第4話「閲覧者」
「修復完了した徴税記録の原本を閲覧したい」
受付窓口の向こうで、青年が一枚の書類を差し出していた。
カティアが修復室から呼ばれたのは、昼を少し過ぎた頃だった。 受付の老職員が廊下の奥まで来て、「閲覧希望者が来ている。修復済み文書の担当者を指名している」と告げた。
修復室を出て受付に向かう。 薬品で荒れた手を袖口で隠す癖が、十日でついていた。
窓口の前に立っていたのは、見覚えのある顔だった。
ニクラス・フォン・レーヴェンシュタイン。 学園時代の同級。侯爵家の嫡男。 卒業式の前に何度か社交の場で言葉を交わした程度の、それだけの面識。
今は財務局の監査官補だと、学園の噂で聞いた記憶がある。
ニクラスもカティアを認めた。 一瞬だけ目を見開き、すぐに柔らかな表情を作った。
「ヴァイスフェルト嬢。お久しぶりです」
軽く頭を下げる。侯爵家から公爵家への礼として、過不足のない角度だった。
「レーヴェンシュタイン様。お久しぶりでございます」
カティアも応じた。 文書院内では職務関係が優先される。 だが、最初の挨拶は身分の礼をとるのが自然だった。
「閲覧をご希望とのことですが、申請書を拝見いたします」
ニクラスが差し出した書類を受け取る。 財務監査官補の職印が押された正規の閲覧申請書。 対象は「財務局廃棄予定リストより文書院に引き取られた徴税記録原本」。
書式に不備はない。
「職務上の閲覧申請ですね。院長の許可証が必要ですが、申請自体は受理できます。少々お待ちください」
カティアは申請書を持って院長室に向かった。
ヘルムートは申請書を一読し、院長印を押した。 「正規の手続きだ。閲覧許可証を発行しろ」とだけ言った。
許可証を持って受付に戻ると、ニクラスは窓口の前で待っていた。 壁に寄りかかることもなく、姿勢を崩さずに立っている。
「許可証が出ました。閲覧室にご案内いたします」
閲覧室は修復室の手前にある小部屋だった。 窓が一つ、机が一つ、椅子が二脚。 カティアは修復済みの文書を棚から取り出し、机の上に並べた。
「現在、修復が完了しているのはこちらの数枚です。修復完了順にお出ししています。残りはまだ作業中ですので、完了次第ご提供いたします」
「特別扱いは不要ということですね」
「修復完了順で提供する規程ですので」
ニクラスは椅子に座り、最初の一枚を手に取った。
カティアは閲覧室の入口に立ったまま、黙って待った。 閲覧者が文書を扱っている間、修復士は同席する義務がある。 原本の取り扱いを監督するためだ。
ニクラスの目が、文書の上を走っていく。 指先で文字を追い、時折止まる。 懐から小さな手帳を取り出し、数字を書き留める。
その動作に迷いがなかった。 何を探しているか、最初から分かっている人間の動きだった。
数枚を確認し終えたところで、ニクラスは手帳を閉じた。
「……やはり」
小さな呟きだった。 独り言のようでもあり、カティアに聞こえることを意識しているようでもあった。
「修復の状態について、何かお気づきの点がございましたら」
カティアは職務上の定型句で応じた。
ニクラスが顔を上げた。 社交的な微笑みとは違う、真剣な目がカティアを見ていた。
「一つ伺ってもよろしいですか。これらの文書の修復は、ヴァイスフェルト嬢が担当されたのですか」
「はい」
「見事な仕事です」
カティアは表情を変えなかった。
「ありがとうございます。修復完了分は以上になります。追加の閲覧をご希望でしたら、次回の修復完了後に改めてご申請ください」
ニクラスは椅子から立ち上がった。
「では、明日また来ます」
「明日は修復完了分の追加はございませんが」
「それでも構いません。進捗を確認したい」
カティアは一瞬、言葉を探した。
なぜ財務監査官補が、この時期に、廃棄処理されたはずの古い徴税記録をこれほど急いで必要とするのか。
問いかけたい気持ちはあった。 だが、修復士の職分は文書の物理的管理であって、閲覧者の目的を詮索することではない。
「承知いたしました。閲覧申請は毎回必要ですので、よろしくお願いいたします」
「もちろん」
ニクラスは許可証を返却し、軽く頭を下げた。
「君の手で蘇った文書を、真っ先に読みたい。それが正直なところです」
去り際に、そう言った。
職務上の発言だった。 監査に必要な原本を、最も早く入手したいという、それだけの意味のはずだった。
なのに、その一言が妙に耳に残った。
カティアは閲覧室の机を片づけながら、修復済みの文書を棚に戻した。
あの人は何を探しているのだろう。
手帳に書き留めていた数字。 文書を読む目の動き。 「やはり」という呟き。
何かを確認しに来た。 そして、確認できた。
修復した文書の内容については、カティアは職務上の守秘義務がある。 だが、修復の過程で文字が読めるようになった以上、内容が目に入らないわけではない。
あれは徴税記録だった。 金額と日付と地名が記された、財務局の公文書。
カティアは修復室に戻り、作業台に座った。
次の文書に手を伸ばす。 まだ修復が終わっていない残りの数枚。 刃物で切断され、水損を偽装された、あの文書たち。
ニクラスが閲覧したのは、修復が完了した分だけだ。 まだ手つかずの——最も損傷が激しく、最も不自然な損傷パターンを持つ文書は、これからだ。
竹のヘラを手に取る。
修復を続けるだけだ。 自分の仕事を、自分のやり方で。
それ以上のことは、考えない。
財務局の執務室。
ニクラスは自席に戻り、手帳を開いた。
文書院で書き留めた数字を、帳簿の数字と並べる。
地方から報告された徴税額。原本に記された金額。中央帳簿に記載された金額。
三つの数字が揃った。
地方報告と原本は一致している。 だが、中央帳簿だけが異なる。
原本の数字が正しいなら、中央帳簿は書き換えられている。 差額は——消えたのではなく、誰かが抜いた。
ニクラスは手帳を閉じ、帳簿の背表紙を指で叩いた。
廃棄決裁の権限を持つ人物。 原本を「経年劣化」として処分に回せる立場。 財務局の文書管理官。
その名前を、ニクラスはすでに知っていた。
アルノルト・フォン・ゲルスター。
王太子の側近。伯爵家の嫡男。学園時代の一年先輩。 有能で隙がなく、誰に対しても丁寧で、そして——財務局内の文書管理権限を持つ男。
ニクラスは椅子の背に体を預けた。
数字は嘘をつかない。 だが、数字だけでは人を追い詰められない。 原本と帳簿の不一致は、まだ始まりにすぎない。
明日も文書院に行く。 修復が完了した文書を、一枚ずつ確認する。 不一致のリストを積み上げる。
それが監査官補の仕事だ。
ニクラスは手帳を執務机の引き出しにしまい、鍵をかけた。
窓の外では、王都の夕暮れが石畳を赤く染めていた。




