アルトゥルと奈美
「……奈美? 何やってんだ?」
校舎の玄関入ってアルトゥルの下駄箱前で。
糸矢奈美が、胸に手をあてて、深呼吸をくりかえしていた。
声をかけられてびっくりした奈美は、
「あっ、……アルトゥルくん」
アルトゥルの姿を見るや顔を赤くして、「へへへ」と笑って挙動不審を誤摩化すそぶり。
新しく仕立てた軍学校の制服が、やや大きくて、制服に着られている感じだ。素朴な白のブラウスに紺色の上着と紺色のタイトスカートで、上着の左脇からタイトスカートの左裾までには縦に一筋、紅色のラインが入っている。
胸元には名札と一緒にピンク色のナースウォッチがぶら下がっており、奈美の足下には大きなダレスバッグがあった。
「その呼び方さ、どうもしっくりこないからアルでいい。みんなそう呼ぶし」
「う、うん。……アルくんって呼ぶね」
言って、奈美は恥ずかしそうに顔を伏せる。
肩につくまで伸びた髪を後ろでひとつに束ねていて、目もとのやわらかな、血色の良い、人懐こい顔をホクホクにして唇を結んだ。
片手に持った雑誌を筒状にまるめると、華奢な体をモジモジさせながら、
「あのね、明日から医学科の研修で、AO区を3日間離れるの」
「ふーん……医者のたまごも結構キツいんだな。で?」
「そ、それでね。シーフードがおいしいって評判のお店を見つけて、行こうとおもうの」
奈美は頭から湯気が上がるくらい顔を真っ赤にさせて、
「このタウン情報誌にある……うーんと、ココにしようって」
広げてみせた雑誌には赤ペンで、シーフード店と周辺マップが印つけてある。
そこを指で押しあててしめすと、アルトゥルに見えるようグッと前に突きだし、
「今日のお昼ご飯はココに決めたの!」
「へえ、そうか。本当にウマかったら知らせてくれよな」
興味もなさそうに、アルトゥルは上履きに履き替える。
「うん! 知らせ……ううん、ちがうの!」
ぶるぶると首を横に振って奈美は、
「一緒にたべに行かない? 行こう? さそいに来たの!」
「誰を? え、俺を? いや、俺は予定あるしさ。友だちと行ったらいいとおもうぜ?」
「あぅー…………」
奈美は熱気球が萎むようにしょんぼりと小さくなった。
「……予定って、もしかしてアンヌさん?」
肩を落としてたずねる。
アンヌ。アルトゥルのひとつ年下の彼女。
彼女という事はジェシカにしかばれておらず、奈美は2人が付き合っていることを知らない。
「アンヌさんと昼食の予定……?」
「そうだけど」
と言ってアルトゥルは、ガッカリした様子の奈美を心苦しくおもい、
「よかったら一緒にたべるか……3人で昼食」
「それは……嬉しいけど……」
奈美がふと視線を下に向け、言い淀む。
奈美とアルトゥルが出会ったのは軍学校に入校して間もない頃だ。
入校して半年間は学力審査のカリキュラムが組まれており、新入生は一般教科の講義を受講しなければならない。講義は新入生全員を大教室に入れて行われるのだが、その際、偶然にも席が隣になったのが縁で、奈美とアルトゥルは親しくなったのである。
医師を目指している奈美は、学力審査を終えたのち、医学科へと進路を決めた。
いっぽうアルトゥルは情報科に進んだ。
ここで言う情報科とは、
1、諜報|(敵味方に関する情報収集を行い、情勢を正確に把握する)、
2、謀略|(こちらから情報操作を行い、敵を混乱させる)、
3、防諜|(敵の諜報と謀略から秘密が洩れるのを防ぎ、またこれを利用して、にせの情報を洩らして敵を混乱させる)、
の教育を中心として生徒を育成する。これはつまり、諜報活動を行う情報機関員、いわるゆスパイの育成である。
情報科の生徒は、2年生までは、ほかの学科の生徒と親しく接することができるが、3年生以降は進路を変更しないかぎり、行方知らずとなる。表向きには「学校を辞めた」などとなることが多い。
そのために、アルトゥルとは「もう会えない」と奈美が焦るのも当然であろう。
2年生に進級してから奈美は、軍学校に入校してきたひとつ年下のアンヌに対してモヤモヤした感情を抱くようになり、より一層、アルトゥルを想う気持ちがつよくなった。
「奈美? どうした?」
「えっ、ううん」
奈美は伏し目がちにはなす。
「3人で昼食は……ちょっと。アンヌさん、わたしのこと避けてるみたい。きらいなのかな」
「奈美がきらい? アンヌが? さぁ……そんなふうには見えないけど」
「何となくそうおもう……気のせい、かな……?」
「気のせいじゃないか? 奈美の悪口をきいた覚えないしさ」
「そうだと良いけど……でも、うん!」
奈美は手に持った雑誌をクルクル筒状にまるめ、
「お昼ご飯は2人でたべたらいいよ、シーフードのおいしいお店は今度一緒に行ってくれる? 行こう? 研修から帰って来たら、だめ?」
「ああ、予定あけておく。そんときにはアンヌの体調も良くなってるだろうし」
「風邪……だったよね?」
「夏風邪。見舞いに行ったけどこじらせると大変だな。ここ最近は煮潰した豆しかたべてない。それでも講義に出ないと成績にひびくとか、」
言いかけてアルトゥルはふと気がついた。
「医者のたまごならアンヌの病態を診てくれよ。診察料タダで」
「え? わたしなんか、ははは……」
奈美は苦笑した。
アルトゥルに期待される反面、患者はアンヌ。
やるせないおもいがあった。
「ちゃんと病院で診てもらったほうがいいよ」
言いつつ奈美は胸元のナースウォッチに目をやって、
「時間取らせちゃってゴメンね。アンヌさんにお大事にって」
「ああ。研修、頑張ってこいよ」
またな、とアルトゥルはアンヌが講義を受けている教室へ足を向ける。
「うん! 行ってきます!」
と、奈美は力つよく微笑んで手をふった。
そして、「ふんす!」と掛け声を発し、足下にある大きなダレスバッグを持った。
教科書や医療道具が詰め込んであるのか重そうだ。
ダレスバッグを両手で持って玄関を出る。
と、数歩あるたところで奈美は、なにげなく、いま居た玄関のほうへ向き直った。
玄関は昼食を外でする学生たちで混雑している。
その中に、アルトゥルの姿はない。
「……」
奈美は、胸騒ぎをおぼえた。
これがアルトゥルを想う気持ちなのか、あるいはアンヌに対しての嫉妬なのか、それとも何か別なところに原因があるのか――ただ漠然と、いやな感じがした。