名前まで知っていると言う事はやはり知り合いだろう。嫌味の一つくらい言ってもいいが、まぁあまり意味は無いので飲み下す。
「はい。マスターはちょっと出てまして……もうすぐ戻ると思いますから、どうぞ中にお入り下さい」
そう伝えて、僕は玄関に向かいつつ、システムにアクセスしてドアのロックを解除する。視界の一部に玄関のカメラを繋げたままだから、来訪者が扉を開けて家に入るのが見えた。
玄関までの長い廊下にたどり着いた所で、僕は視界のリンクを解除して真正面から歩いてくる二人を迎えた。
「久し振りだな、ブルー。相変わらず無愛想か?」
久し振り? 何を言ってるんだこの人は。
「あの、申し訳ありません。僕と貴男は初対面だと思うのですが」
「ああ、そうかそうか。悪いな、すっかり忘れてた」
その男はからからと笑いながら曰った。
忘れてた? 何だ、おかしいぞ。会話が噛み合ってない。
「それで、スカーレットは何処に行ってるんだ?」
「えーと、取り敢えず立ち話も何ですから、取り敢えずこちらへどうぞ」
男の質問には答えずに、僕は二人をリビングへと案内した。男は不敵に笑いつつも何処か懐かしげに辺りを見渡し、まだ一言も口を利かない女性は興味も無いのか俯いたまま後についてくる。
「どうぞおかけ下さい。今お茶を用意しますので」
「ああ、そう気を遣わなくていいよブルー」
そうは言っても、最低限それは礼儀という物だろう。男のその言葉を無視して僕はリビングからキッチンへと移動した。
手早くレモンや砂糖、ミルクを用意して紅茶を二杯入れた。それを盆に載せて、僕は再びリビングへと赴く。
「どうぞ」
そう言いながら、二人に紅茶を差し出し、先程用意したレモンなど紅茶に合わせる物をテーブルの二人が取りやすいであろう位置に置く。
「ん? お前は飲まないのか? ブルー」
「ええ、僕は紅茶を飲んでも特に意味が無いので」
「ふむ、ならいいんだが。ま、有難くいただくぜ」
そう言って男は紅茶をストレートのまま口に含んで、ゆっくりと微笑んだ。
「で、スカーレットは何処に?」
「マスターは食料を買いに行っています。マーカーを見る限り近場のマーケットですね」
視界の一部にマップを開き、僕はマスターのバイタルサインを確認する。至って健康だから特にトラブルに巻き込まれた訳でも無さそうだ。
「そうか。まぁ、この辺は治安がいいからな……」
「あの、あなた方は?」
「ああ、そうかスマンスマン。すっかり名乗り忘れてたな。俺はデヴィッド。デヴィッド=リードだ。よろしくな」
人懐っこいのか、男はにこやかにそう名乗った。少ししてからばつが悪そうに横に座った女性を肘で小突く。
「……リーン=キャロル」
まるで名乗るのが面倒な事のように、女性は短く名乗った。名乗ると言うことにここまで愛想がないのは、これまで出会った人間の中でも珍しい。一瞬この愛想の無さは僕と同じデヴァイスなのでは? とも思ったが、デヴァイスなら名字なんて名乗らない事を思い出して僕は自分の考えを否定した。
「はは、悪いな。ウチのボスは愛想が無くてなぁ。知り合いにはデヴァイスよりデヴァイスらしいとか言われてるんだ」
苦笑に近い笑顔に浮かべながら男――デヴィッドは言った。酷い言われようだが、それでも全く気にした様子がないのだから、リーンという女性は本当にデヴァイスよりデヴァイスらしいのかも知れない。僕達デヴァイスというのは感情はあるが感情の発露は極端に少ないという特徴がある。リーンは正しくそれと同じなのだろう。
それは兎も角、「ウチのボス」とは……この二人の関係はどうなってるんだろう?
「失礼かも知れませんが、ボス……というのは?」
「ああ、俺はこの無愛想な女に雇われてんだ。俺のボスは――まぁ、何つーのかな学者をやっててな。んで、こんな世の中になっても結構妙な客が多いんでな。俺がボディガード兼助手みたいなことをやってる訳だ」
聞いていない事まで教えてもらったが、学者と来たか。このご時世に学問云々を専門に置いてる人間が存在するなんて、それだけでも驚きだ。そしてその学者を頼るような人間もいるとは、いやはや僕は思いも寄らなかった。
「そうですか。それで、マスターにはどんなご用で?」
「んー。それは俺もわかんねぇんだよな。ボスに聞いてくれるか」
「リーンさん、教えていただけますか?」
「不可能だ」
凄い。こんな即答初めてだ。僕の頼みを切り落とすかのような答え方だ。
「不可能、ですか」
「……説明した所で君は理解出来ない。つまり、私が教えるのは不可能だ」
おお、長い言葉も喋れるんじゃないかこの人。僕には分からないと言われた悔しさよりもそんな妙な所に感心してしまった。
「そうですか」
「あー、うん、気を悪くしないでくれブルー。こいつはちょっと頭が良すぎておかしな方向に行ってんだ」
「いえ、大丈夫ですよ。気にしませんからそういうのは」
ははは、と取り繕うように笑おうとした所で、僕の視界の一部に映っていたマスターのバイタルサインがマーケットから出てこちらに近付くのが見えた。どうやら買い物は終わりらしい。
「あ、マスターの買い物が終わったみたいですね。すぐに帰ってくると思います」
「そうか。まぁ、別にそう急いじゃいないんだけどな」
そう言いつつもデヴィッドがそわそわしているのが分かる。マスターにどんな用かは結局分からなかったが、デヴィッドの邪気のない浮つき方を見ているとそんな事はどうでも良くなってしまった。
程なくして、「ただいまー」という聞き慣れた声が聞こえ、リビングにマスターが現れた。買い物袋を片手に提げて「やっぱ動くとあっついねー」なんて言っている。
「よぉ、久し振りだな。スカーレット」
デヴィッドがわざわざ立ち上がって手を挙げる。座っていても図体は目立つのにわざわざ立ったから、自分で雇い主と言っていたリーンが影に隠れてしまう。お陰でマスターはリーンに気付いてないぞ。
「デヴィッドさん! どうしたんですか、珍しい!」
マスターもマスターで買い物袋を落としそうなくらいに驚いて、素っ頓狂な声を上げている。まったく、人間という奴は……何でこうも感情の発露が豊かなんだろうか。
「デヴィッドさんが居ると言う事は――やっぱり! お久し振りです博士!」
マスターが少し視線をずらすように移動して、デヴィッドの影に隠れたリーンを見つけ、その顔の笑みを更に大きくした。口角が上がりすぎて別人みたいな顔になってる。
その喜色溢れるマスターを見ても、リーンは先程僕に名乗った時と同じ調子で「ああ」と答えただけだった。
いやもう本当に、僕は貴女が実はデヴァイスなんだと言っても全く驚かないよ。
「っと、ごめんなさい。これしまうんで少し待ってもらえますか?」
「マスター。僕がやるよ。お客様は何か用があるって言ってたよ」
慌てたようなマスターを見て僕は多少の呆れを滲ませて、その買い物袋をマスターの手から取った。ズシリとした感覚が右腕に伝わって、僕は僅かに力を入れる。
「そう? じゃあお願いね。ブルー」
「了解」
そう言って、僕はすぐに踵を返してキッチンの方へと赴く。とは言っても、キッチンとリビングはそんなに離れていない。
だから、視線の端や聴覚にマスター達三人の会話や動作が引っ掛かるのはどうしようもない事なのだ。それに、さっきは悔しさが薄れていたけど、やっぱり「君には理解出来ない」って言われるのはなかなかに僕の自尊心を傷付けてくれた。どうあっても知りたいと思うのは、この場合仕方ないだろう?
僕は僅かに聴力を引き上げ、三人の会話に向けて聴覚の指向性を調整する。途端に買い物袋を弄る音や食料を触る些細な物音が遠くに聞こえるようになり、三人の会話がすぐ傍に聞こえるようになる。
「えーっと、それで私にどんなご用でしょう?」
「……」
「……おい。何顰めっ面してんだリーン」
「……スカーレット、お前に頼みたい事が有って来た」
「何なりとどうぞ」
「マルクスが遺した研究データが欲しい。次元跳躍についての草稿と虚空録の取得と複製についての考察をメモした物があるはずだ」
「草稿とメモですか……えーと、ああ、確かにありますね。どうやって渡しますか? 一応各種メディアはありますけど」
「データは何でもいいが、加えて紙に印刷した物が欲しい」
「紙ですか、博士も相変わらずですね。わかりました、ちょっと待ってて下さい。今用意しますね」
そう言って、マスターはリビングの奥――マスターの自室がある方だ――へと行ってしまった。
とっくに食料の収納が終わっている僕は聴覚だけそのままに、手は夕飯の下準備の続きをしている。三人に悟られぬように会話を聴くには、何か作業をしていた方がそれっぽく見えるだろうし、それに肉じゃがにしてくれと言ったのは僕だから、手伝うという意味合いも込めてその作業に着手している。
それにしても、僕の知らない人名が出て来るなんてマスターも何だかんだ言って僕に秘密にしている事があるんだな。マルクスなんて人物は僕のデータベースには1バイトたりともインプットされてない。
僕が意味もなく少し憤慨した所で、分厚い紙束と小さな記憶媒体を持ってマスターがリビングに戻ってきた。
うわぁ。あんな量の無造作な紙束、今のご時世貴重品な上に骨董品にも近いぞ!
「これで、合っていますか? 博士」
「…………うん……間違いない。有り難うスカーレット」
「私はただ出力しただけですから。お礼なら、彼に」
「おいおい、謙遜すんなよスカーレット。コイツと同じ研究バカだったあのアホに尽くして、こうして奴の研究データが残ってるのは、間違いなくお前の手柄だよ」
「デヴィッドさん、相変わらず優しいですね」
「はは、そう言ってくれるのはお前だけだがなぁ」
「スカーレット、感謝の代わりと言っては何だが。一つアドバイスをしよう」
「アドバイス……ですか? 博士がそんな事言うなんて珍しいですね」
「何事にも対価は必要だろう?」
「それでは、有り難く承ります」
「奴は、八割方戻ってる」
「……え?」
「言葉通りだ。もう八割方――もしかしたら九割は戻ってる。後はお前が決断するだけだ」
「そ……そんな! そんな事、急に言われても……」
「スカーレット。お前は十分に尽くした。もう、いいだろう?」
「あー、俺の方からも一つアドバイスだ。インプットなんてダセェ手使うなよ。俺の目から見ても大分戻ってるんだ、後はお前の言葉がありゃ十分だと思うぜ?」
「私には、そうは見えませんよ」
「嘘だ」「そりゃ嘘だなぁ」
「二人して即座に断言しないで下さいよ……」
「まぁ、ホントの決断はお前次第だけどよ」
「うー……」
「スカーレット。わがままの言い方は勉強したはずだな?」
「何遍も、復習しましたよ」
「なら、後は勇気だけだな」
「博士、私は……」
「帰るぞ」
「えっ」
「あいよ」
「ちょっ、博士!」
「私なりの礼だ。聡明なお前の事だ、分かっているのだろう?」
切り落とすが如くの言葉で、リーンが立ち上がった。デヴィッドも立ち上がり、揃って「帰ります」と公言してるかのような振る舞いだ。
しかし――やれやれ、本当に殆ど分からなかった。悔しいがリーンの言った通りだ。会話の内容がさっぱり分からないぞ。
……分からない、よな?
首をもたげた疑問を掻き消すように僕の視界がほんの少し暗くなる。見れば、目の前に巨躯が立ちはだかっていた。いくら僕でも唐突に目の前に立たれると吃驚するぞ。
聴覚を元に戻しつつ、僕は目の前に立ちはだかったデヴィッドに視線を合わせた。
「どうか、なさいましたか?」
「そろそろ帰ろうかな、と思ってな」
「そうですか」
「リーンはなーんにも言わないが、一応な。聴いてない振りして聴くのは、どうかと思うぜ?」
なんと。
聞き耳を立ててたのがばれてるとは。
え? 何で? どうやって感知したんだろう?
「んじゃーな。ああ、ボスが見送りはいらねーから、せいぜいしっかり考えろってよ」
僕の混乱を更に加速させるように、デヴィッドはニヤニヤしながら言い放ち、背を向けた。そのまま軽く手を振りながら玄関へと向かっていった。気付けばリーンの姿は何処にもない。いつの間にか外に出ているのだろうか。早業所の話じゃないぞ。
やがて、デヴィッドの気配も家の中から消え、残ったのはいつも通りの僕とまだ座って俯いているマスターだけだ。
ん? 俯いている? マスターが俯いているというのも珍しいな。
さっきの会話を聴く限り何か驚いたり拗ねたりやきもきしてたけど、あの程度の感情の起伏でマスターが俯くというのは僕が知る限り初めてのケース……だと思う。
何かしらフォローを入れるのは、まぁデヴァイスの務めではないかも知れないが、同居人の務めではあるな。
「マスター、どうしたんですか?」
フォローするつもりで質問してどうするのかと、僕自身思うが……今回ばかりは仕方がない。俯いている理由が分からない以上、それを聞かねばフォローのしようがない。
「ブルー……図書室、行こっか」
「はい?」
質問に答えないばかりか、マスターは立ち上がりスタスタと行ってしまった。いやいや、何なんだ。訳が分からないから、マスターの思考にアクセスしようとしたけどノイズが酷くて結局何も分からない。
兎に角、後を追うしかない。それが分からないほど僕は旧式じゃない。
「……久し振りだね。二人で図書室入るの」
図書室に入って、背を向けたままマスターは静かに呟いた。
「そうですね。具体的にはマスターが僕の持論を大笑いして以来です」
「はは、具体的……ね。もっと具体的に言うと、1128日ぶり。時間は省略したけど、そこまで言う必要もないよね、ブルー?」
振り返ったマスターは無表情なのに、微笑んでいるような恐れているような、形容し難い表情をしていた。
というか、マスターはそんな具体的に覚えているのか。そんな細かく覚えてるなんて初めて知ったから僕は吃驚するばっかりだ。
多分僕の無愛想な顔は目を見開いてるに違いない。
「よく覚えてますね」
「うん、まぁ私デヴァイスだしね」
なるほど、デヴァイスなら頷けるはn……何?
「何言ってんですか、冗談は――」
「冗談でも、嘘でもないよ?」
冗談でも嘘でもないのなら、これは何だ?
悪い夢か? いや、やっぱり嘘だろう。証拠は何も提示されてない。
「じゃあ証拠見せようか」
僕の溢れ出んばかりの思考を読み取ったのだろう。淡々とそう言って、マスターは自分の右手で左腕を掴み肘から先を外した。
デヴァイスはロボットのような物。人間と殆ど変わらない機能を持っていても違う部分は結構沢山ある。その内の一つが肉体のカスタマイズ。今マスターがやって見せているように腕を外して、極端な話ドリルでもノコギリでも付けようと思えば付けられる。
つまり、そう言う意味で「証拠」というわけだ。
「あと序でにこれも」
そう言ってマスターは腕を戻し、突然ブラウスをはだける。そこに有ったのはデヴァイス識別用のピアスが通されたチェーンネックレス。
そのピアスは今僕が耳に付けているものと同じものだ。
何だ、これは。
デヴァイスはロボットと殆ど同じ、人に付き従い、人に尽くすのが僕達の筈だ。
それが、デヴァイスがデヴァイスに付き従い、デヴァイスがデヴァイスに尽くしてきたのか?
有り得ない。デヴァイスのマスターたり得るのは人間以外にはないはずだ。
「じゃあ貴女は、僕の――マスターではないのですか」
「そうだよブルー。私はあなたのマスターじゃない」
じゃあ僕をブルーと呼ぶ貴女は一体何なんだ? そう叫びそうになったのをぐっと飲み下して、僕は俯く。何だ? どういう事だ。何の意図があってマスターはこんな事を――
「はは、混乱してるね。思考にノイズ出まくりだよ」
何を暢気に笑ってるんだこの人は。
「当たり前でしょう! 混乱しない方が無理だ!」
「そうだよね。あなたはそれ位にもう『戻ってる』んだね」
やめてくれ、また混乱させるような事言わないでくれ。頭の中のノイズが更に酷い事になった。
「もう薄々、気付いて居るんでしょう?」
何の話だ? 気付く? このノイズの中で何に?
「ブルー、あなたは――ううん、あなたが」
やめろ。何を言うつもりだ?
「人間なのよ」
……嘘だ。
嘘でなければ、これまでの僕は何だったんだ? 人間じゃないからと諦めていた事や楽だった事も全部嘘? じゃあブルーと呼ばれていた僕は、一体何だったんだ?
「あなたはブルータス=マルクス。まだ思い出せないかも知れないけれど、あなたの名前」
「マルクス……?」
混乱でぐちゃぐちゃになった頭にその言葉が引っ掛かる。マルクスって確か、さっきの会話に出て来ていた――
「そう、リーン博士が欲しがった研究データを遺した人の名前」
「それが、何故僕に……なるんだ?」
「思い出して、ブルー。読書はもっと神聖でなければならないと言った、あの時みたいに。私、あの時凄く嬉しかったよ。あなたは絶対戻ってくるって確信出来たから」
バチ、と目の前に火花が散り、頭に一瞬電流のような物が走ったかと思ったら、それを追うように激しい痛みが頭を駆けめぐる。
痛みは次第に全身に広がり、僕はフラフラと座り込んだ。
全身に亀裂が入るような感覚に襲われ、全ての感覚が遠くなる。マスターの声が遠くに聞こえ、それとは違う声ばかりが近付いてくる。
『ようやく、ごっこ遊びは終わりだ』
『これでブルータスでありブルーであり、どちらでもなくなる。けど、今度は忘れるなよ』
『あいつの名前だ』
『愛した女の名前を忘れてたなんて、洒落にならんぜ』
その言葉を最後に、僕の中に数多の記憶が甦る。記憶が記憶で塗り潰され、僕の頭は何を忘れ何を覚えるべきなのかを必死に判断しようとする。
そうか。
ようやく僕は思い至った。
僕が人間で彼女がデヴァイスなら――はは、最初から答えは出ていたんだな。僕が続けていたデヴァイスごっこは全てが逆だった。
僕がマスターで、彼女が僕のデヴァイスだったんだ。
そして――
「ブルー!」
唐突に感覚が甦り、目の前で座り込んだ女性が僕の肩を揺らしている。その揺れと一緒に瞳には涙が揺れ、今にもこぼれ落ちそうになっている。
肩を掴んだその手に僕の手を重ねて、僕は自然に微笑んだ。戻ってすぐにしては、自分でも褒めてあげたいくらいだ。
「そんな揺らさなくても、大丈夫だ」
「ブルー……?」
不安そうな声が僕の名前を呼ぶ。
あ、いや僕の名前であって、もう僕の名前じゃないか? 何だかややこしいな。それに僕自身結構ブルーって名前は気に入ってたんだけど――
「もうブルーじゃないよ、スカーレット」
「……私の名前――」
初めてスカーレットと呼んだ気がするし、目の前の反応を見る限りそれは真実なのだろう。震えた声に被せるように僕は続ける。
「でもブルータス=マルクスでもない。君がクラウディアではないように」
「…………」
「粗方思い出したよ。随分長い事待たせてしまったみたいだけど……。一応は、まぁ成功……だよね?」
そう言った所で、彼女は強く抱きついてきた。僕もそれを咎める気はない。彼女の髪を撫でながら僕は反芻する。
予想より時間が掛かったけど――成功だ。
「まだ全てを思い出した訳じゃないけど、何がどうなってるのかは大体思い出したよ」
……僕は研究者だった。リーンと同じ類の研究バカ、ブルータス=マルクス。妻クラウディアを大恋愛の末に娶り、輝かしい未来に邁進するはずだった。
何が切っ掛けだったかは忘れたが、クラウディア――今のスカーレットは瀕死の重傷を負い、僕は彼女を助けるために研究中だったデヴァイスの新技術を使って蘇生させた――人間とデヴァイスの中間の存在として。
記憶と機能の混濁を避けるために一度はデヴァイスとして起動し、徐々に人間としての記憶やら感覚を取り戻させた。デヴァイスとして付けた名前がスカーレット。我ながら安直だ。僕が付けていた開発コードそのままだもんな。
まぁ兎も角、その施術と起動をリーンとデヴィッドに手伝ってもらっていたんだ。
そして、今度は何の因果か僕が瀕死になったんだろう。そして、彼女は自分に施された技術をそのまま僕に応用した。
施術と起動をリーン達に手伝ってもらう所までそっくりに。
今にして思えば、デヴィッドの馴れ馴れしさは当たり前だった。僕の事をずっと前から知っていたんだから。
「――やれやれ、君にも同じ道を辿らせていたと考えると、我ながら酷い荒療治だ。当時の僕はマッドサイエンティストと言われてたんじゃないかと思うんだけど……その辺はどうだった?」
僕は自然に笑みを零した。知らないうちに笑みが零れるなんて事すら忘れていたのに。でも悪くない。
「まぁね、変人として有名だったよ」
涙で少し赤くなった瞳のまま、彼女は笑った。
今し方甦ったばかりの記憶にもその笑顔はキッチリ焼き付いていた。重なるように思い出された笑みが、完全にデヴァイスであった期間には浮かんだ試しがない事も思い出し、僕は今更になって罪悪感を覚える。
しかしそれ以上に、その笑みが戻ってきたという事に幸福を感じている。
そして確信出来る。彼女が僕が戻ってくるのを確信したのと同じように。僕らはこれから間違いなく幸せに暮らす、とね。
その確信を結実させるにも一つ重要な事が残ってる。
さてはて、これはどうしたものか。
「ねぇ、概ね成功だけど一つ問題が有るのに気付いたよ」
可愛らしく小首を傾げて、彼女が悪戯っぽく微笑む。
ほほう、その顔は流石我が伴侶、同じ事に気付いたな?
「お互い、何て呼んだらいいかな?」
「君は何て呼んで欲しい?」
「私、結構スカーレットって名前気に入ってるんだよね」
「じゃあ僕もそう呼ぼう。よろしくスカーレット」
「あなたは、何て呼ばれたい?」
「そりゃあ、勿論――」
called blue : Jul 02, 2010




