罪
次で終わろう。
今日中に終わらせよう。
窓の外を覗くと何時ものように黒塗りの車が停まっていた。
あれから、数日が経ち、自分への監視の目が露骨になってきた。
「まいったな~」
口をつく言葉は決まって同じ言葉だった。
しかし、引越しの準備も終わり、家具などは既に搬送済み、残りは生活家電だけだが、実家に帰れば必要の無いものばかりである。
後は、身一つで実家へと帰れば良いのだが、田沼の監視が露骨になった事で、帰りたくても帰る事が出来なかった。
ベッドに横になりながら、ただ考えることしか出来ない時間が続く。
目をつぶり、田沼の目的について考えてみる。
政治家に免罪符を使用すると言うことは、政治家に強いコネがないと無理じゃないのだろうか?
いったい田沼は何者なのだろうかと言う疑問が残る。
以前田沼からもらった名刺を財布から取り出しAUA株式会社 取締役 田沼 亜心と書いてある名刺の社名を携帯のインターネットで検索して見るとオーストリアの木材を中心に作成された雑貨などの輸入業者で、メインの商品はどうやら、オークやこぶっ材などの木材を使って作られた宝石箱やオルゴールといった高級雑貨だった。ざっと見ただけでも一つ40万を越える値段で一般の人が手に入れるにはとても高い値段設定の雑貨だと言え、富裕層をターゲットにしており、多分業界のコネなどもあるのかもしれない。
お得意様に政治家なんかも存在するのだろう。
でなければ、政治家へのコネを作る事も出来ないだろうし、信用も得られないだろう。
「考えても仕方が無いか。」
結局無駄な考えをぐるぐる繰り返すしかなかった。家から出られないと言うよりは、出るのが怖い、それは外で監視されている黒塗りの車が異様な空気を発しているからで、窓の外を覗くと常に、窓から見える位置に陣取ったその車を確認するたびに恐怖を感じてしまう。
しかし、まったく家から出ないわけにもいかない。
先日受けた検査の結果を聞きに病院へと行かなければならない。そのついでに、移転先の紹介状も貰い、その足で、実家へ帰ろうと思っているので、このままだと、それすら難しい。
ただ、自分がマンションから外へ出て、田沼の部下に捕まると言う事では無いのではないとは思う。
ひたすら、自分の後をついてくるのだろう、もしかしたら、出かけるときに声をかけられ、病院までの送り向かいで車に乗せられ、行動を監視されるのかもしれない。
それはそれで、かなり面倒な状況でもある。
「結果を聞きに行く日って何時だっけ・・・」
独り言でも言わないと、TVもPCも無い部屋の中はとても寂しい空間だった。
唯一の娯楽が携帯電話と言うのもその寂しさを後押ししており暇な時は、携帯電話のワンセグを見ているかゲームサイトへアクセスして、ゲームをしているかの二択しかなかった。
結局どちらも携帯電話オンリーの暇つぶしに、そろそろ飽きた頃、ベッドの上で妄想にふけっていた所だったが、その妄想も飽きてきた。
携帯電話を開きカレンダーを呼び出す。そこには、今日の日付である3月15日のスケジュールが画面いっぱいに表示されていた。そこから4月の予定を表示させ、(病院に結果を聞きに行く)という項目を開く。そこには、(4月5日13時30分診察)と書いてあり、検査まで、まだ10日以上のある事を表していた。
「よし!うだうだ考えていても仕方ない!コンビにでも行くか!」
意を決し外へと出る。
マンションを出て、国道側へ歩き出すと黒塗りの車から人が降りてきて、一人此方の後をつけて来る。
車には、どうやら二人以上居るらしい事が確認できた事を今日の収穫としよう。
などと思いながら、コンビニへと向かう。
店内へ入り、わざと雑誌コーナーで立ち読みをしていると、つけて来た男も店内へ入り雑誌コーナーへと向かってくる。
段々近づいてくる男に緊張を感じながら本へと目を移す。自分の目が泳がないようにドキドキしながら雑誌の一点を見つめ続け相手の行動を伺っていると、すぐ隣に陣取り、適当な雑誌を立ち読みし始めた。
どうやら、此方には話しかけないらしい。あくまでも行動を監視しているだけみたいだった。だが、プレッシャーはひしひしと感じ、常に此方の行動を監視されている状況は、寿命が縮む想いだった。
そんな、状況が何日も続くと、人間は不思議なもので、慣れと言う言葉の偉大さを感じずには居られないほど、気にしなくなり始めていた。
常に着いてくる、男だが、実質被害がまったく無いので、ボディーガードみたいな存在だと自分の中で思い込むようになっていた。
監視の人間もどうやら二人体制らしく、毎回昼になると、どちらかが食事の買出しに出かけ、居なくなる事も解った。
暇な時間を過ごすうちに監視の目をどうやって掻い潜り外へと出るかという計画を考える時間が増えてくる。
時には、行動の一部を試して見たりと、何度か実験も繰り返して行っており、より細かな計画を練る事が出来た。
そして、決行日を4月5日に決め、午前中に決行し、病院へ行き検査結果を聞いてから実家へと帰るという何ともゆるい作戦を考えた。
病院へと一度通う理由としては、居なくなれば先ず駅を押さえられるんじゃ無いかと言う理由、次にまさかこの絶好の機会に病院へと出向き検査結果を聞くような奴が居るわけが無いといった考えの裏をかくという理由もあった。
だが、正直な所は、移転先の紹介状がただ、欲しいだけなのだが、これは理由としていまいち情けないので忘れて欲しい所だ。
計画の内容もいたって単純で、先ず時間は、監視の人間が昼を買出しに行く時間帯に合わせるという事。次に、警察へ電話をし、マンションの前に不審な車が停まっていると通報。そして、警官と話している隙にマンションを出て、病院へと向かうという単純な作戦だった。ただ、マンションから出るときは、目立たない格好をして、誰かと二人で出かける事が出来れば幸いだったのだが、そういう知り合いがまったく居なかった。
今までの人生で仕事中心に生きてきた自分がとても惨めに思える瞬間でもあった。
だが、この計画を失敗するわけには行かなかった。
はっきり言ってしまえば、一度逃げて姿をくらましてしまえば、多分自分の生きているうちには出会うことは無いだろうと思える。
一度の逃亡で半年か一年くらいの時間が稼げればそれでよかった。
実家へ帰り、そこで母と一緒に旅行にでも出かけてしまえば多分旅先で見つかる事も無いだろう。その後、旅先で免罪符を処分して、自分の病状の悪化と共に入院してしまう。
これで、常に人の目の有る状態になり、田沼たちも大胆な行動に移せなくなるだろう。
まったく、自分の寿命の短い事を念頭に置いた作戦なんて悲し過ぎる。
「よし!4月5日午前11時30分に電話をする。
約30分で警官が到着、職務質問中にコートとニット、マスク姿で外出、出来るだけ近くの曲がり角を曲がって相手から見えなくなったら走る。
タクシーを拾ってすぐ病院へ行く」完璧とは言えないが、何とか逃げる事が出来ればいいのだけれども、逃げ切れなければ痛い想いをすることになるはずだ。
4月5日11時30分。
着替えは既に済ませていた。
灰色のPコートの内ポケットには免罪符を入れ、ニットをかぶり、マスクをして準備万端だった。今となっては形見になってしまったが、萩籐冴子のメモをコートのポケットに
仕舞い携帯を開き震える指で110番を押し、通話ボタンを押すと数回のコールで相手が出る。
「何がありましたか?」
開口一番に聞かれた台詞はまったくの無駄が無かった。
「えっと、住んでるマンションの近くに不審な車が停まっているんです」
「今も、同じ場所に停まっていますか?」
「はい」
「どんな車ですか?」
「えっと、黒のセダンです」
「車種は解りますか?」
「はい、たぶんクラウンだと思います」
「最後に、あなたの住所と名前、電話番号を教えてください」
「八重樫楽、住所は、新宿区下落合○―○○―○です」
「ご協力有難うございました」
と言う言葉で通話が終了し、窓の外をチェックする。
腕時計を見ながら、車をチェックしていると、一人が車から降りて昼の買出しに向かう。
数分後に道路の向こう側から警官が自転車をこぎながら此方へ近づいてくる。
それを、確認してマンションの玄関へと向かい、警官が職務質問するまでじっと待っていると、やがて、車の窓をノックした警官が車の中の男に職務質問をし始めた。
今がチャンスとばかりに、マンションの扉を開き、早足にならないよう車に背を向け歩き始め、数メートル先の曲がり角へと向かう。
曲がり角を曲がった後、走り出し近くの国道へと向かう、国道に出るとすぐさま右手を上げ、タクシーを待つと、すぐにタクシーはやって来て病院へと向かう。
ここまで何度か後ろを振り向いたが追っ手は居なかったので、多分成功と言えるだろう。
自分の大胆な行動に心臓を弾ませ、こんな事は二度と御免だと思いながら、タクシーの中から後ろを確認して、田沼の手下の車が居ないかを確認する。
着いて来れないと解ってはいるが、確認しないと気がすまない。何度も後ろを振り向き確認する姿を見てタクシーの運転手は不審に思っただろうか?などと言う疑問は二の次だった。
病院へ到着するとさほど待たずに診察時間になり、診察結果を聞くことが出来た。
結果は、聞かなくても解っていた。日に日に酷くなるせきや眩暈これで、治りかけていますなんて言う医者が居ればヤブという文字を上に頂くだろう。
だから、それ程ショックを受ける事は無かった。そして、移転先の病院の紹介状を書いてもらい会計を済ませ、病院を後にする。
タクシー乗り場でタクシーを拾い
渋谷駅へと向かい山手線で浜松町を目指しモノレールで羽田空港へと向かう。
羽田からJAL1849便16:40発、18:35着、長崎で一泊する。
長崎9:35発、福江空港10:05着。
空港を出ると快晴で気持ちも晴れやかにタクシー乗り場へと向かう。
運転手に目的地を告げ、タクシーの中で流れる外の風景を眺めているうちに、子供の頃良く遊びにいった大瀬崎灯台へと行きたくなった。
「運転手さん、すいませんが大瀬崎灯台へ寄り道してくれますか?」
「わかりました。もしかしてお客さん地元の人ですか?」
「ええ、実家がこの辺ですから、つい懐かしくて・・・」
「そうですか」
タクシーの運転手は、実家がこの辺だと知ると気軽に話しかけ、つい懐かしい地元の話で話題が尽きなかった。
大瀬崎灯台は実家から10キロ程度の場所にあり、実家まで徒歩で一時間程度で着いてしまう場所だった。子供の頃はよく、歩きながら遊びに来た思い出の場所だった。
高校生になると、色気づき、よく大瀬崎灯台は帰宅途中のデートコースだった。
その頃の恋愛は、まだ純粋な恋愛だったと自分の中で和菓子の様な甘い恋愛を思い出しながら萩籐冴子の事を照らし合わせていた。
木々に囲まれ、わずかばかりの階段の手前にその入り口はあった。向こう側から聞こえる波の音を聞きながら都会の記憶で上塗りされ、消えそうな、わずかばかりの記憶をたどりながらその入り口へと入ろうとした時に絶望の様にその声は聞こえてきた。
「八重樫さん勝手にどこかへ行かれては困りますね。まだお返事も聞かせてもらっていませんし、勝手にこんな所まで来られたと言うことは、お返事はNOと言う事でよろしいですか?」
あまりのショックで声も出ず、ただ立ち尽くすばかりだった。だが、田沼はそれが答えとばかりに続きを話し始める。
「もし、お嫌なら此方が用意した人物に権限を譲っていただくと言う提案もしたはずですが?」
それでも、口を開かない自分に田沼も苛立ちを感じながら最終手段を口にする。
「ならば、こちらも強引な手段にでるしかありませんね。」
その一言は死刑宣告に近いような言葉だった。
そして、田沼の薄ら笑いは消え、無表情に一緒についてきた黒瀬と言う男に命令を下す。
「黒瀬、捕まえろ」
「はい」
黒瀬と呼ばれた男はジリジリとお互いの間合いを詰め此方の動きを伺っていた。
有る程度の間合いが詰まったのだろう黒瀬は突然激しく此方へ詰め寄ってコートのポケットに手をかけ、自分へと引き寄せようと力を入れる。そこで、我に返り抵抗を繰り返すと、ポケットはコートから引きちぎられる。ポケットの中には、冴子から貰ったメモ用紙が入っていて、その白い紙は風に流され、どこかの枝に引っかかったのだろう。擦れた音を繰り返しながらその場所にとどまっていた。だが、そんなことを気にしている暇もなく、逃げる先は大瀬崎灯台方向しかなく、走りながら階段を登ってゆく。
辺りは木々のトンネルで薄暗く自分の足元を覆い隠すように段差に躓く、後ろを振り向けば黒瀬が急ぐでもなく薄ら笑いを浮かべゆっくりと追ってくる。それを、必死に走りながら逃げようと足を動かすが、自分の体が思う様に動かなかった。
走るたびに、眩暈、息切れ、吐き気を催しながらも我慢を続け、広く、懐かしい小さい頃、何度も遊んだ大瀬崎灯台が見えてきた。
それでも、懐かしさに足を止める事も出来ず、繰り返し動かす足に目的地を告げ何度も両手を地に着けながら走り続ける。
後ろから、追いかけてくる黒瀬は、此方のペースに合わせ、遊んでいるかのように薄ら笑いを浮かべゆっくりと追いかけてくる。
此方は、走っているのに何故か距離が開くどころか縮まってゆく理不尽な現実に呪いの言葉を吐きたくなるが、今口を開くと出てくるものは言葉ではなく嗚咽になってしまい、必死に口を閉じ、鼻で息をしながら走り抜ける。
ようやく目的の灯台へ到着した頃には、柵に上半身を預け、嗚咽と涙にまみれながらその体力を必死に回復させようと頑張っていた。
だが、現実とは無常に非常だった。
「いい加減諦めてくださいよ。」
突然後ろからは黒瀬ではなく、田沼の声が聞こえてきた。
「そんなに、驚く事でもありませんよ。あなたは、走っていたつもりでしょうが、われわれは、歩いてあなたについて来た程度なのですから」
その現実は、自分の病気の進行が悪化している現実と、寿命も最後の残り火に近い事、そして、その前に自分はそろそろ死を迎えなければならない事を無理やり自覚させられた。
そして、田沼は、ひらひらと白いメモ用紙をちらつかせ、此方に話しかけてくる。
「あなたが持っているそれ、免罪符って言うんですね。免罪符って言うくらいだから、何かの御札かなにかなのかな?まぁ、どんな物かは想像つきましたし、あなたをここで殺してしまっても良いんですけどね」
余りにも、無表情に田沼は懐から拳銃を取り出してくる。そして、メモに目を向けながら、何かしら考える仕草をしていた。
「黒瀬、ちょっとこれを読んでみろ」
田沼は、黒瀬に免罪符の使用説明を書いてあるメモ用紙を黒瀬に手渡し、何かを考えていた。
そして、突然黒瀬が恐怖に満ちた表情になり、「田沼さん・・・何を考えているんですか?」
突然逃げ惑う黒瀬を田沼は容赦なく拳銃で撃ち抜いてしてしまった。
「な、何をしているんですか!あなたは・・・」
突然の出来事に脳がついてゆかず、あっけなく倒れてしまった黒瀬の姿を呆然と眺めながら我を忘れてその場所にただ、立ちすくむだけだった。
「ふむ、なるほど、病気で寿命が短い人間以外にも効果は在るという事が解りました」
「な、でも、彼は免罪符を持っては居なかった」
「そんなのは、簡単な事ですよ。近くに免罪符とやらが有るって事ですよ。その効果範囲と言うものが存在するだけの話ですよ」
その柔軟な発想に驚きながらも、何故ここまで簡単に人が殺せるのかと言う疑問が生まれる。
「何故、あなたはそこまで免罪符にこだわるんですか?」
「?そんな事、貴方に関係のある事なのですか?まぁー良いですけど、死ぬ前に少し昔話をしてあげましょうか。
私の家は母子家庭で、凄い貧乏でしてね。その日食べるお米にすら困っていたくらいでした。ですが、親戚にその土地の権力者がいましてね、母と私は毎月お金を借りに行ってたんですよ。ですが、まぁ~権力者と言う人間は、自分の利益無しには動かない人間なんですよ。母は何時も地に額をこすり付けながら泥に塗れたお金を必死に集め、その月のお金を手に入れていました。何時も私達のごは、茶碗に半分盛られたご飯で、あの頃はとても惨めな思いをしましたね。いつか大人になって自分も権力を握って仕返ししてやると思いながら、一日を過ごしていましたよ。
そして、私が大学に入学した頃、母が死にましてね、その時、普段顔も見せないような親戚が我が物顔で葬儀を取り仕切って陰口を叩いてる姿を見た時に、他人なんて所詮ゴミみたいな存在だと実感したんですよ。 ゴミ捨てをためらう人が居ますか? 私は、ただゴミ捨てをしてるだけにすぎないんですよ。
その後、大学生になった私は、生活にも余裕が生まれ、その日の食事も困らなくなってきた頃の話ですが、その権力者が、汚職で捕まりましてね。
そこからは、早かったですよ。
その家はどんどん廃れて、そのうち叔父は自殺しちゃいましてね。叔父の息子は、贅沢が忘れられず家の財産を食いつぶし、生活できなくなったので、今では私の所にお金を借りに来てますよ。
笑っちゃいますよね?
あんなに威張り散らしていた親戚があっけなく惨めな人生へと転落してしまったんですよ。私の復讐心はどうすれば良かったんでしょうかね?
それからは、必死に働きましたよ。ですが、表立った権力を握ると転落も早いと親戚が教えてくれましたしね、私は、裏で力を身に付けるために結構危ない事もしましたが、今では、政治家とのコネなんかも結構できましてね、多少なら裏から手を回せば危ない橋も渡れるようになったんですよ。
ですが、より強い力を手に入れるには、貴方の持つその免罪符が必要なんです。今なら、譲っていただけるだけで許して差し上げますがいかがですか?」
完全に、此方の不利な状況に田沼は譲歩を提示し、優越感に浸る。
「貴方には、渡せません」
「おやおや、困りましたね」
そう言って田沼の持つ拳銃がブレる、その銃口からは煙を吐き出し、一瞬風が止み、沈黙だけが辺りを包み込む。
何とか立ち上がっていた自分の足が突然糸が切れたように膝を地面につけ、おもむろに右手は腹部へと移動する。
痛みは無く、ただ違和感だけが自分の体を襲い不安を植えつける。そして、腹部から目の前へと移動された右の手のひらにベットリと付着した赤い液体を見た瞬間その痛みを思い出したかのように激痛が走り出す。
うめく声すら痛みにかき消され、両手を地面に着きながら、涙と唾液を垂れ流し、しばしその痛みに耐え抜く事しか出来なかった。
「どうです?免罪符を渡してくれる気になりましたか?」
遠くのほうで、田沼の声が聞こえてくる。
とてもじゃないが田沼の顔を見上げる事もできず、痛みにうめく事で精一杯だった。
「答えられませんか」
田沼は、ガッカリした声で、言いながらため息をつき、言葉を続ける。
「私としては、貴方が死ぬのを待ってあげたいのですが、そこまで気が長いほうでもないので、そろそろ終わりにしたいのですが」
淡々と話す田沼の声に感情と言うものが存在しないかのようだった。人間の死を物のように扱う田沼はやれやれといった具合にその場にしゃがみ込み、私に話しかける。
「おい、今死ぬか後で死ぬか選べと言ってるんだ。どっちだよ?」
その声は、今まで聞いた事のない田沼の冷酷な部分だった。そして、初めて感情を表に表した声でもあり、何故か田沼と言う人間が始めて人間らしい部分に触れた瞬間にほっとしていた。
そして、一つの思いを思い出していた。
自分でも未練たらしいとは思ってしまう。死ぬ間際に思い出したことが萩籐冴子の言葉だったからだ。
だが、彼女の罪を許すという事は完全に彼女の死を表していた。
死んだ後に、もう一度死んでしまうなんて悲しい事だと思っていたが、しかし、田沼を止めるには、もう、この選択しか残っていなかった。
そして、魔法の言葉を口にする。
「俺は・・・」
「あぁ?なんだ?」
「免罪符に関わった総ての人の罪を許す」
その言葉を聞いた瞬間田沼は、糸が切れたように立ち尽くしていた。
それは、一種の賭けだった。
免罪符と言う存在そのものに関わり異常なまでの後悔と罪の意識を感じている人間は過去に一人は居るはずだと、そして、そういう人間は、免罪符の存在を他者に知られた事を後悔している人間が居るはず、だったら、その人間の罪を許してしまえば、田沼に知られた免罪符の効果や存在を田沼から消す事が出来るのではないだろうかと思いで言ってみた言葉だった。
そして、今の瞬間を逃すわけには行かなかった。
懐から免罪符を取り出し、海へ力いっぱい投げつけた。
幸い、風が見方をしてくれたらしい。海へと投げ込まれた免罪符は風に乗って確実に断崖絶壁の大瀬崎灯台から消えていった。
そこで、祭りの終わりのような寂しさを感じ、目の前が少しずつ暗闇に覆われ、思考だけが動き出す。
回りに何も無く、田沼もどこかへ消え、倒れた黒瀬も見当たらない。
撃たれた腹部の痛みも消え、途切れた息も整い、暗闇の中に呆然と立ちすくむ自分のみがいた。
突然目の前に、一人の人物が現れた。
それは、良く知った人間で、一度しか会っていないのに恋いに焦がれた人物でもあった。
「私の罪を許してくれたのね。有難う」
「俺は、君を完全に殺す道を選んでしまった」
俯く自分に冴子は近寄り頬を触ってくる。
「それは、私が望んだ事なのよ。貴方には辛い役目を押し付けてしまって、ごめんなさい」
「でも、君の死を覚えている人間は居なくなってしまった」
「貴方が覚えていてくれたわ」
「その俺も、今は死んでるんだろ?」
「そうね。でも一瞬でも貴方は世界でただ一人私の事を覚えていてくれた人だわ」
「それは、光栄だ」
「もう一度お礼を言わせて。ありがとう」
「あぁ、君の為になったんだったらいいさ」
「えぇ、これで、私も安心できる」
「なぁ」
「なに?」
「俺、君の事が好きなんだ」
「ふふ、知ってるわ」
「いつ気が付いた?」
「死んでからね」
「ははは、俺も死んでから君に告白してるんだから可笑しくないんじゃない?」
「そうね」
「なぁ」
「なに」
「これから、一緒に暮らさないか?」
「はい」
「あの世が暮らしやすい場所だと良いな」
「そうね。二人で暮らせる場所だったら良いわね」
「じゃ、行こうか」
「はい」
お疲れ様。