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婚約破棄? こっちから願い下げです。やっと自由になれますわ  作者: 月雅


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第8話「蘇る記録」

水音が響いていた。


修復室の作業台の上、水盤に張った水が微かに揺れている。


カティアは麻布を絞り、羊皮紙の裏面に当てた。


ひと月が経っていた。


試用勤務の初日に渡された文書の束。その中で最も損傷が激しかった数枚が、今、目の前にある。


刃物で切断され、薬品で退色させられ、水で偽装された文書。


院長が優先順位の変更を指示してから、カティアはこの数枚に集中してきた。


一枚は三日前に完了した。残る一枚が、最後だった。


高い窓から朝の光が差している。


竹のヘラで、固着した汚れの最後の一片を剥がす。


定着液を筆先に含ませ、残存インクの上に薄く塗る。


滲みかけていた文字の輪郭が、定着液の膜の中で固まっていく。


カティアは息を止めた。


文字が現れた。


薬品で退色させられ、判読不能だったはずの文字が、定着液と洗浄の繰り返しによって、表面に浮かび上がっている。


金額。日付。地名。送金先の名称。


そして——文書の末尾に記された署名と肩書き。


廃棄決裁書だった。


「経年劣化により判読不能。廃棄処理を決裁する」


その下に、財務局文書管理官の署名がある。


カティアはその署名を読んだ。


読んで、目を閉じた。


修復士の職分は、文書を物理的に蘇らせること。内容に踏み込むことではない。


だが、目の前の文字は読めてしまう。


ゲルスター伯爵家への送金を示す徴税記録の原本。そしてその原本を「経年劣化」として廃棄に回した決裁書。両方が同じ人物の署名で結ばれている。


カティアは目を開けた。


修復報告書の用紙を手に取り、鉛筆で記入を始めた。


「損傷原因:人為的切断。薬品による意図的退色。水損偽装を伴う。繊維断面の均一性、退色の化学的パターン、水損の浸透方向の不整合から、自然劣化ではないと判断する」


書き終えて、鉛筆を置いた。


最後の一枚。これで、束のすべての修復が完了した。


カティアは修復済みの文書と修復報告書を揃え、作業台から立ち上がった。


院長室の扉を叩いた。


「入れ」


ヘルムートは机に向かっていた。


カティアは文書と報告書を机の上に置いた。


「最後の一枚の修復が完了いたしました。修復報告書を提出いたします」


ヘルムートは報告書を手に取った。


損傷原因の欄を読み、修復済みの文書に目を移した。


文書の末尾に記された署名を確認し、廃棄決裁書の文面を読んだ。


それから、机の引き出しからこれまでの修復報告書を取り出し、並べた。


カティアが提出してきた報告書のすべてが、同じ分類を示していた。


人為的切断。薬品による意図的退色。水損偽装。


ヘルムートは報告書を机に戻し、腕を組んだ。


長い沈黙があった。


「——ヴァイスフェルト」


「はい」


「お前の仕事は終わった。よくやった」


カティアは頭を下げた。


ヘルムートは立ち上がった。


棚から封筒を一つ取り出し、修復報告書と修復済み文書の写しを封入し始めた。


「人為的に破壊された公文書が複数確認された。院長の報告義務に基づき、宮内省に報告書を提出する」


カティアは黙って聞いていた。


院長の判断だった。報告義務に基づく、制度上の手続き。


ヘルムートは封筒に院長印を押し、封蝋で封をした。


「お前は修復室に戻れ。これから先のことは、儂の仕事だ」


「承知いたしました」


カティアは踵を返しかけた。


「——ヴァイスフェルト」


「はい」


「お前の手がなければ、あの文書は灰になっていた。それだけは覚えておけ」


カティアは深く頭を下げ、院長室を出た。


閲覧室に、ニクラスが来たのはその日の午後だった。


いつも通りの閲覧申請書を提出し、許可証を受け取り、閲覧室の椅子に座った。


カティアは最後に修復が完了した文書を含む、すべての修復済み文書を机の上に並べた。


「本日で、引き取り文書の修復はすべて完了いたしました。こちらが最後の分です」


ニクラスは最後の数枚を手に取った。


手帳を開き、数字を書き留めていく。


ページをめくる手が、途中で止まった。


廃棄決裁書を見ている。


署名と肩書きに目を落とし、数秒間動かなかった。


それから、静かに手帳を閉じた。


「……これで、すべて揃った」


呟きは、カティアに向けられたものだった。


ニクラスは文書を机の上に戻し、椅子から立ち上がった。


カティアと向かい合う。閲覧室は狭く、机を挟んで一歩の距離だった。


「帳簿と原本の不一致リストが完成した。全年度、全徴税区、すべての差異を照合し終えた。廃棄決裁の署名も確認できた」


カティアは黙って聞いていた。


「私はこれを、上席監査官に報告する。正規の監査手続きの範囲内で」


「承知いたしました」


カティアの声は平坦だった。


ニクラスは文書の返却を終え、閲覧室の出口に向かった。


扉の前で、足を止めた。


振り返った。


「ありがとう」


カティアは一瞬、言葉を失った。


職務上の定型句ではなかった。監査に必要な文書を提供してもらったことへの、手続き上の礼でもなかった。


ニクラスの目が、それを伝えていた。


「……修復完了順にご提供しただけです」


答えた声が、自分でも分かるほど柔らかかった。


ニクラスは小さく頷いて、閲覧室を出ていった。


足音が遠ざかった後、カティアは机の上を片づけた。


修復済みの文書を一枚ずつ確認し、棚に戻す。


この手で蘇らせた文書が、一人の人間を追い詰めている。


廃棄決裁書の署名。あの名前の持ち主が、これからどうなるのか。


カティアには分からない。分かる必要もない。


修復士の仕事は、文書を蘇らせること。


それは正しい仕事だ。


破られた紙を元に戻すことが、間違っているはずがない。


その確信は、揺るがなかった。


文書院の正面玄関に、馬車が一台停まった。


午後の遅い時刻だった。


受付の老職員が立ち上がった。


アルノルト・フォン・ゲルスターが、二度目の来訪を告げた。


「院長にお目にかかりたい。至急の用件です」


受付が取り次ぎ、院長室に通された。


ヘルムートは机に向かっていた。封蝋を押した封筒が、机の端に置かれている。


アルノルトはそれを一瞥した。


「院長。単刀直入に申し上げます。現在、文書院が保管している財務局関連の修復済み文書について、閲覧の差し止めをお願いしたい」


「理由を聞こう」


「あれは財務局の内部文書です。管理権限は財務局にあります。外部への閲覧を許可する前に、局内での確認が必要です」


アルノルトの声は穏やかだった。だが、先日の来訪時とは違う。言葉の端に、切迫が滲んでいた。


ヘルムートは腕を組んだまま、アルノルトを見た。


「修復完了文書は文書院の管理下にある。閲覧の許可も差し止めも、院長権限だ。財務局文書管理官の管轄ではない」


「ですが——」


「管轄外だ」


ヘルムートの声に、抑揚はなかった。事実を述べているだけの、平坦な声。


アルノルトの表情が、ほんの一瞬だけ歪んだ。完璧に整えられた慇懃の仮面に、亀裂が走った。


すぐに元に戻った。


「……承知いたしました。院長のご判断を尊重いたします」


立ち上がり、一礼した。


扉に手をかけた。


「なお——」


ヘルムートの声が背中にかかった。


「この面会の内容は、院長業務日誌に記録する。文書管理官から修復済み文書の閲覧差し止め要請があった旨、日時と発言内容を含めて記載する。それが文書院の手続きだ」


アルノルトの手が、扉の取っ手の上で止まった。


記録される。


閲覧の差し止めを要請したという事実が、公的な記録として残る。


数秒の静止の後、アルノルトは振り返らずに扉を開け、院長室を出た。


廊下の足音が、今度は速かった。


ヘルムートは一人になった院長室で、業務日誌を開いた。


日付を記し、面会内容を書き留める。


それから、封蝋の押された封筒を手に取った。


宮内省宛ての報告書。


ヘルムートは封筒を鞄に入れ、立ち上がった。


文書院の正面を出て、宮内省に向かう馬車を呼んだ。


修復士が蘇らせた文書。院長が認定した人為的破壊の記録。そして今日、文書管理官自身が差し止めを要請してきたという事実。


すべてが、一つの封筒の中に収まっている。


馬車が石畳の上を走り始めた。

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