第5話「不発の幕」
婚約破棄の裁可は、三日前に官報に掲載された。
カティアはその事実を、文書院の受付に置かれた官報の写しで知った。 「ヴァイセン王太子殿下とヴァイスフェルト公爵家令嬢カティアの婚約は、双方合意により解消された」——簡潔な一文だった。
正式採用の書類も、同じ日に届いた。 院長の採用決定と宮内省への届出が完了し、進路実習の試用勤務から正式な修復士に切り替わった。
肩書きが一つ消え、一つ増えた。 それだけのことだった。
修復室の作業台に向かう毎日は変わらない。 薬品で荒れた手。高い窓からの光。羊皮紙の匂い。 変わったのは、社交界がざわつき始めたことだ。
フランツが昼の休憩時間に、珍しく口を開いた。
「お前さん、街でずいぶん噂になってるぞ。公爵令嬢が王太子を振って文書院に来たって」
「噂は噂でしょう」
「まあな。だが面倒な客が来なきゃいいがね」
フランツの言葉は、その日の午後に的中した。
受付の老職員が修復室に来たのは、午後の作業が始まって間もなくだった。
「ヴァイスフェルト嬢に面会希望の方がいらしています。メルクーア男爵家のリゼッテ嬢と名乗っておいでです」
カティアの手が止まった。
リゼッテ・フォン・メルクーア。 学園で「聖女のような人柄」と慕われていた、男爵家の令嬢。 そして——ゲームの知識では、ヒロイン。
来たか、と思った。
「待合室にお通ししてください。すぐに参ります」
竹のヘラを作業台に置き、手を麻布で拭いた。 薬品の匂いが染みついた手を、袖口で隠すことはしなかった。
待合室は受付の隣にある小さな部屋だった。 木の椅子が四脚と、小さな卓が一つ。 窓から午後の光が差している。
リゼッテは椅子に座っていた。
栗色の髪を丁寧に編み込み、学園の制服を着ている。 膝の上で両手を握りしめ、顔は青白かった。
カティアが入室すると、リゼッテは立ち上がった。
「カティア様」
声が硬い。 公爵家への敬称は崩していないが、目には敵意と、それを正義だと信じている光があった。
「メルクーア嬢。ご足労いただきましたのね」
カティアは向かいの椅子に座った。 背筋を伸ばし、手を膝の上に揃える。
リゼッテも座り直した。 数秒の沈黙の後、唇を開いた。
「……カティア様。わたし、どうしてもお聞きしたいことがあって参りました」
「どうぞ」
「殿下を——あなたが殿下を苦しめていたのに、自分から逃げるなんて、あんまりではありませんか」
声が震えていた。 怒りと、緊張と、もう一つ——自分が正しいことをしているという確信が、その震えの中に混じっていた。
カティアは口を挟まなかった。
リゼッテは続けた。
「殿下はずっと、政略の婚約に縛られて苦しんでいらしたと聞きました。それなのにあなたは、ご自分の都合で婚約を捨てて、こんなところに——」
「どなたから、お聞きになりましたの」
カティアの問いに、リゼッテの目が泳いだ。
「……それは」
「殿下がそうおっしゃったのですか」
沈黙。
リゼッテの視線が、一瞬だけ右上に逸れた。 記憶を辿っている。 誰の言葉だったかを、今この瞬間に確認しようとしている。
「……アルノルト様が、おっしゃっていました。殿下のお側にいる方が、そう」
その名前が出た瞬間、カティアの中で一つの線が繋がった。
アルノルト・フォン・ゲルスター。 ゲームの知識では、断罪イベントを裏で仕組む人物。 リゼッテを駒として動かし、カティアを公衆の面前で糾弾させる——はずだった。
だが、カティアが先に婚約を破棄した。 断罪の舞台は用意されなかった。
それでもリゼッテは、吹き込まれた言葉を信じたまま、ここに来た。
カティアはリゼッテを見つめた。 悪意のない目だった。 善意で動いている。善意で、誰かの言葉を鵜呑みにして、ここに座っている。
「メルクーア嬢。一つだけ事実を申し上げます」
カティアは声を落とさなかった。穏やかに、しかし明瞭に。
「殿下は、わたくしとの婚約破棄に同意なさいました。『異存なし』と、ご自身のお言葉でおっしゃいました。もしわたくしが殿下を苦しめていたのであれば——殿下はわたくしを引き止めたはずではございませんか」
リゼッテの唇が、わずかに開いた。 言葉が出なかった。
「殿下は引き止めなかった。それが事実です」
カティアは椅子から立ち上がらなかった。 声を荒げることもしなかった。
リゼッテの握りしめた手が、膝の上で白くなっていた。
「でも……でもアルノルト様が……」
その言葉が、二度目に出た。
リゼッテ自身も、気づいたのだろう。 自分の主張の根拠が、すべて一人の人物の言葉に依存していることに。
顔色が変わった。 青白さが、別の種類の蒼さに変わった。
「わたし——わたし、は——」
「メルクーア嬢。わたくしはあなたを責めるつもりはございません」
カティアは静かに言った。
「ですが、お帰りになった方がよろしいかと。ここは職場ですので」
リゼッテは椅子から立ち上がった。 足元がふらついている。 カティアに何かを言おうとして、言葉を見つけられず、小さく頭を下げて待合室を出ていった。
カティアは椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。
疲れていた。 薬品で荒れた手の疲労とは違う、別の種類の消耗だった。
ゲームの中の「ヒロイン」は、聖女のような存在だった。 正義感に満ち、誰かを救おうとする、物語の中心。
けれど現実では、一人の迷っている女の子だった。 信じた相手の言葉を疑うことを知らない、十七歳の。
カティアは立ち上がり、修復室に戻った。
修復室では、フランツが作業台の上を片づけていた。
「……待合室の声、少し聞こえたぞ。大丈夫か」
「ええ。終わりましたから」
フランツはカティアの顔をちらりと見て、それ以上は何も聞かなかった。
「お前さん、思ったより肝が据わってるな」
ぼそりと言って、自分の作業に戻った。
カティアは作業台に座り、竹のヘラを手に取った。
「貴族のお遊び」と言われた初日のことを思い出した。 あのときのフランツの目と、今の目は違っていた。
王宮の東棟。
エーリヒは侍従から、その日の報告を受けていた。
「——官報の掲載から三日が経ちまして、各方面への通達は完了しております。なお、ヴァイスフェルト嬢は王立文書院に正式採用されたとのことです」
エーリヒは窓辺に立ったまま、侍従の言葉を聞いていた。
文書院。 あの夜、カティアが言っていた場所。 文書修復に生涯を捧げたいと、迷いのない目で告げた、あの——。
「……修復士として、か」
「はい。公爵令嬢の官吏就任は異例とのことで、社交界でも話題になっております」
侍従が退室した後、エーリヒは窓の外を見つめた。
自分が何もしなかった婚約者は、自分の力で居場所を見つけた。
引き止めなかった。 引き止める言葉を、持っていなかった。
あの夜から二週間。 その事実は、日を追うごとに重くなっていた。




