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雨の降る日に

作者: SaLa

「雨の降る日に」改稿版です。

改稿前のものは気が向いたら上げるかもです。

是非、評価、御感想をお願いします。

シュッっと擦ったマッチが赤く炎を帯びる。

シガレットケースから取り出した一本の煙草を咥える。

煌々と燃えるマッチの火が煙草に燃え広がる。

朝から降り続く雨が窓を静かに叩く。

背後でモソモソと人が動く音がする。

「おはよう」と挨拶されたのを聞いた。男は振り向くと曖昧な記憶と現実の中で、彼女に「おはよう」と返した。

何もない空虚な部屋。天井から吊るされた裸電球と黒く変色したフローリング。所々剥がれ落ちている漆喰の壁。彼女が持ち込んだ荷物の類は部屋の隅に積んである。家具といえば、ギシギシと音を立てるベッドと埃をかぶった小さな箪笥だけ。その箪笥上には、写真立てが伏せて置いてある。しかし、それは周りと対比すると明らかに綺麗にされている。装飾品はおろか、家具すら満足に置いていないここで、写真立ては少し異彩を放っている。ベッドから身を起こした彼女はその存在に気づいていないようだが。

一度大きく息を吐く。口から紫煙を吐いて、その煙は窓ガラスに当たって消えた。窓ガラスに映った煙草を咥える自分の姿を見て、男は苦笑した。

あの日は、そう。こんな日だった。

朝から雨が降って薄暗く、静かな日だった。

男はもう一度煙草の煙を吸った。


ジリジリと真夏の太陽が肌を灼く。頭上から降ってくる蝉の声とあいまって俺をげんなりさせる。

だが、目の前を歩く女性にはそれが心地よいのか楽しげに鼻歌を歌って歩いていく。

長く伸ばしたブラウンの髪は腰まで伸びる。その頭には今麦わら帽子が鎮座している。日焼けしていない滑らかな白い肌が太陽の光を反射しているようで眩しく感じる。その白い肌に同化するように白いワンピースが夏の風を受けて靡く。足下は素足にサンダルを履いて夏を満喫しているような格好だ。顔立ちは、大きめの目は髪と同じ茶色に光り、この辺りの人には珍しく小さな鼻と同じくらい小さな口。顎のラインは鋭いわけではなく、性格のように優しい曲線を描く。

綺麗な人だ。俺はそう思ったし、事実綺麗な人だ。

その後ろを歩く俺はといえば、少し癖のある茶髪を短く切って、さほど度の強くない黒いフチの眼鏡をかけている。髭は生来薄く、剃っていれば青くなることもない。カーキ色の長ズボンを穿いて、上は黒いシャツを着ているだけ。おおよそお洒落などからは遠い人種であるので、動きに支障がなければ適当に服を着る。着付けなど考えたこともない。

「アイエル、早く」

彼女が透き通った声で呼ぶ。

「ミセリアが早いんだよ」

俺は文句を言った。

「仕方ないじゃない。遅れたりしたら困っちゃうわよ」

何に遅れると言うのか。いや、そもそも何を目指して歩いているのか。

「ミセリア、どこに向かってるんだ」

クルリと振り向く。長い髪が流れて刹那の美しさを出す。

「何言ってるのよ、学校でしょ」

ああ、そうだった。

ミセリアの家は決して裕福ではない。子供を奴隷商人に売り払うほどの貧乏ではないが、母親と臥せっている祖父、それとミセリアを筆頭にした七人兄弟。母親だけでは生計を立ててはいけないのは当然で、ミセリアは義務教育を首席で修めると、仕事を探したが見つからず、今は学校の講師として生活している。

俺はといえば、ミセリアと同じ学校を出たものの、父親との大喧嘩の末、家を飛び出してのんびりしていた。日雇いの仕事で糊口を凌ぎながら、簡素な部屋で生活をしていた。そんな時に、誰から聞いたかは知らないがミセリアが訪ねてきた。

初めは驚いた。学校一の美人だったミセリアを俺は知っていたが、ミセリアが俺のことを認知しているとは思いもしなかったからだ。

そこでこの講師の仕事をやってくれないかと言われた。曰く、二人単位でないと仕事をさせてもらえないということで、特にやることもない俺は、給金のことや、何をしなければならないかなどを聞くこともなく二つ返事で承諾した。また、なぜ俺のところに来たのかも聞かなかったし、考えもしなかった。

しばらく歩くと活気溢れる商業地区に入る。人の数は居住区とは比べものにならず、人混みをかき分けて進まなければ前に進めないような有様だ。そして、なぜかこの商業地区の真ん中に学校がある。赤煉瓦で出来た校舎は二階建てのものが一つと三階建てのものが二つ。それに加えて広い砂地の運動場が商業地区に異彩を放って佇む。

ミセリアに付いて入っていく校舎は初級棟と呼ばれる初等教育を受ける校舎だ。六つの歳から四年間、十歳になるまでをこの校舎で過ごす。

俺たちは昼からの子供たちの相手をするのが仕事だ。

「先行ってて」

ミセリアの背中に声を掛けると

「遅くならないでよ」

と振り返ることなく奥へと進んで行った。

校舎の外へもう一度出ると、ポケットからシガレットケースとマッチを取り出して、一服。校舎内はもちろん煙草禁止だから、仕事の前に吸っておくのが日課になりつつある。始めのうちは、体に悪いとミセリアに言われたが、最近は理解してくれたらしい。確かにこの歳で煙草を吸う人間はなかなか見ないが、父親との大喧嘩をすれば、煙草くらい吸ってみたくなるもんさ。とは言っても、煙草も酒も嗜む人はなかなかいないのは事実だ。

さて、そろそろ行くか。

中まで赤煉瓦造りの校舎を歩く。階段を一度上って二階の一番奥の教室が職場になる。簡素な教卓の前にミセリアが立ち、その眼前には六かける六の三十六の机が並ぶ。その机に向かって座る九歳の子供たち。

俺たちは基本的に読み書きと計算を教えている。午前中は怖いお婆さんが礼儀作法や道徳についてみっちり教え込んでいるから、昼から俺たちが教室に行くとみんなが笑顔になる。俺もその婆さんに教わったから気持ちがわからなくもない。だからと言って、俺たちの授業を受けないわけではない。やる時はやるとけじめがつけられるのがこの子たちのいいところだ。

やがて始業の鐘が鳴って、授業が始まる。いつもミセリアが授業を進行させて俺はわからなくなった子供に個人個人で教える、というスタイルがたった数日で完成した。と言ってもみんな優秀で、わからないという子はなかなかいないから、俺は基本的に暇だ。それでも同じだけの給金が貰えるのだから、何となく気が引ける。

「はい、ここを読んで。…ネルアちゃん」

指名された子がつっかえながら教科書の文を読んでいるのを後ろから見ていると、俺の前、つまり一番後ろの一番廊下側に座る女の子がニヤリとしながら後ろを向いて、

「ねえねえ、先生はミセリア先生とケッコンするの?」

この頃の子供たちは大概こんな話が大好きだ。

「何言ってんだ。そんなわけないだろう。ほら、きちんと前向いてろ」

注意を促したが、意地悪な笑みのまま、

「だって、いつも一緒にここに来るでしょ。それに、先生が居るときはミセリア先生すっごく楽しそうだもん」

確かに、力仕事とか頼まれると少し授業を抜けるときもあるが、果たして楽しくなさげに授業をするミセリアは居るのだろうか。

「お前なあ、そんなわけないだろう。だいたい-」

「はいそこ。スレハちゃんとアイエル先生。静かにね」

否定し切る前にミセリア当人に遮られてしまった。これはミセリア先生からのお小言の一つや二つは覚悟しなければならない。


「アイエル」

「…はい」

帰路にて。予想通りお小言が始まるようだ。

「貴方は何をしにここに来ているの?立場を弁えた行動が出来ているの?」

ここは黙ってやり過ごそう。それが一番早く切り抜ける方法だ。

「だいたい、アイエルは私がいないとロクに仕事もできない-」

ブツブツ言いながら前を歩くミセリアは、どことなく楽しそうに見えた。これがスレハが言っていた楽しそうなミセリア先生なのか。

夕陽が石畳の続く居住区をオレンジ色に染め上げる。東の空には月が薄っすら浮かびその儚さが美しさをさらに高める。そのオレンジ色の中を歩く男女。言わずもがな俺とミセリア。ぼんやりと考え事をしながら俺は歩く。俺の住まいはもうすぐそこだが、何となく帰る気にならなかった。

「晩飯食べに行かないか。俺が払うから」

調理器具なんてないところに住んでいるので、いつも外で食べるのだが、今日は一人だと寂しい気がして、ミセリアを誘った。

「うーん、それなら一度家に戻ってからでもいい?」

「俺は戻りたくないからな。着いて行っても大丈夫か」

一瞬、表情が固まった気がしたが、

「いいわよ。行きましょ」

俺の住まいを通り越して、十数分。

この辺りはいわゆるところのスラム街。奥へと進むほど程度は悪化していく。そんなスラム街の一番手前にミセリアと家族が住む住居があった。

「…待ってて」

俺が頷くとバラックと言ってもいいほどの小屋に消えていく。なるほど、表情が固まるわけだ。だが、それによってミセリアに対する俺の意識が悪い方へ傾くことは無かった。むしろ、家族のために頑張っているんだな、という意識が強く根を張った。

手持ち無沙汰な時間が少し始まったタイミングで、ミセリアの家から、沢山のチビたちが出てきた。

「あ、いつもお姉ちゃんと居るお兄ちゃんだ!」

わー、と向かってくる六人のチビっ子を相手することにした。ちょうど暇だし。

砂地の地面に棒で絵を描いて遊ぶ。俺は絵が得意ではないから、俺がミセリアの顔を描くと、似てないだのカエルみたいだのと散々言って笑う。俺もつられて笑う。陽が暮れかかって、手元が見えづらくなるまでを子供たちと過ごした。もうお終いにしようか、と言ったとき、ミセリアがようやく出てきた。

「ほら、お母さんが待ってるわよ」

来たときと同じ、わー、という声とともに帰っていく子供たちは俺には見えていなかった。

化粧をしたミセリアを初めて見た。服装は変わらず、上に薄い青色の上着を羽織っただけで、髪はサイドテールで纏めて左肩から前に流している。薄く化粧した顔は、語彙力がないだけかもしれないが、説明できないほど美しかった。何よりも薄く紅の引かれた唇かアイエルの視線を釘付けにした。

ミセリアは少し恥ずかしげに

「…行きましょ」

とだけ言った。

「…あ、ああ」

俺も生返事しかできなかった。


一人だと入れない店に入ってみたかった。それが、食事にミセリアを誘った理由のひとつかもしれない。特に、洒落た店なんかは寂しい男一人では入る気にならない。そんな店に入るのは裕福な家族か、カップルだけだからだ。その点、ミセリアとならば恥ずかしくない。本人は恥ずかしそうにしているが、そこらの金持ちの着飾ったお嬢様より、質素に着こなしたミセリアの方が美しく見える。

「いらっしゃいませ。お二人でよろしいでしょうか?」

「ああ」

「では、こちらへ」

案内された席についた俺にミセリアは不安げな面持ちだ。

「大丈夫なの?こんな高級そうなところに来て」

どうやら俺の懐具合を心配してくれたようだ。

「問題ないよ。最近飯を食べないことが続いてるし、金を貢ぐような女もいないし」

一人で生活をすると、食べない分だけ金が浮くのは嬉しい。朝晩に少し食べれば一日活動できる俺にとって、金は貯まっていく一方だ。それに、それ以外で使う場面もない。

運ばれてくる見た目から高そうな料理を、口に運ぶ。前菜の時点で、俺は満足した。これだけ美味いものを金持ちはいつも食べるのか。向かいに座ったミセリアも、無言で食べる。俺も無言で食べる。静かな時間が流れた。

食後に葡萄酒のグラスを傾けながら、ふとミセリアが零した。

「私ね、あの家に居づらいのよ」

酒が廻ったこともあるのだろうが、初めてミセリアの愚痴を聞いた。

「なんで。いい雰囲気じゃんか」

あのチビっ子たちもミセリアにかなりなついているように見えたが。

「妹たちはいいのよ。お母さんとやり辛くて」

へぇ。女手一つでミセリアを育て上げた母親と。

「というか、私の勝手なんだけどね」

「どういうこと?」

「どうしても私が負担になってる気がしてならないのよ。金銭的な問題じゃないわ。精神的にね。お母さんはいつもと変わらず接してくれるんだけど、それがかえって変な感じがして」

ミセリアの精神が大人になっていく過程で、そう思ったんだろう。俺はそんなこと思う前に家を出てきたからわからないが。

「だからね、今日アイエルが誘ってくれて嬉しかったのよ。あの家にできるだけ長くいたくないのよ」

そのとき、俺も慣れない酒に酔っていたんだろう、とんでもないことを言った。

「だったら、俺のとこに来るか?」

え、と言ってミセリアは少し赤くなった。しかし俺は自分が言ったことの意味をよく理解していなかった。ただ、帰りたくないなら俺のところに来ればいい、というなんとも馬鹿な考えで言ってしまった。

「…いいの?こんな私で」

赤くなったミセリアを見て、さらにその言葉の意味を理解して、初めて俺は自分がとんでもないことを言ったと気づいた。しかし、ミセリアを見ればその気であることは確かだ。仕方ない。

「…ミセリアだからだよ」

そう言って席を立った。俺が平静を装うことができなくなって、赤くなったところを見られたくなかった。

約束通り俺が今回の食事代を全て支払って、いつもとは位置が逆転して、俺が前、ミセリアが後ろの状態で歩いていた。もうとうに陽は暮れ落ち、薄い月光と家々から漏れる明かりで歩く。

黙って歩く雰囲気に耐えられない。しかし、顔を見られない。そこで、聞いてみることにする。

「なあ、なんで俺のとこに仕事を持ってきたんだ?」

後ろを見られないものだから聞いているのかわからない。

しばらくの沈黙が再び二人を支配して、その後、

「…明日、もしかしたら教えてあげるわ」

そう言われれば追及できない。

黙々と歩く男女は、他者から見ればどんな状況に見えるだろうか。さながら別れる寸前の恋人だろうか。

俺がミセリアに対して恋愛感情が無いとは言わないが、それはあくまでも憧れに近いものであり、とてもミセリアを自分のものにしたいとは思わない。だからこそ、俺は家に招いたのであるがこのままでは無事にミセリアに答えを貰えるのか。

家に着くとなぜか気疲れを感じたが、もっと大事なことに気づいた。そうだ。寝る場所が無い。

「…仕方ない。ベッドは使ってもらって構わん。俺は床で寝るよ」

しばらくの間立ち尽くしたミセリアだったが、また赤くなって

「…いいじゃない。アイエルもベッドで寝れば」

アイエルも…?意味を理解するのに少々の時間を要した。

「…何よ。私じゃ嫌なの?」

答えに窮する俺をミセリアは断ろうとする様子に見えたのか、強気の発言で、だんだんと取り返しのつかない方向へ進み始めた。

「…いいだろう。一緒に寝てやる」

ああ。俺よ。何故安い挑発に乗ってしまうのか。


当然、そんな気は無かった。皆無だと言ってもいい。しかし、据え膳食わぬは男の恥とは誰が言ったのか。


照明が落ちた部屋は、柔らかな月光が差し込んで真っ暗ではない。

隣では寝ているのかは定かではないが、ミセリアがベッドにうずくまっている。

不思議だ。全校憧れの的だったミセリア女史と一緒に仕事をして、同じベッドにいるとは。だいたい、まだ仕事を始めて二ヶ月だぞ。

深い溜息をついた。

そんなときだった。

「ねえ、アイエル」

寝ていると思っていたミセリアの声に俺は驚いた。

「ん?」

「アイエルは、私が嫌い?」

ミセリアは何か伝えたいのだろうか?俺は必死にそれを探る。

「なんだよ急に。嫌いだったら一緒に仕事しようとは思わねぇよ」

ミセリアはこちらに背中を向けたまま言葉を発する。

「私ね、ここにいたらだめかな」

思ったより直球な表現だった。

ついさっきまで割れ物注意で傷つけまいと思っていたミセリアを今の言葉で急に傷つけたくなった。

俺はそこで燃え上がった。マッチのように最初は激しく燃えた。

理性の檻は粉々に打ち砕かれ、獰猛な抑えられない本能が体を支配した。

ミセリアを抱き寄せ、顔を見る。その目は何かに耐えかねるように涙が溢れていた。その美しい、目を奪われた唇と俺の唇とが、本来あるべき場所に戻るように重なった。互いに強く体を抱き締め、唇を貪った。衣服はとうの昔に床にはだけられ、一糸纏わぬミセリアの姿は俺をさらに燃え立たせた。毛布を被ったまま肌と肌を摺り合わせ、快楽に溺れた。ミセリアの純潔を奪うことに、躊躇いはなかった。ただ、本能のままにこの美しい女性を我が物にしようと激しくした。

朝日が差すまで時間という概念を忘れるほどに二人とも没頭した。

衣服を整え、乱れた髪に櫛をいれて、心底満足そうな笑顔で扉を開けて帰ったミセリアを見て、俺は激しい自己嫌悪に苛まれた。

「…いくら向こうが求めたからと言っても実際にやってしまってよかったのか…」

だが、あの官能的な快楽を忘れることはできなかった。それはミセリアも同じようで、なんと荷物一式持って、ここに来た。そのときに大急ぎでベッドの手配をしようとしたのだが、

「…いいでしょ。一つあれば」

と言われてしまえば男として反対することは不可能になる。

それからは夢のような日常だった。夜は好きなだけ求め合い、昼まで寝て、それから一緒に仕事に行く。相変わらず子供たちは元気に過ごしていて、それを見るのが変わってしまった自分への慰めになった。

決して、愛しているだの好きだなどと睦言を交わしたことはない。ただ、見えない何かが二人を繋ぎとめているというのは感じていた。それが赤い糸であろうが、蜘蛛の糸であろうが二人には関係なかったが。

不思議なことに、子供は授からなかった。ある意味ではそれで良かったが、寂しい思いをすることもなくはなかった。しかし、こればかりはどうしようもないので、天に委ねるしかなかった。


そんなことが半年ほど続いた。

あの日は秋の長雨の終わりの頃で、そろそろコートを羽織る頃だった。幾日前から体調が良くなかった俺はとうとう熱を出してしまった。相手は子供たちなので、感染したら申し訳ないので、その日ばかりは仕事を休むことにした。あの子供たちのキラキラした目を見られないのと、教壇に立ち立派に授業するミセリアを見ることができないのが残念でならなかった。

昼前、窓の外を見ながら煙草を吹かしていると、ミセリアが

「…アイエルが煙草を吸ってる姿、私は好きよ」

と何処かさみしげな表情で笑って出ていった。

始めてそんな言葉をかけられた俺はただ呆然として煙草を吹かした。

それから少しして、隣のおばさんが駆け込んできた。俺の家からミセリアがいつも出てくるのを知っているので、きっと勘付いたのだろう。

「アイエル君⁉︎商業地区で若い女の先生が馬車に轢かれたって噂よ!ミセリアちゃんじゃないの!?」

その瞬間、病気の身体に無理を利かせて走った。

朝からの雨で視界は煙って、太陽の光も弱く、良好とは言えない。

息を切らせて走っていると、ちょうど家と学校の中間点ほどの場所に人だかりが出来ていた。あそこだ。

「…人違いであってくれ……!」

しかし、そこにあったのは赤く染まったあの日の白いワンピースに身を包んだミセリアで間違いなかった。

憲兵が現場を指揮しているようだが、そんなことは関係なかった。

「……嘘…だろ」

自慢だったがブラウンの髪はサイドテールに纏められたまま、目も開いたまま。その虚ろに何も映さない目は、もはや日の目を見ることはない。

どこまでも美しい彼女をそっと抱いた。その肌は冷たかった。動かない身体、閉じない目、冷たい肌。どこまでも現実は過酷で非情だ。

「…ごめん」

かけるべき言葉はもっと沢山あったのだろうが、それしか言葉にならなかった。朝まで触れ合った肌は、あのときと同じ滑らかさだった。

ただただ抱き締めることしかできなかった。


今思えば、彼女はあのとき既に死を予見していたのかもしれない。だからこそさみしげな笑顔を見せて、初めて俺を褒めた。それに対して俺は彼女に何もしてやれなかった。一緒に死ぬこともできなかった。今もこうして彼女に褒められた煙草を吹かしている。いつ撮ったか忘れた写真もずっと傍にある。彼女は俺の全てだった。良くも悪くもそうだったと思う。ただ、あのとき食事に誘っていなかったら今でも一緒に学校に行っていたかもしれない。

煙草の最後の灰が崩れた。

長い夢だった気がしたが、煙草一本吸い終わる時間のことだったらしい。

ようやく衣服を着たベッド上の彼女に、「愛してるよ」と言って見せた。

ベッド上の彼女の面影には、ミセリアの影がちらついた。

俺は、現実と夢の区別がつかない自分に苦笑すると、煙草を灰皿に押し潰した。

俺の名を呼んだ彼女の唇にそっと唇をつけた。

ああ、俺はこれが言いたかっただけなのか。ようやく見つけたその言葉を彼女にそっと告げる。


「さようなら。愛していたよ」


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[良い点] ストーリーとしてはとても面白かったです!! 状況説明も短く飽きることがない。主人公を有頂天にしてからどん底に突き落とす。文章量がもうちょっとあって感情移入ができてれば確実に泣いたという自信…
[一言] 私はこの作品が好きです。率直に言って。 表現もとても豊かで、世界観もわかりやすく、キャラクターもどのような人物なのかきちんと理解できました。 これからもその表現力の豊かさによって生まれる…
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