第五話
「酷いよ、兄ちゃん。兄ちゃんもグルだったんでしょう?」
目じりに涙を浮かべたその子は、白無垢をきたまま、潤んだ目で俺を見上げていた。
ここは先ほど、花束を投げ捨てて退場したばかりの新婦の控室だ。
結婚式の後、当事者の弟は不機嫌なままで、両親にいたってはうろたえているばかり、相手の両親は「放っておけば良い」と気にも留めていない様子だった。
消去法で俺が様子を見に来ることになったのは、そういうわけだ。
「うーん、結果的にはそうなるのかな。ごめんね?」
弟の幼馴染兼妻予定の子は、隣家の娘だ。
彼女は俺の事を幼いころから「兄ちゃん」と呼び続けてきた。
最初は、単に弟の真似をしただけなのだと思うが、今となっては本当に義理の兄妹。「兄ちゃん」で間違いない。
俺と弟は、かなり年齢が離れた兄弟で、両親もまさか、十五も年が離れた兄弟を計画的につくったわけではないと思う。
そして正直、年の離れた弟の扱いには、多少なりとも困っていた感があった。
あの頃の両親は立ち上げたばかりの会社がとにかく忙しくて、産まれたばかりの子供の面倒にかかりきりになるわけにはいかない状況だった。俺は俺で受験戦争突入時期で、とても産まれたばかりの弟の世話などできる状態ではなかった。
同じころ、隣家に娘が産まれたと聞き、土下座する勢いで世話を頼んだのを、昨日のことのように覚えている。
両親も俺も、挨拶程度の隣人に必死で頭を下げたのだ。
保育園は定員オーバーで拒否された。金があればベビーシッターという手もあっただろうが、あの頃のうちは貧乏だった。
隣家の夫婦は、夫が古武道の道場を開いており、妻が専業主婦という夫婦で、ミルク代とおむつ代の他に多少色をつけた謝礼しかできない悪条件を、笑顔で引受けてくれた。
俺の受験が終われば、俺が弟の世話をする。なるべく早くに引き取って、極力迷惑をかけないようにしよう。
家族の出した結論は、相手側の意向によって却下された。
「困った時はお互い様です。中学生の長男くんに、乳幼児の世話は難しいでしょう。うちには同い年の娘がいる。一人世話するも、二人世話するも変わりません。お気になさらず甘えてください」
隣家のご主人は大層肝の太い人で、ミルク代とおむつ代こそ受け取ってくれたが、それ以外は厚意として色々世話になった。受験前の俺の体調にも気を遣ってくれ、夕食などは俺も、弟と一緒にいただくことが多かった。
そうしてお邪魔するうちに、隣家の奥さんがすることを見よう見まねでやってみて、弟の世話もなんとか形になるようになってきた。
自分たちでちょこまかと動くようになってきた幼児期は、たまに俺が二人の子守をしていた。
「おおきくなったら、うるとらまんになるんだっ!!」
そう言って、拙い武道の型を披露していた彼女を思い出す。
無責任に「おう、頑張れ」と応援してしまったのだが、かなり長い間、その夢に向かった努力していたそうだ。その後、どういう紆余曲折を経たのかわからないが、今は盆栽センターの事務員に落ち着いているそうだ。まあ、ウルトラマンよりはマシだろう。危なくない。
大学進学を機に、俺は遠方に行き、そのまま現地で就職してしまったので、ふれあった時間は少ないほうだと思う。でも、帰省するたびに懐かれた。無愛想な実の弟よりもずっと、彼女のほうが可愛かったのは事実だ。
正直なところ、実の弟は出来が良すぎた。
トンビが鷹を生む、という諺よろしく、うちの両親からこんな頭脳が産まれるはずがないだろう、と思うような優秀さだった。
隣家に甘え、世話を任せきりだったことも、良くなかったのだと思う。
両親にしろ、俺にしろ、弟が成長するにしたがい、なにを考えているのか、どうしたいのか、さっぱりわからなかった。
気付くと、俺達と弟の間には、溝のようなものが出来上がっており、互いに遠慮していることがわかっていながらも、どうすることもできなかった。
その溝を、強引に埋めて繋ぎ渡す役は、いつもこの子がやってくれた。
「進路? 進学希望って言ってましたよ? つーか、奨学金貰えるみたいですね、返さなくてもいいの。聞いてないんですか?」
そうした会話の後、決まって弟を引っ張ってきては、
「ほらっ、自分の口から言いなさいよ。お金出してくれるのは両親なんだから、報告するのは当たり前でしょう? 奨学金がある? ふざけんな、生活費はどうするつもりよ。バイト? 研究バカにバイトする時間なんてあるわけないでしょうっ!」
という感じで、取り繋いでくれたものだ。
本当に隣の一家には感謝している。
この子は一人娘だし、弟がまともに口をきく女性はこの子しか見たことがなかったし、そもそも無表情な弟の顔を見て的確な判断ができる唯一の子だ。弟はきっと、隣家に婿に行くんだろう、と両親ともども勝手に思い込んでいた。
嫁に貰うことにした、と聞いた時には驚いた。
了承済みなのか、と聞けば、隣家の夫婦の了承は得た、という。本人の承諾は? と聞けば、笑うばかりで答えない。
とにかく当日まで他言無用、誰かに言えば、実の両親の会社だろうと、俺の勤務先だろうと、腕によりをかけて潰すと脅された。
俺も妻子持ちの身分なので、そんなことをされてはたまらない。しかも、ただの脅しではなく、弟はやるといえばやる。その力も持っている。身内であるがゆえに厄介だった。
弟が選んだ相手に不服はない。むしろ、大歓迎だ。この子以外の誰が、あの弟と張り合えるというんだ。いや、この子以外だと、こっちが困る。
弟を除く俺達家族は、緊急家族会議の結果、挙式当日まで無言を貫くことに決めた。
招待する親族には、最低限度のことを伝え、根回しには余念なく、今日のこの日を迎えたのだ。
「ご祝儀三万円と高級囲碁セットなら、差引ワリがあうかな」
「何の話?」
「うん、今日のバイト代」
「バイト?」
なんとなく嫌な予感がしたが、聞いてみる。
「今日、これ着て、高砂で和食フルコース食べたら、高級囲碁セットくれるって」
一体、この子になにを言ったんだ、あの弟は。
「……へー、そう……なんだ」
ひきつりそうになる頬を営業で鍛えた筋力で抑え、俺はなにも聞かなかったことにした。