第9話「王太子の選択」
「殿下。お時間をいただけますか」
アルノルトの声は静かだった。
王宮東棟、エーリヒの私室。夜の帳が下りた時刻に、側近が訪れるのは珍しいことではない。だが今夜のアルノルトは、いつもと違っていた。
扉をくぐる足取りに、あの隙のない余裕がない。
黒い髪は丁寧に撫でつけてあるが、目の下に薄い影がある。
エーリヒは長椅子から身を起こした。
「どうした、アルノルト。座りなさい」
「立ったままで失礼いたします」
アルノルトは扉の前に立ったまま、深く一礼した。
それから顔を上げた。
「殿下に、ご報告しなければならないことがございます」
エーリヒはアルノルトの顔を見た。
幼い頃からの馴染みだった。学園に入る前から、初めて「対等に接してくれた」相手として、誰より信頼してきた。
その顔が、今夜は蒼白だった。
「宮内省から、私に対する調査の通達が届きました」
「調査?」
「財務局の徴税記録に関する不正の疑い。文書院の院長が宮内省に報告書を提出し、それに基づく調査です」
エーリヒの表情が固くなった。
「不正の疑いとは、どういうことだ」
アルノルトは一度だけ目を閉じた。
それから、開いた。
「殿下。私は——財務局の徴税記録の原本を、廃棄処理いたしました。経年劣化を装い、焼却に回す手続きを取りました。帳簿の記載額も、原本と異なる数字に書き換えております」
沈黙が落ちた。
蝋燭の炎が揺れている。
エーリヒは動かなかった。
「差額は、ゲルスター家の借財の補填に充てました」
アルノルトの声は淡々としていた。感情を消した、事務的な声だった。
だが、その声が続けた言葉には、別のものが滲んでいた。
「殿下。あれは家門を守るためでした。三代前からの借財で、ゲルスター家はいつ取り潰されてもおかしくない状態でした。殿下にご迷惑はおかけしていません。すべて、私の一存で——」
「迷惑をかけていない?」
エーリヒの声が、アルノルトの言葉を断ち切った。
低い声だった。怒りではなかった。もっと深い場所から出た声だった。
「僕の側近が、僕の名前の隣で、国の金を——」
言葉が途切れた。
エーリヒは長椅子から立ち上がった。
窓辺に歩き、外を見た。
王都の夜。屋根の連なりの向こうに、わずかに灯りが見える。あの灯りの一つ一つの下に、税を納めた民がいる。
その税が、帳簿の上で消えていた。
振り返った。
「アルノルト。文書院に口添えを頼んだな」
「……はい」
「あれは——この件のためか。修復を止めさせたかったのか」
アルノルトは答えなかった。
答えないことが、答えだった。
エーリヒの中で、一つずつ線が繋がっていく。
あの夜——カティアが婚約破棄を告げた夜。アルノルトは「好都合」だと言わなかった。だが、何も動揺しなかった。翌日の予定を読み上げ、それだけで済ませた。
カティアが文書院に行ったと聞いたとき。アルノルトは何も言わなかった。
文書院の予算に口添えを頼まれたとき。「なぜ文書院なのか」と感じた、あの違和感。
すべてが、今夜の告白に繋がっている。
エーリヒは窓辺に立ったまま、アルノルトを見た。
蒼白な顔。だが、目は逸らしていない。
「殿下を裏切ったつもりはございません」
アルノルトの声が、かすかに震えた。初めて聞く震えだった。
「殿下のお立場を汚すようなことは、決して——」
「アルノルト」
エーリヒの声は、穏やかだった。
穏やかで、静かで、そしてこれまでになく明瞭だった。
「君を庇うことは——余の責任を放棄することだ」
アルノルトの目が見開かれた。
エーリヒは「余」と言った。
私室で、幼馴染の前で、公の一人称を使った。
それが何を意味するか、アルノルトには分かった。
「宮内省の調査に、全面的に協力する。君の官職を停止する。これは余の判断だ」
「殿下——」
「父上にも上奏する。側近の監督不行き届きは、余の責任だ。それも含めて」
エーリヒの声は震えなかった。
だが、手が——窓枠を握る手が、白くなっていた。
アルノルトは動かなかった。
数秒の沈黙があった。
蝋燭の炎が、二人の影を壁に落としている。
「……殿下がそうお決めになるのなら」
アルノルトの声から、力が抜けた。
抵抗の気配が消えた。
深く、一礼した。
「長きにわたるご厚情に、感謝申し上げます」
エーリヒは何も言わなかった。
言えなかった。
アルノルトが顔を上げた。
その目に浮かんでいたのは、恨みではなかった。
諦念でもなかった。
信じていた相手に、初めて裁かれた人間の——不思議な安堵のようなものだった。
アルノルトは踵を返し、私室を出ていった。
扉が閉まった。
エーリヒは窓枠から手を離した。
指が痺れていた。
長椅子に戻り、腰を下ろした。
膝の上で手を組み、目を閉じた。
善良だった。優しかった。波風を立てたくなかった。
けれどそのすべてが、見ないことの言い訳になっていた。
カティアを引き止めなかった夜。アルノルトの行動を問わなかった日々。自分で判断することを避け続けた、すべての時間。
その帰結が、今夜だ。
目を開けた。
机の上に便箋と封蝋がある。
エーリヒは椅子に座り、ペンを取った。
国王宛ての上奏書。
側近アルノルト・フォン・ゲルスターの官職停止と、宮内省調査への全面協力。そして——王太子としての監督責任。
ペン先が紙の上を走り始めた。
書く手は、もう震えていなかった。
文書院の修復室。
翌日の午後、ニクラスが訪れた。
閲覧申請書ではなく、口頭での面会だった。
カティアは受付の待合室に出た。
ニクラスは椅子に座らず、立ったままだった。
「知らせがある」
「はい」
「アルノルト・フォン・ゲルスターの官職が停止された。王太子殿下のご判断で、宮内省の正式調査が開始される」
カティアは黙って聞いた。
表情は変わらなかった。
だが、指先が——袖口の中で、微かに動いた。
「監査報告書は上席に提出済みだ。文書院の院長の報告と、私の照合結果が揃って、宮内省が動いた」
ニクラスの声は落ち着いていたが、その目にはここ数日の疲労が滲んでいた。
「……そうですか」
カティアの声は静かだった。
ニクラスは一歩、近づいた。
待合室の小さな卓を挟んで、向かい合っている。
「……終わったな」
呟きだった。独り言のようであり、カティアに向けたものでもあった。
カティアは首を横に振った。
「いいえ。修復はまだ続きます」
ニクラスが目を上げた。
「修復済みの文書の保全と、今後の定期査閲で引き取る文書の処理。院長から新しい課題も出ています。仕事はなくなりません」
ニクラスは一瞬、黙った。
それから、小さく笑った。
社交の微笑みではない。疲労の底から浮かんだ、本当の笑みだった。
「……そうか。そうだな」
カティアは待合室の椅子を示した。
「お座りになりますか。お疲れのようですが」
「いや。今日は報告だけだ」
ニクラスは姿勢を正した。
「また来る」
「閲覧申請書をお持ちにならなくても、よろしいのですか」
「……持ってくるさ。何か理由が要るだろう」
カティアの口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑みと呼ぶには淡いが、無表情ではなかった。
ニクラスはそれを見て、軽く頭を下げ、待合室を出ていった。
カティアは卓の上に手を置いたまま、しばらく動かなかった。
終わった、とニクラスは言った。
自分は、まだ続くと答えた。
どちらも本当だった。
一つの不正は、修復された文書によって明るみに出た。
だが、修復室の作業台はまだそこにある。道具も、薬品も、高い窓からの光も、変わらない。
カティアは待合室を出て、修復室に戻った。
竹のヘラを手に取った。
次の仕事が、待っている。




