呪精
男女の関係の中で交わされる生殖行為は、性交、交尾、まぐわい、セックスなど、様々な呼び名があるが、その目的は男の精子を女の卵子へと送りこみ受精させることである。
人間の性行為には快楽がある。これは生殖を活発にするために、脳が快楽物質を出しているという話もある。
しかし、快楽を伴うことで悪いこともある。
できっちゃった婚と言われる婚姻前の受精、妊娠は喜ばしいことかもしれない。
だが、快楽を求めるがあまり犯罪行為に走ることも少なくない。
そんな喜ばれぬことで受精をしてしまう人達も悲しいことにいる。
尊い命かもしれないが、望んだ命ではないのだ。
人間には快楽だけではなく、本来の目的である受精を果たす欲求もある。
自分の子孫を残すために。受精を目的とした手段が必ずしも性行為だけではない。今回はそんな話をしよう。
・ ・ ・
12月中旬
12月も中旬に差し掛かかり、寒さが日ごとに厳しくなっていく。
そんな時期に、この人口40万人の天野原市にもクリスマス旋風が到来している。
クリスマスだからといって浮かれているカップル達を横目で恨みがましく見てしまう。
祐にとっては基本、1人ぼっちのクリスマスなので、何も関係がない。
ただ、外食に行った時のメニューがクリスマスディナーしかないことがあったりして悲しい。
なぜ、こんな寒い時期に不快な思いをしながら歩いているというと、知り合いの刑事からの依頼があったからだ。
歓楽街のとあるビルの周辺に、赤色灯を灯しているパトカーが何台か停まっている。
人ごみをかき分けて、規制線の一番前まで出ていく。
1人の刑事がこちらに気付き、近寄ってきた。
「お呼び立てして申し訳ありません、守屋さん」
誠実で真面目な姿と声、引き締まった顔も良い刑事が深々と頭を下げてきた。
「神尾さん、構いませんよ。報酬をいただければ、いつでも歓迎ですよ」
刑事の名前は神尾 誠治、怪異絡みで何度か協力したことがある。
1人の刑事がビルから降りて来た。
おそらく、あのビルで事件があったのだろう。ビルから降りて来た刑事がこちらに近づいてくる。
「神尾先輩、中はひどい状態でしたよぉ。鑑識の連中、何度も吐いてて」
大変な事件があっただろうに、なんと軽い言い方だろう。
「立花、不謹慎な物言いをするな。仮にも人が死んでいるんだぞ。それに…あんな状態を見れば、誰でも吐きたくなる」
神尾は低い声でたしなめる。
「すいません…。あ、その人が神尾さんの知り合いの方ですか? 自分は立花 新一郎と言います。よろしくお願いしまっす」
怒られたばかりなのに軽い物言いは変わらない。そういう性分なのか?
「俺は守屋 祐。どこまで神尾さんから聞いてるか分からないが、依頼を受けてここに来た」
ざっくりと説明しておく。細かく話すのも時間の無駄と考えた。
「立花、鑑識も帰ったんだろう。仏さんは残っているんだろうな?」
神尾は早速、現場を見せたいのだろう。
「はい。もう入っても大丈夫っすよ。でも、部外者いれて大丈夫なんすかねぇ?」
神尾は立花の話を無視するように、ビルに向かいこちらに来るように手招きをした。
いかにも雑居ビルといった薄汚く暗い感じで、階段で上るしかないほど古いビルだ。
「6階建ての5階の部屋になります。本当にひどい状態です」
階段を上りながら神尾が伝えてくれる。気味が悪い上に、ひどい状況とは泣けてくる。
黄色いテープで封鎖されているが神尾がくぐって行ったので、それにならって俺もくぐる。
部屋に入ると……。部屋と言うよりガラスケースに商品を入れている店であった。
商品を見るに、流行の脱法ハーブと思しきものが並んでいた。
「ハーブに興味がおありですか? 使い方さえ間違えなければ、罰せられることはありませんよ?」
神尾は当たり前のことを言ってきた。本当に生真面目な人だ。
「興味ないですね。ただ、流行に疎いもので……。神尾さん、年上なんですから敬語は不要ですよ」
神尾は自分よりも年上である。30前だったか。エリートとも聞いたことがある。
部屋の奥に入りながら雑談を続ける。
「いえ、何度も窮地を救ってくださったのですから。敬意を持って接しさせていただきます」
この頑固さも美点ではあるが、社会の中では損をすることもある。
「まあ、あなたがそれでいいなら、構いませんが……。ひどい臭いがしますね」
事件現場に到着した。これは、なんだ?
被害者の腹が引き裂かれて、ぱっくり割れている。カエルの解剖状態のようだ。
しかし、腹の傷は鋭利な物で切ったような綺麗な線ではない。
内側から無理やり引き裂いたように見える。
「どうですか? こんなもの私は見たことありません。率直に聞きます。これは怪異ですか?」
神尾はストレートに話す。強い眼差しが、まだ判断できない自分には少し痛い。
初見で感じたことを素直に伝える、と言うと神尾も頷いた。
「私もそう思います。では、何が被害者の腹を引き裂いたのか、それが分かりません」
それが分かれば苦労はしない。怪異の中でこんなものがあったか?
自分の中では思いつかなかったので、アシスタントの力を借りよう。
「外に出て、電話をしてきます。神尾さんは何か気になる所がないか、見ておいてください」
外に出ようとしたところで、立花と出くわした。
「どうでした? ひどいもんだったでしょう? あ、吐くなら外の排水溝近くに」
立花の言葉は無視して、幸の電話番号を選択する。
「祐さん、どうしましたぁ? 今日は寒い中、大変ですねぇ」
労いの言葉と取っておこう。ただ、あまり気分が良くないので早めに本題に入る。
「幸ちゃん、人間の腹を引き裂いて出てくる怪異って読んだことない?」
「ん~、本にあったと思いますが、被害者の方は女性ですかぁ?」
知っているなら話が早い、と思ったが女性?
「いや、被害者は男性だよ。腹が内部から引き裂かれているようなんだ。
爆発物なんかでは他の臓器に傷がつくはずなんだけど、綺麗なもんでさ」
「ん~んぅ、やはり調べても女性での怪異しか載っていないですねぇ」
幸が言うならそうなのだろう。本を読めばだいたい何が書かれていたか、そのページの辺りまで記憶しているのだから。
幸に礼を言い電話を切った。何故か長々と話したい気分ではない。
何でか今日は気が立っているというか、不快な、不愉快な、そんな感じがする。
事件現場に戻ると真剣に体をなめまわす様に見ている神尾と、体が引いてる立花の対照的な姿があった。
「何かわかりましたか?」
神尾はハッキリとした声で質問してくる。
しかし、得られた情報がないことを伝えると少し気落ちしていた。
「と、とりあえず、解剖に回しませんか? ここで見てても分からないことが分かるかも」
立花の至極まっとうな意見に賛同し、早速、話を付けに行ってもらった。
「解剖には俺も立ち会わせてもらっていいですか?何か分かるかも知れませんし」
もし怪異絡みであれば、どこかに怪異の残滓が残っているかもしれない。
「是非、お願いします。むしろこちらからお願いすべきなのに、申し訳ありません」
相変わらずな神尾のまっすぐな返答に、解剖の日が決まったら連絡するように伝えて退散した。
・ ・ ・
数日後
携帯のマナーモードによるバイブレーションによって、携帯が机の上でガタガタ音を立てている。
神尾 誠治。その名前を確認し、電話を取る。
「守屋さん。今、お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「解剖の時間が決まったんですね。こちらから向かいますので、時刻と場所を教えてください」
必要なことを質問し、事務所を後にする。
天野原大学。天野原市の公立大学で司法解剖が始まろうとしていた。
「それでは今から解剖を行います」
法医学者の言葉により、解剖が始まった。
見落とすものがないように、しっかりと確認していく。
法医学者は臓器などの状況を確認し、他に何かないか体中を触って確かめている。
神尾も真剣な表情で見ているのに対し、立花の一歩引いた姿が印象的だった。
解剖が進んでいく中、法医学者の動きが止まった。
「何かありましたか、先生?」
神尾も気付いたようだ。俺よりも早く質問を投げかけた。
「この被害者…片方の睾丸がないんだ。ないだけならあり得ない話ではないんだが……。睾丸の場所から、腹部までつながるように穴が開いてるんだ」
何の話か分からない。あり得ない話なら怪異かと思うが、その痕跡が見当たらない。
「とりあえず死因は腹部裂傷による失血死となるね」
法医学者もこれ以上、下手に調べたくはないのだろう。ここで切り上げとなった。
「守屋さん、どう思います?」
神尾は想像すら出来ないのだろう。睾丸が腹部に移動するなんて。
「まだ何とも…。ただ言えることは、人間業ではないことですね。じゃあ、何かと言われると……」
この程度の回答しかできなかった。睾丸が何になるのか。
「いやぁ、あんな話を聞いて、玉が飛び上がってしまいましたよぉ」
立花はおどけたような言い方で、最後に乾いた笑いをつけた。
立花の言葉を聞き流して、沈黙が流れる。
この事件がこれっきりなら良いが、連続して続いたらと思うと気分が悪くなる。
ただでさえ、何故か気が立っているのに。
「守屋さん、大変お手数をおかけ致しますが、もう一度被害者宅に来ていただけませんか」
神尾は丁寧ながら有無を言わせぬ、力がある言い方をした。
「現場百回ですか……。まぁ、ここで落ち込んでても仕方がないですしね」
神尾に付いて行くことにした。慌てて立花も付いて来た。
それぞれの車で、また歓楽街の事件のあった雑居ビルに向かう。
被害者宅はそのままにしてあるそうだ。またハーブなのか、嫌な臭いを嗅ぐことに少し辟易した。
暗い店内を抜けて奥に入る。
血の跡が壁まで飛び散っているこの部屋で、いったい何があったのか。
「何かあればいいのですが……。とにかく見て回りましょう」
神尾は地道な捜査を希望してきた。仕方がなく部屋の隅々を見る。
「しかし、店先よりはましですがハーブの匂いがきついっすねぇ。血液と混じってか、本当に臭いです」
立花はハンカチで口と鼻を押さえながら、話しかけてきた。
臭い……。思いっきり鼻から吸ってみる。店先と違いハーブの匂いもするが、別の匂いもする。
「これは……。塩素系の漂白剤のような臭いがしませんか? 何というか、栗の花のような匂いです」
神尾に聞いたつもりだったが、先に返答してきたのは立花であった。
「本当だ。確かに臭いますね。っていうか、イカくさいって感じですよね。ほら、ナニした後の臭いですよ」
立花を見直してしまった。そうだ、精子の臭いがするのだ。
「何者かが、被害者の睾丸を使い、何かを作った。ということですか、守屋さん」
恐らくは神尾の言うことが正しい。では、何を作った。何のために……。
「そうか…可能性の域を出ませんが、私の所見を述べさせていただきます」
そうであって欲しくない。そんなことがあるわけないと思いたい。
「これは、睾丸を元に人間、もしくは怪異を生み出したものと思われます」
沈黙が流れていく。
突飛な話だが、片方の睾丸がなく、あの臭いをさせ、被害者の腹を内部から引き裂いたことを考えた仮説である。
「つまり、被害者の腹を破ったのはその人間、もしくは怪異で、この漂白剤のような臭いはそいつが生まれた際に発せられた物、ということでしょうか」
神尾が適格な回答をしてくれた。その通ぉり、と言いたかったが、頷くだけにした。
「か、仮にそうだとしたら、そいつは何をするんですか? イカ臭いニオイは発してそうですけど」
立花が気持ち悪そうな顔をして言った。そうだ。その生まれた者の目的が分からない。
電話を掛けてくると言い外に出た。
携帯の電話帳から有能なアシスタントの名前を選択する。
「はぁい、幸ちゃんでぇす。お疲れ様でぇす」
脱力感満載の電話の出方だ。早速要件を伝えることにした。
「幸ちゃん、前に聞いたときは腹を引き裂いて出てくる怪異について聞いたけど、別の視点から考えたい。
腹の中に人間、もしくは動物の子供を宿らせるような怪異はいなかった?」
口早に伝える。幸の返答を待つ時間に苛立ってしまっている。
「ん~んぅ、やはり前のに話したのが有力ですねぇ。妊娠した女性の子供に入り込む怪異です」
幸の言葉に肩を落としてしまった。これではヤツが何をするのか分からない。
「もっと何かないのか? 怪異絡みでなくてもいい。何か、何でもいいから」
「そういわれると一つ、気になる記述がありました。男性の睾丸を神に捧げて、意中の女性に精子を直接送り込み、無理やり妊娠させる儀式があったようです。
まぁ、民間伝承ですし、その話自体は怪異としてではなく、自分の大事なものを半分捨ててまで女性との子供を求めるという、悲しいお話で書かれていました」
「それだ。幸ちゃん、ありがと」
早々に電話を切り、神尾達の元へ向かう。
「ヤツの狙いが分かりました。恐らくですが」
部屋に戻るなり一息に言い放った。2人とも呆気に取られている。
「守屋さん、お話をお願いします」
神尾はすぐに真面目な顔に戻って聞いてきた。
「おそらくヤツの狙いは女性を妊娠させること、それは複数かもしれないし、1人かもしれない」
今考えられる話をした。神尾は何かに気付いたように立花に話しかけた。
「立花! この被害者と交際している女性がいただろう? 今どこにいる!?」
立花は声を荒げた神尾にビックリし、転がるように部屋を出て行った。
おそらく捜査本部に連絡して、所在や住所などを確認するのだろう。
「守屋さん、なぜ女性を妊娠させるため、という話になったんですか」
率直な意見であり、当然の質問を神尾はしてきた。
「ほぼ勘の話なのですが、睾丸、精子は何のためにありますか。子孫を残すためです」
そう。この作り出された者はその子孫を増やす、あるいは残すために行動するのではないか。
「なるほど。元となっているものが睾丸だから、卵子を求める。ということですね」
神尾は本当に頭が良いと思った。1言えば10返ってくる感じだ。
「あなたが被害者の彼女の居場所を確認させたのも、私の考えを先に読まれたんでしょうね」
神尾の言葉に頷いた。狙われる可能性が高いのは間違いなく、その彼女だ。
「もし怪異のようなものであれば見えなくても、どこかで私が感じるはずですし、知り合いからもそういうのを感じたとも聞いてません。
例え、見える存在であれば、もう捕まっている可能性が高いでしょう」
見えない。もしくは見えるが姿を隠している。姿を隠しているなら、なぜ隠すのか。
「交際女性の居場所が分かりました! 実家の近くのスナックで働いでいるようです」
立花は調べたことを更に続けた。
「被害者とは最近、うまくいっておらず、DVされていたようで逃げるように実家に帰ったと前の職場の同僚が話したようです」
早速、行かねば。手遅れになりかねない。ビルを飛び出し、駅に向かう。
そこには、電光掲示板が電車が遅延していることを知らせていた。
立花が確認すると、どうやら特急の電車で異臭騒ぎがあり、一時停車しているとのこと。
おそらくヤツの臭いだろう。特急が停まっているなら、車で高速を使えば追い越せるかもしれない。
神尾にそう提案し、それぞれの車で高速道路に向かう。
「立花! 交際女性の実家に電話してくれ。彼女を保護するのが最優先だ!」
神尾は赤色灯を点け走り出した。その後ろを付いて行かせてもらう。
・ ・ ・
華子は、寂れたスナックの閉店作業に追われていた。
ママは厳しいし、客のオヤジは下品だし…。
そもそも水商売に手を出したのも、あの男のせいだわと、愚痴をこぼした。
事件の話で何度か警察が来たが、もう終わった関係と伝えておいたのに、また警察から電話があったことを聞かされた。
「華子ちゃん、警察の方が早く家に帰って、戸締りをキチンとしなさい、って言ってきたわよ」
母は心配そうにわざわざ店に電話を掛けてきた。もう彼は死んだのに何を今更。そう思いながらダラダラと掃除をしていた。
閉店作業も終わり、家に帰るころにはもう日を跨いでいた。田舎のスナックの閉店時間なんてこんなもんだ。
天野原市の明るい街並みを思い出しながら、ひとりごちた。
家に帰る道の街灯は少ない。そもそも車がないのがいけないんだ。
かといって父親の軽トラなんて、まっぴらごめんだ。
なんでこんな人生なんだろう、そう考えたとき後ろから何かを引きづるような音がして、後ろを振り返った。
街灯の光の奥から、人影が見えるが動き方がおかしい。
なんなのあれ? と、思う私の前に、くぐもった声を出してきた。
「…かご~…待っでぇ、ぐれ~、かご~」
声が上手く聞き取れないが、聞いたことのある声だった。
「あんた和也なの!? あんた死んだんじゃないの!? もう私達は終わった関係でしょ!? こんな所まで来ないでよ! ふざけんじゃないわよ!」
自分をこんな環境にさせた和也に対して怒りをぶちまけた。
「…かご~、お前が~…いないと~…」
街灯の光の下に入ってきた和也は、和也ではなかった。
上半身のほとんどが卵のようになっており、人間の腹の部分から申し訳程度に手が生えている。下半身は人間と変わりない。
男性器がないことを除けば……。
卵頭がゆっくり、足を引きづるように近寄ってきた。
腰が抜けてしまい、動けない。道路に座り込んでしまった。
「…かご~、お前が~…いないと…」
更に近づいてくる。何とか逃げなきゃと思うが、体が動かない。
「…いないと~…子供がつくれないだろうが」
最後の声はハッキリとした和也の声だった。
卵状の上の部分に亀裂が入り、黒い何かが揺らめいていて出てきた。
もうだめ!そう思って、彼女は目を閉じた。が、次に聞こえたのは、何かの衝突音だった。
・ ・ ・
「先輩、勢い良すぎますって。ていうかドリフトできるんすね」
神尾はパトカーを滑らせて、後部のバンパーで卵頭を跳ね飛ばした。
「まぁ、若いころ色々やってれば、これくらいはできる」
立花の言葉に返答しながら車を出て銃を抜く。車をぶつけることができたのだ、攻撃できる。
卵頭が立ち上がってきた。立花も銃を構えた。
「立花、頭を狙え。…撃て!」
どこが頭か分からなかったが、卵形の部分がそうであろう。
気味の悪い卵頭が痛みに対して奇声をあげた。
「効いてますよ、神尾さん。このままやれるんじゃないですか?」
銃弾を食らってもがいているヤツを見て立花が興奮気味に言ってきた。
「いや、俺たちは足止めだ。止めは守屋さんに任せる。足立、彼女をパトカーに」
立花に早口で言うと、再度、銃の引き金を引いた。
乾いた音が鳴り響く。早く来てくれ、そう祈りながら相手の動きを注意深く観察する。
「神尾さん、彼女を車に乗せました。神尾さんも早く乗って!」
・ ・ ・
祐はナビを見ながら、おそらくこの道だろうと細い道を走っていた。
完全に置いて行かれたのだ。そもそも、神尾のドライビングテクニックが凄すぎだ。
こんな細い道をトップスピードで走り抜けていくのだから。
携帯のバイブに気付く、電話に出てBluetoothに切り替える。
「守屋さん、今どこですか? 被害者から生まれたヤツを見つけました」
あなたのドライビングが、と言いそうになったが、ヤツを見つけたとの声に息を飲んだ。
「神尾さん!気を付けて!自分を見せる怪異は見えない怪異より強いことが多いんで、」
言葉を伝えきる前に、女性の悲鳴と、神尾の怒声、立花の恐怖にひるんだ声がした。
銃声が何発も聞こえる。効果はあっても、致命的なものではない。
遠くから赤色灯の光とサイレンが聞こえる。アクセルを全開に踏んで、彼らの救出に向かう。
・ ・ ・
卵型の化け物が粘液のようなもので車に張り付いている。確実に彼女を狙っている。
立花は車の運転と、後ろからの恐怖で顔が強張っている。
銃弾の効果はあったんだ。何とか、こいつを車から引き離す方法を考えねば。
立花の銃も借り、何度も引き金を引く。その度に奇声を上げるが、引っ付いて離れないのだ。
「神尾さん、無理っすよぉ。もうビビっちゃって、運転が……」
無理もないと思った。怪異と最初にやり取りをした自分を思い出した。
だが、実体を持ったやつだ。銃弾よりももっとキツイ物をくれてやる。
「立花 !アクセル全開にしろ!俺がブレーキと言ったら、全力でブレーキを踏め!」
立花はうろたえていたが、藁にもすがる一心からか、指示通りにした。
エンジンが唸りを上げて、急加速していく。その先に…カーブが見えた。
「立花、ブレーキ!」
急な減速で前に引っ張られる。すかさず、サイドブレーキを上げ、立花の持つハンドルを一気に切った。
卵頭のやつは車の急ブレーキで浮かされ、更に急なカーブによって振り落された。
運転を立花に渡した。やっと一息つける。反笑いの立花を見て、労いの言葉を掛けようとした。
その瞬間、卵型のヤツが窓ガラスから顔を出した。歯を噛みしめて、苦々しく思う。失敗したのだ。
悔しさが顔に出る前に、卵頭が急に視界からいなくなった。
神尾は後ろを見ると、うねうねしている百足の下で守屋がこちらを見ていた。
・ ・ ・
被害にあった女性を家まで送った。祐は神尾に言いたいことがあった、が。
「守屋さん、すいませんでした! 急ぐあまり、守屋さんが来ているか確認もせずに!」
すごい勢いで謝られた。これでは文句の言いようがない。
「いやいや、神尾さんのドライビングテクニックの問題ですよ。乗っててヒヤヒヤしましたもん」
立花がおどけるような口調で神尾に言ったのを聞いて、少しだけ立花が好きになった。
「とりあえず、事件はこれで解決と考えていいのでしょうか?」
神尾が少し心配そうな目をして聞いてきた。
「まぁ、ヤツの元になった睾丸は1つだけでしたから、解決と考えて良いんじゃないでしょうか」
その言葉に安心したのか、電話を掛けはじめた。おそらく警察署だろうが、どう報告するのやら。
・ ・ ・
神尾は報告書をまとめて、上長に報告をした。
ありのまま起こったことを報告した。例え、それが頭がおかしいと言われても。
救った命があるなら、それを伝えるべきだと考えている。
「神尾、署長がお前に話したいそうだ。おそらく、お前が書いた化け物についてのお叱りかな」
警部はおどけてそう言った。俺の事は信頼してくれているし、受け取った報告書もそのまま上に提出する人だ。気を使ってくれているのだろう。
仰々しい扉をノックして、自分が来たことを伝えると、中に招かれた。
「神尾くん、忙しいときにすまないねぇ。まぁ、座りたまえ。お茶を出させよう」
署長はいかにも警察官然とした大きな体をしており、面構えからも威圧感がある。
署長の促しにより、応接用のソファに腰を掛けた。目の前にお茶が置かれた。
「早速で申し訳ないが君の報告書はこれ以上、上には行かないし表にも出てこない」
そんな!? 自分が体験した、実際に目の前で起こったことが否定されるのか。
署長はそんな表情を読み取ってか話を続ける。
「こんな荒唐無稽な話を誰が信じると思うね? 君も提出するとき、少しは迷っただろう?」
署長の言うとおりだ。自分にも迷いはあった。しかし、無かったことにはできなかった。
「まぁ、ここまではとりあえず言っておかなければならない話なのでね」
署長は口角を片側だけ上げて言った。
「ここからは機密事項だ。今後、上に行くであろう君に知っておいてもらいたい事だ」
今度はいきなり深刻な面持ちで話し始めた。
「知っての通り、今回のような事件は初めてではない。
事件によっては摩訶不思議なことがあり、その摩訶不思議なものに巻き込まれることも少なくない。君のようにね」
署長の言いたいことが分かった。警察もこのような事件を把握しているのだ。公表はできないが……。
「このことは表ざたにはせずに、この報告書は警視庁のある部屋に保管されることになる。
ただ君が頑張ったことは無駄にはならない。誰かが君の報告書を見て事件を解決するかもしれない」
警視庁のある部屋……。自分の報告が違う人を助けるかもしれない。それだけが救いだ。
「君にはそれだけ伝えておきたかった。とても勇気のいる行動だっただろう、敬意を表するよ」
署長は真剣な眼差しで自分に話しかけてきた。あの人がいたから取れた行動だ、と思った。
「署長、1つだけいいですか。勇気のいる行動と仰いましたが、署長もこのような事件を経験されたのですか?」
自分はどうしても確認しておきたかった。この人は理解している人なのか。
「あるよ。2回だがね。結局、ある人に助けてもらって、見ていただけのようなものだが」
やはり署長もなのか。だからこの話をしてくれた。合点のいった自分は続けた。
「ある人とは?」
「1つだけではないのかい? まあ、いい。引退した…でも、ご存命だよ」
柔らかい顔で署長は言った。おそらく、悪い意味での引退ではなさそうだ。
「そうだ。これを君に見せておくのを忘れていたよ」
署長は慌てるでもなく、ゆったりとした動きで机から封筒を取りだし、目の前に差し出してきた。
「これも機密事項になるが、君の協力者にも見てもらいなさい」
取り出すと、男が望遠レンズのカメラから取られたのか、少し遠いが写っている。
「見せ終わったら返しに来たまえ。おそらく、そいつがこの街に来ていたと思われる」
封筒を片手に署長室を後にする。
これがなんなのかを確認する為に、守屋に電話を掛ける。
・ ・ ・
祐はプレシャス・タイムでコーヒータイムを満喫していた。
「正に大切な時間だ。この爽やかな苦味が俺の心の毒を洗い流してくれる」
大げさに言ったが、半分は本当だ。昨日の疲れからかハイになっているのか?
「仰々しいお褒めの言葉、ありがとうございます。なんや悪いもんでも食うたんか?」
三善とのいつも通りのやり取りだ。ただ、上手い返しが出てこない。疲れているのか?
「珍しい。何も返してこんと、わいがすべったみたいやんか。何かあったんか?」
三善ならどう思うか聞きたくなって、今回の事件のこと、睾丸から生まれた怪異もどきのことを話した。
「ん~…、すまん。わからん」
三善の返答はもっともなものだった。真剣に聞いてくれただけで嬉しい。
「ま、分からんもんは仕方があらへん。とりあえず、ゆっくりして英気を養わんとな」
明るい口調で励ましてくれた。この辺の気配りが上手だ。
そんな時に携帯が鳴った。神尾 誠治の名前が表示されていた。
電話に出ると、今から会えないかと、聞かれた。
その問いに了承し、事務所下の喫茶店にいることを伝えた。
ほどなくして神尾が店に入ってきた。
「いらしゃいませ」「いらっしゃいませぇ~」
三善と円が客の迎え入れる言葉を伝えた。
神尾は俺の横に座ると、この方と同じものを、と素早く注文した。
「そんなに急いで注文しなくても。ここの店の飲み物はどれもオススメですよ」
その言葉に反応せず、神尾は封筒から数枚の写真を取り出した。
「守屋さん、この人物に見覚えがありませんか?」
渡された写真を見てみる。写真を見る手が止まった。
英国紳士のような出で立ちだが、その顔は髑髏である。
「神尾さん……。これをどこで手に入れたんですか?」
神尾は口をつぐんだままだ。言えないと言うことは極秘なのだろう。
コーヒーを持ってきた三善も写真を横目で見て、その手が止まった。
「何で、こいつが……。どこかで見たんか!? 何でこいつの写真があるんや!?」
三善らしからぬ慌てようだ。俺も言葉が出ない。
「守屋さん、申し訳ありません。私からお話ができないのに、質問をしてしまい。ですが、知りたいのです。今回の事件と関係があるんですか?」
「知ってることは少ないですが、お教えします。この男は…、いえ、この者を私達の間では『スカルフェイス』と呼んでおります。」
神尾が写真を見ながら、その名を口にする。俺は話を続けるとする。
「『スカルフェイス』は怪異ではありません。むしろ私に近い存在と言えます」
神尾が顔を上げて、俺を見てくる。俺は更に話を続ける。
「闇に堕ちた、もしくは闇の中で暮らすことを選んだ人間なのです。そして、私の力も闇に近い所があります。闇にいるか、近い場所にいるかの違いです」
「守屋さんも…闇に堕ちれば、こうなると言うことですか? 写真からでも分かる、この禍々しい人物のように……」
そうかもしれない。堕ちたくはないが、こればかりは何とも……。
「んなわけぇあるか!こいつが闇堕ち!? こんなアホで真面目で優しい男が堕ちるか、ダアホ!!」
三善が声を荒げたのを久しぶりに聞いた。そんな風に思ってくれていたことが素直に嬉しかった。
「それに、もしこいつが闇堕ちしたとしてもや、部屋に籠ってオタクなアニメを見て萌え萌え言うぐらいしかできん!」
よし、前言撤回。やっぱり俺のことで遊んでやがる。
「そうですね。守屋さんみたいな方が、闇に堕ちるなんてあり得ないですよね……」
神尾は顔を引き締めてそう言った。
話が逸れてしまった。咳払いをして、話を元に戻す。
「『スカルフェイス』現るところ、怪異あり。と言われるほどで、今回の事件もヤツの仕業でしょう」
そうとしか言えない。ヤツにしか、あんなことはできない。
「しかし、守屋さんは怪異ではないと仰いませんでしたか?」
そう。神尾の言う通り、怪異ではない。また別の何かだ。
「おそらくですが、怪異を作成しようとしたが、失敗したものがヤツなのかもしれません」
怪異を作り出す、人と共に存在してきたモノを、自分の手で新たに創造する。
『スカルフェイス』の考えそうなことだ。
「もし『スカルフェイス』を見かけたとしても、近づかないでください。おそらく死にます」
この言葉に動じない神尾は肝が据わっている。だからこそ、怖いのだ。
神尾は質問攻めしたことを何度も謝り、三善にも謝って、店を出て行った。
「まじめな人やなぁ。あら、損するでぇ、お前のように」
痛いところを突かれた。大変になりそうなのが目に見える。ふと、思いだした。
「なぁ、三善。ちょっと前まで、街で不快な感じがしたり、苛立った気にならなかったか?」
三善に質問すると、ちょっと驚いた顔をして、三善はすぐに真面目な顔をした。
「お前も感じ取ったんか…。わいの勘違いやなかったんやなぁ。この街に、わいらの近くにおったんやな……」
三善の顔は真面目なままだった。コーヒーを飲み干し、店を後にした。
事務所に戻ると、当たり前の光景が広がっていた。
「おかえりなさぁ~い。仕事の電話はなかったですよぉ。」
寝転がって読書している幸から、とりあえず報告を受けた。
お礼の代わりに、無言でココアを差し出す。
「どうしたんですかぁ? なにか良いことがあったんですかぁ?」
仕事終わりでもないのに、差し入れがあったことに幸は驚いてるようだった。
椅子に座って一息ついてから、幸に話した。
「良いことがあって、悪いことがあって、嫌なことが去ったからかな」
何とも言えない顔をした幸はココアを飲み始めた。
「そうなんですねぇ……」
幸の生返事から自分でも理解できない事を言ったことが分かった。