第6話「数字の穴」
「一つ聞いてもいいか」
ニクラスの声が、閲覧室の静けさを破った。
カティアは修復済みの文書を棚に戻す手を止めた。
閲覧室の窓から午後の光が差している。机の上には、ニクラスが広げた手帳と、修復を終えた羊皮紙が数枚並んでいた。
ニクラスが文書院に通い始めて、数日が経っていた。
毎日、正規の閲覧申請書を提出し、許可証を受け取り、修復が完了した文書を一枚ずつ確認していく。手帳に数字を書き留め、帳簿と照合し、また翌日来る。
その繰り返しだった。
カティアは閲覧室の入口に立ったまま、ニクラスの方を向いた。
「内容についてのお問い合わせでしたら、修復士の職分を超えますが」
「内容の話じゃない」
ニクラスは手帳を閉じた。
椅子に座ったまま、カティアの目を見ている。社交の場で見せる柔らかな微笑みではなかった。財務局の執務室で帳簿に向かっているときと同じ、余分なものを削ぎ落とした目だった。
「この文書群の損傷に、規則性を感じるか」
カティアは一瞬、言葉を選んだ。
損傷パターンについての所見は、修復報告書にすでに記載してある。院長に提出済みの公式な記録だ。
修復士の職務の範囲内で、事実を述べることに問題はない。
「損傷パターンに規則性はあります」
カティアは閲覧室の入口から一歩も動かなかった。
「人為的切断を水損偽装したものが、財務関連の特定年度に集中しています。修復報告書に記載した通りです」
ニクラスの目が、わずかに細くなった。
確信を得た人間の表情だった。
「特定年度に集中、か」
呟いて、手帳を開き直した。何かを書き加えている。
カティアは黙って待った。
ニクラスが手帳から顔を上げたとき、その目にあったのは、確信だけではなかった。
何かを量っている目だった。
カティアに、どこまで話すべきかを。
「ヴァイスフェルト嬢」
「はい」
「私は財務監査官補として、過年度帳簿の照合業務を行っている。その過程で、帳簿と原本の間に系統的な不一致を発見した。君が修復した文書が、その原本にあたる」
カティアは表情を変えなかった。
知っていた。正確には、察していた。ニクラスが毎日通う理由、手帳に書き留める数字の意味、「やはり」という呟き。すべてが一つの線を描いていた。
だが、察していることと、相手の口から聞くことは違う。
「それは——閲覧者の職務上のお話ですね」
「そうだ」
ニクラスは椅子から立ち上がった。
手帳を懐にしまい、机の上の文書をカティアに向けて揃えた。返却の所作だった。
「私は閲覧者として、正規の手続きで文書を読む」
カティアの目を見た。
「君は修復士として、文書を蘇らせる」
一歩、距離が縮まった。閲覧室は狭い。机を挟んで向かい合えば、声を落としても十分に届く。
「それぞれの職務を果たすだけだ。それ以上のことは、誰もしていない」
カティアはその言葉の意味を、正確に理解した。
告発ではない。
通報でもない。
修復士は文書を蘇らせ、損傷原因を記録する。それは義務だ。監査官補は原本と帳簿を照合し、不一致を報告する。それも義務だ。
どちらも、自分の職務を果たしているだけ。
その結果として何が明らかになるかは、職務の帰結であって、意図ではない。
「承知いたしました」
カティアは頷いた。
「わたくしは修復を続けます。修復完了順にご提供する規程は変わりません」
「ありがたい」
ニクラスは軽く頭を下げた。
それから、カティアの手元に視線を落とした。
袖口から覗いた指先。薬品で荒れ、爪の際が赤くなっている。修復士の手だった。
「……手が、荒れている」
「修復士の勲章です」
答えは、考えるより先に口をついて出た。
前世でも同じことを言ったことがある。資料保存室で、同僚に手荒れを指摘されたとき。あのときも同じ言葉で返した。
ニクラスが少し驚いた顔をした。
それから、初めて——社交の作り笑いではない、本当の笑みが浮かんだ。
「勲章か。なるほど」
カティアは自分の口元がわずかに緩んでいることに気づき、意識して引き締めた。
「文書の返却を確認いたします」
机の上の修復済み文書を一枚ずつ確認し、棚に戻す。
ニクラスは閲覧室の出口で待っていた。
「明日も来る」
「閲覧申請書をお忘れなく」
「もちろん」
ニクラスが去った後、カティアは閲覧室の椅子を元の位置に戻した。
机の上を拭き、文書の配置を確認する。
手が動いている間は、考えなくて済む。
だが、手を止めると考えてしまう。
ニクラスが見つけた帳簿との不一致。カティアが記録した人為的切断の痕跡。二つが重なる場所に、何があるのか。
誰かが、財務文書の原本を刃物で切り、水で偽装し、廃棄処理に回した。帳簿の数字を書き換え、差額を消した。
それは——国家への反逆に準じる重罪だ。
そしてその文書を、カティアの手が蘇らせている。
わたくしは告発していない。
ただ破られた紙を元に戻しただけ。
損傷の原因を、所定の分類に従って記録しただけ。
それは修復士の義務であって、それ以上の何かではない。
その認識を、改めて確認した。
確認して——少しだけ、楽になった。
自分の仕事の輪郭が、はっきり見えたからだ。
カティアは修復室に戻った。
作業台の上には、まだ修復が終わっていない文書が残っている。
最も損傷が激しい数枚。刃物の跡が最も深く、偽装が最も丁寧に施されたもの。
誰かが、最も消したかった記録。
竹のヘラを手に取った。
蘇らせるべき文書を、蘇らせるべき時に蘇らせる。
院長の言葉を、繰り返す。
次の一枚に、手を伸ばした。
財務局の執務室。
ニクラスは自席に戻り、手帳を開いた。
帳簿と原本の不一致リスト。
文書院に通い始めてから毎日更新してきた記録が、手帳の半分を埋めている。
特定の年度、特定の徴税区、系統的な差異。
差額の合計は、すでに個人の転記ミスでは説明できない規模に達していた。
そして今日、カティアの所見を聞いた。
人為的切断。水損偽装。特定年度への集中。
修復士の目が捉えた物理的証拠と、監査官補の目が捉えた数字の異常が、同じ方向を指している。
ニクラスは手帳を閉じ、帳簿の背表紙を見た。
廃棄決裁の権限者。アルノルト・フォン・ゲルスター。
王太子の側近であり、財務局の文書管理官。
この男の管轄する文書だけが、系統的に「経年劣化」として廃棄されている。
帳簿の不一致は、廃棄された文書に対応する部分にだけ現れる。
数字は嘘をつかない。
だが、この不一致を表沙汰にすることの意味を、ニクラスは理解していた。
王太子の側近を告発することになる。
伯爵家の嫡男を。王太子が最も信頼する人物を。
政治的な波紋は、監査官補の一存で引き受けられるものではない。
だが——数字の辻褄が合わないものを、放置するわけにはいかない。
それが、自分の仕事だ。
ニクラスは引き出しから新しい用紙を取り出した。
アルノルト管轄文書の監査を、正式な定例業務の範囲内で開始するための起案書。
上席監査官への報告書式に、今日までの照合結果を整理し始めた。
窓の外では、日が傾いている。
ペン先が紙の上を走る音だけが、執務室に響いていた。




