第7話「圧力」
アルノルトは文書院の扉を押した。
午前の早い時刻だった。受付窓口の老職員が顔を上げ、来訪者を認めて姿勢を正した。
「ゲルスター伯爵家のアルノルト様。財務局文書管理官でいらっしゃいますね。どのようなご用件でしょうか」
「院長にお目にかかりたい。古文書の保存方針について、財務局からの照会をお伝えしたく参りました」
声は穏やかだった。慇懃で、隙がなく、感情のこもらない丁寧語。
受付の老職員は院長室に取り次ぎ、しばらくして戻った。
「院長がお会いになるとのことです。こちらへどうぞ」
アルノルトは案内に従い、狭い廊下を奥へ進んだ。蝋燭の灯りが石壁を照らしている。王宮の華美さとは無縁の、薄暗い実務の空間。
院長室の扉が開いていた。
ヘルムートは机に向かったまま、顔を上げなかった。
「かけろ」
アルノルトは椅子に座り、背筋を伸ばした。
ヘルムートがようやく顔を上げた。白髪を短く刈った頭、深い皺、小さく鋭い目。平民出身の院長は、伯爵家の嫡男に対しても院内の作法を崩さなかった。
「用件を聞こう」
「院長。財務局から、古文書の保存方針に関する照会をお持ちしました」
アルノルトは懐から書状を取り出し、机の上に置いた。
「経年劣化により判読不能となった文書の廃棄処理について、効率化のご検討をいただきたく存じます。現在、各省庁の廃棄予定文書が文書院に引き取られる件数が増加しており、保管場所の圧迫が懸念されております」
言葉は整然としていた。業務改善の提案として、一分の隙もない形式を整えている。
ヘルムートは書状に目を通した。
数秒の沈黙の後、書状を机に戻した。
「修復可能な文書は廃棄対象外だ。それは文書院設立以来の原則であり、儂の代で変えるつもりはない」
「もちろん承知しております。ですが、修復の見込みが低い文書については——」
「見込みの判断は院長権限だ。財務局文書管理官の管轄ではない」
ヘルムートの声は平坦だった。怒りもなければ、感情の揺れもない。事実を述べているだけの声だった。
アルノルトの指先が、膝の上でわずかに動いた。
「ご判断は尊重いたします。ただ、一点だけ申し添えますと——文書院の予算審議が近く予定されていると聞き及んでおります。保管効率の改善は、審議の場でも話題になるかもしれません」
暗示だった。
予算を握る財務局の文書管理官が、文書院の予算審議に言及する。直接の脅迫ではない。だが、その意味は明白だった。
ヘルムートは腕を組んだ。
小さな目がアルノルトを見据えている。
「予算の話は予算の場でしろ。この部屋は文書の話をする場所だ」
アルノルトは微笑んだ。感情のこもらない、完璧な微笑みだった。
「失礼いたしました。では、照会の件はご検討いただければ幸いです」
立ち上がり、一礼して院長室を出た。
廊下を歩くアルノルトの足音は静かだった。
修復可能な文書は廃棄対象外。院長はそう言い切った。
つまり——あの文書は、まだ文書院の中にある。
修復されている最中か、あるいは、すでに修復が終わっているか。
廊下の奥から、微かに水の音が聞こえた。修復室の方角だ。
アルノルトは足を止めなかった。
許可証なしに修復室には立ち入れない。それは承知している。
文書院の正面扉を出て、馬車に乗り込んだ。
次の手を打つ必要がある。
王宮の東棟。
その日の午後、アルノルトはエーリヒの私室を訪れた。
「殿下。一つ、お耳に入れておきたいことがございます」
エーリヒは窓辺の長椅子に座っていた。手元の書簡から顔を上げ、アルノルトを見た。
「なんだい」
「文書院の予算審議が近いのですが、院長が保管方針について頑なでして。些細なことではありますが、殿下から文書院の運営について一言お口添えいただければ、審議がより円滑に進むかと存じます」
エーリヒは首を傾げた。
「文書院? なぜ僕がそんなことを」
「王家直轄の機関ですので、殿下のお言葉には重みがございます。院長も王太子殿下のご意向とあれば、柔軟にご対応くださるかと」
アルノルトの説明は、いつも通り丁寧で、いつも通り合理的だった。
エーリヒは頷きかけた。
だが——その手前で、止まった。
「……文書院、か」
呟いて、窓の外を見た。
文書院。カティアが働いている場所だ。
婚約破棄の夜から、三週間以上が過ぎていた。カティアが文書院に正式採用されたと侍従から聞いたのは、少し前のことだ。
あの場所に、カティアがいる。
そして今、アルノルトが、その場所に口添えを求めている。
「アルノルト」
「はい」
「なぜ文書院なんだ。予算審議なら他にもあるだろう。財務局の管轄で処理できることじゃないのか」
エーリヒの問いに、アルノルトは一瞬だけ間を置いた。
ほんの一呼吸。普段の彼であれば、その程度の間は不自然ではない。
だがエーリヒは、その間を感じ取った。
「仰る通り、通常は財務局の範囲で対応できる事案です。ただ、院長が少々——独自の方針をお持ちでして。王家のお立場からのお声がけがあれば、と考えた次第です」
「……そうか」
エーリヒは窓の外に視線を戻した。
頷きはしなかった。否定もしなかった。
「考えておく」
とだけ言った。
アルノルトは一礼して退室した。
扉が閉まった後、エーリヒは長椅子から動かなかった。
アルノルトは有能で、信頼できる側近だ。幼い頃から、そうだった。
だが——文書院に口添えを、という依頼の形が、引っかかっている。
なぜ文書院なのか。
なぜ今なのか。
答えは出なかった。出なかったが、胸の奥に小さな違和感が残った。
虫のようなものだった。取るに足らない、けれど無視できない、微かなざわつき。
文書院の修復室。
カティアが院長室から戻ったのは、夕刻近くだった。
ヘルムートに呼ばれ、修復作業の進捗を報告した帰りだった。
院長の表情がいつもより硬かったことに、気づいていた。
報告を聞く間も、腕を組んだまま、視線が何度か机の上の書状に戻っていた。あの書状が何であるかは、カティアには分からない。
だが、空気が違った。
修復室に戻ると、フランツが作業を終えて道具を片づけていた。
「院長、何か言ってたか」
「修復の優先順位を変更するそうです。損傷の激しい財務文書を先に処理するように、と」
フランツは手を止めた。
「優先順位の変更か。珍しいな、あの人が作業の順番に口を出すのは」
「理由は聞いていません」
「聞かなくていい。院長が決めたなら、そうする。それだけだ」
フランツは道具を棚に戻し、上着を羽織った。帰り支度だった。
扉の前で振り返った。
「お前さん、最近根を詰めすぎだぞ。手、ちゃんと休ませろよ」
「ありがとうございます」
フランツが出ていった後、修復室にはカティアだけが残った。
作業台の上には、まだ修復が終わっていない文書がある。
最も損傷が激しく、最も丁寧に偽装が施された数枚。
院長は、これを先に蘇らせろと言った。
理由は言わなかった。だが、言葉を添えた。
「蘇らせるべき文書を、蘇らせるべき時に蘇らせる。それが修復士だ」
同じ言葉を、以前にも聞いた。試用勤務の初めの頃だ。
あのときは修復士の心構えとして受け取った。
今は——違う響きがある。
誰かがこの文書を消そうとしている。
院長はそれを知っている。知った上で、修復を急がせている。
カティアは竹のヘラを手に取った。
自分の仕事が、誰かに脅かされている。
その認識は、恐怖ではなかった。
静かな怒りだった。
前世の修復室でも、一度だけ似たことがあった。予算削減で保存室が閉鎖されかけたとき、室長が黙って作業を続けていた。抗議もせず、嘆願もせず、ただ手を動かし続けた。
「仕事で示すんだよ」と、あの人は言った。
カティアはヘラを握り直した。
蝋燭の灯りの下で、羊皮紙の表面に向き合う。
損傷の激しい一枚を、慎重に、確実に、蘇らせていく。
窓の外では、日がすっかり落ちていた。




