怪異
月が薄い雲に隠れている所為で、夜空はぼんやりと照らされていた。
空と違って俺の前には、大きな純白の羽を背に持つ女性が、眩い光を放っている。
山の中にある朽ちたラブホテルの駐車場が、かつてのネオン以上の光に照らされているのではないだろうか。
「あなたは何者ですか? 何故、邪魔をするのですか?」
変なことを考えていた所為か、ハッとしてしまった。
柔らかな長いブロンド髪に、オフホワイトのワンピースと来たら天使その者だ。
ただ、可愛らしい声ではなく、やや荘厳な響きなところが残念に思う。
しかし、これだけ眩しいと真っ黒いスーツを着ている俺は死神に見えそうだ。
気を取り直して、天使を鋭く見つめる。
「何者かって、自分から言うべきじゃないのか? まあ、いいや。俺は『守屋 祐』。そっちはどちら様で?」
「天の使いです。今一度、聞きます。何故、邪魔をするのですか?」
まあ、見たまんまの答えをされてしまった。
「何故って、そりゃあ、お前がこの子に酷い事をさせようとしたからだよ」
「お黙りなさい。あれは通過儀礼なのです。あの子は世界を救う子なのです!」
天使は俺を通り越して、後ろにいる少年に指をさした。
その指に従って振り返ると、高校生の少年が学生服のまま、挙動不審気味に俺と天使を交互に見ている。
「あの子が救うってのか? 何からだよ?」
「最終戦争です。あの子なしでは世界は救えません。分かりましたか? あなたは邪魔者なのです。さっさとこの場から消えなさい」
最終戦争か。黙示録やら、ヨハネの四騎士やら、その手の類は楽しいな。事実、俺も嫌いじゃない。
「消えるか……。良いね、良い案だと思うぜ。ただし、あんたがな……」
そう言い放つと、天使の表情が苦々しいものへと変わった。
天使でその表情ってどうよ。と、言いたい気持ちは飲み込んだ。
「どこまでも邪魔をするということですか……。良いでしょう。さぁ、少年よ。分かりますね? あなたのすべきことが何かを」
天使は手を少年に差し伸べ、猫なで声のように甘く誘惑している。この声を聞かされてしまえば……。
振り返ると少年の目は完全に天使に奪われている。さっきまでのオドオドとした表情はどこにも見当たらない。
「待て! ヤツの言うことを信じてはダメだ! ヤツは君に罪を犯させようとしているんだ!」
「さぁ! おやりなさい! あなたは選ばれた運命の子なのです!」
「聞くな! やってしまえば後戻りはできなくなるぞ……」
少年に目を向けながら、天使にも目を向ける。
天使の笑顔が歪なものに変わった。まさか!
「ぐうぁぁぁぁぁぁ!」
背中に激しい痛みが走り、天に向かって絶叫した。
・ ・ ・
タイヤがスリップしそうな音を立てながら、山道を高速で走り続けていた。
助手席にいる少年は頭を抱えながら、僕は悪くないと、独り言をひたすら呟いている。
「大丈夫か? 幸い、君は包丁を持って暴れたけど、誰も殺していないし、傷も深くはない。気を持ち直せ」
優しい言葉を掛けながら、バックミラーへしきりに目をやる。できる限り引き離さなければ。
「あ、あの…、誰も?」
震える声で少年は問いかけて来た。まだ、正気は保たれているようだ。
「そう、誰もね。ああ、俺は守屋 祐。何があったか教えてくれないか? お母さんにお願いされた時の話だと、天使がどうとかって聞いたけど?」
「は、はい。一か月前くらいから、天使が度々、俺の前に現れるようになって。最初は愚痴とか不満とか、優しく聞いてくれるだけだったんですけど……」
「で、いつの間にか、人を傷つけろ。って、言われるようになった?」
俺の問いに少年は小さく頷いた。
「そうか……。まず、最初にいうと、そいつは天使じゃない。天使の振りをした悪魔……、でもない」
「えっ? じゃあ、何なんですか?」
「『怪異』だよ。ま、人の心が生み出した悪いヤツ等さ」
軽い口調で少年に返したが、いまいち理解はできていない顔をしている。
視線を前に戻して、車のクラッチを切り替え、山道を蛇行しながら、少年をちらりと見る。
「天使も悪魔も基本的に、俺達の世界には来ない。ヤツ等は化け物以上の力を持っているから、この世で本気でやり合うと世界が壊れる。正に最終戦争さ」
横目で少年を見ると、俺をじっと見ている事から、話を理解しようとしていることが分かったので、そのまま続けることにしよう。
「じゃあ、天使と悪魔は何をしているかっていうと……。俺達の行いによって、天国に行くか、地獄に行くかの綱引きをしている」
「えっ? 綱引きですか?」
「そっ、綱引き。君には見えないけど、天国の綱……というか鎖なんだけど、それは背中から天に伸びてて、地獄は右足首に足枷がついて鎖が地に向かって伸びているんだ」
俺の言葉で少年は目を丸くしている。それはそうだろう。天使と悪魔は知っていても、鎖が伸びているなんて聞いたこともないだろうから。
困惑しているであろう少年に今回の事態を説明する必要がある。
「天国と地獄。そのどちらも善行と悪行によって鎖が太くなって、最後にどっちかに行くことになる。君の場合はそそのかされたとはいえ、悪行となって地獄の鎖が太くなる」
「そんな! じゃあ、僕は地獄に……?」
「いや、そうと決まった訳じゃない。この綱引きは天国に有利なようなんだ。ただ、それなりにって感じだけどね。悪行を重ねれば、やっぱり地獄に堕ちて拷問される」
拷問という単語に少年は体をびくつかせた。
地獄に堕ちる懸念がある少年にとっては嬉しくない話だからな。
話しているとドンドン山深くまで走ってきた。幹線道路沿いだから交通量がまだ多少はあるが、人が少ない所で待ち構えたい。
「ああ、何で有利かって話だけど、天国は自分達の力になる人達を生まれ変わりで減らしてるんだ。これは神のご意志らしいけど、地獄は生まれ変わった人が地獄に来るのを待っている」
「何で、待っているんですか?」
良いことを聞いて来た。この世の見えざる世界について理解しつつある。
「そこがポイントだ。もし、天使が生まれ変わりを放棄してしまえば、残った人々の魂がどちらに傾くか分からない。
地獄にとっては生まれ変わった人が悪の道に染まって、地獄に来てくれた方が都合が良いからね。分が悪い状態で最終戦争になることは避けたいらしい」
「じゃあ、地獄に来る人を増やすために、天国に有利にしているってことですか?」
少年が理解したことを確認するための質問に、前を向いたまま頷く。
「どちらにとっても、今のところはこのバランスを崩したくないらしい。そこでお互いがこの世に来ないように、不可侵条約を結んでいるって感じさ」
ダラダラと喋っていると右手に廃墟とかしたラブホテルが見えた。
ここなら待ち受ける場所としては悪くないだろう。車のスピードを緩めて、駐車場への入り口を塞ぐ鉄柵の前に車を止める。
車を降りる前に、もう一言、いわなければならない。
「ポイントを整理しよう。まず、天使は基本、この世界に現れない。ヤツは『怪異』だ。ヤツの言葉に惑わされてはダメだ。
そして、君は罪を犯したけど、天国に行ける可能性は十二分にある。諦めてはいけない。分かった?」
「はい……。分かりました……」
「OKだ。気をしっかり持てよ。じゃあ、偽物を拝みに行くとしますかね」
・ ・ ・
「うぐぁぁあぁぁあぁぁぁ!」
背中に走る激痛はおそらく……。
首だけ動かすと少年の手に、真っ赤な血がこびりついた包丁が握られていた。
痛みによって体の力が奪われ、地に顔から崩れ落ち、背中から流れる血液の温もりを感じた。
突如、高らかな笑い声が響き、楽しそうな拍手をする音が聞こえる。
「素晴らしい……。あなたは勇気のある子です。……これであなたは罪から逃れられませんよ」
天使が非情な言葉を少年に投げかけた。
その言葉に少年は我を取り戻したのか、包丁を落とした音が空しく響いた。
「そ、そんな……。罪って…、罪って、どういうことだよ!? 俺は言われた通りにしたじゃないか!」
「ええ、言われた通りにしましたね」
「それなら、罪じゃない……」
少年がかぶりを振って、罪の気持ちに押しつぶされそうになっている。
その少年をあざ笑い、天使が放っていた光が消えた。
天使の仮面を剥いだ怪異が現れたのだ。
「ひっ!? ばっ! 化け物!?」
「つれない事を言うなよ……。これからはお前の罪と一緒に俺が付いて回るんだ。仲良くしようぜぇ」
怪異のモザイクがかった声で発した言葉から分かった。おおよそ、推察通りだったが、やつは『指針自死』だ。
人に取り入り、罪を負わせるように誘導し、自死に至るまでの苦痛を食す、外道な怪異だ。
怪異が少年に近づく足音が聞こえる。ここらが頃合いだろう……。
「よいしょっと」
ゆっくりと立ち上がって、服に付いた汚れを悠然と払う。
これぐらいの余裕は見せておかないと。
「んなっ!? お前は刺されたはずじゃ!?」
「簡単には死ねない体でね。ということで、俺は殺されてはいない。この子の罪はそこそこだが、お前が入り込むにはちょっと狭そうだな」
ガリガリに痩せこけた人のような怪異に言う。
怪異は自分のことがバレた為か、狼狽し、体を後ろに引いている。
「てことだ。お前をここで処分する……。『群青百足』」
右の首筋から群青色をした、大きな百足が飛び出す。
これを見て、更に怪異は震えあがっている。
「お、お前はまさか『禍ツ喰らい(まがつくらい)』!?」
「流石は狡猾な怪異だな。それぐらいの知識は持ってたか。んじゃ、さようなら」
言うが早く、群青百足が体を縮めて溜めた力を解き放って飛び掛かると、怪異は悲鳴すら発することなく飲み込まれた。
処分完了である。
・ ・ ・
呆けていた少年を無理やり車に押し込んで、山を下っていく。
「あ、その、体は?」
かなり気にしているのだろう。騙されていたとはいえ、人を刺してそうならない方がおかしい。
「ああ、大丈夫だよ。まあ、色々とあるのさ」
「そうなんですね……。あの、本当にありがとうございました。お陰で誰も……」
「そうだね。誰も…、って、おい。俺は痛かったんだぜ? まあ、この通り元気だけどさ」
少しおどけて少年に返すと、緊張がほぐれたのか少しだけ笑った。
「本当に守屋さんが優しい人で良かったです。最初は……」
「最初は、って何だよ? あれか、顔が怖いとか、冷たそうに見えたとかか?」
「少し怖かったかも」
少年は楽しそうに笑みを浮かべる。
俺の顔もほころび、自然と笑いがこみ上げ、行きと違って帰りの車の中は和やかな空気に包まれた。
この世に潜み人を苦しめた怪異を処分し、人々が営む明るい街を目指してアクセルを踏んだ。