第3話「刃の跡」
これは虫の仕業ではない。
カティアは硝子玉を目に当てたまま、作業台の上の羊皮紙を凝視していた。
試用勤務を始めて五日。 修復室の空気にも、薬品の匂いにも、高い窓から差す光の角度にも慣れた。 手は毎晩、定着液で荒れて赤くなる。朝になれば収まるが、指先の感覚が少しずつ変わっている。この世界の薬品は、前世のものとは配合が違う。
それでも手は動く。 五日間で、束の中の七枚を洗浄し終えた。
問題は、残りの数枚だった。
硝子玉越しに見える損傷の輪郭を、カティアは初日から気にしていた。 あの日、「要確認」と記した五枚目と六枚目。 その後、七枚目以降にも同じ特徴が現れた。
水染みの下に隠れた、直線的な切断痕。
虫食いは、繊維に沿って不規則に広がる。 水損は、液体の浸透方向に従って輪郭がぼやける。 火災は、炭化と焦げの境界が明確に出る。
だが、この数枚の損傷は、そのどれとも違っていた。
切断面が滑らかすぎる。 羊皮紙の繊維が、断面で揃っている。 これは刃物だ。 薄い刃で、文字の記された部分だけを正確に切り取っている。
そして切り取った後に、水をかけた。 水損を装うために。 インクを流し、切断痕の輪郭をぼかし、あたかも水害による自然な劣化であるかのように見せかけている。
前世の修復室で、一度だけ見た手口だった。 研修の教材として回覧された、意図的破壊の標本。あのときの指導員は「本物に出会ったら、迷わず記録しろ」と言っていた。
カティアは硝子玉を下ろした。
作業台の上には、損傷の激しい数枚が並んでいる。 どれも財務関連の文書だった。 洗浄の過程で部分的に判読可能になった文面から、徴税記録であることは分かっている。 日付、地名、金額の断片。
内容に踏み込むのは修復士の職分ではない。 修復士の仕事は、文書を物理的に蘇らせること。 そして、修復報告書に損傷の原因を記録すること。
それは義務だ。 修復報告書の必須記載項目。 経年劣化、水損、虫害、火災、人為的破壊——分類は決まっている。
カティアは鉛筆を取った。
修復報告書の所定の欄に、損傷原因を記入する。
「損傷原因:人為的切断の可能性あり。刃物による繊維の断面が均一。切断後に水損を施し、自然劣化への偽装が認められる。該当文書は財務局廃棄予定リストより引き取られた束のうち、五枚目以降の複数枚に共通する特徴」
書き終えて、鉛筆を置いた。
指先が冷たかった。 修復室の気温のせいだと思いたかった。
報告書を持って、院長室に向かった。
ヘルムートは机に向かっていた。 古い革装丁の台帳を開き、何かを照合している。
「院長。修復報告書の提出に参りました」
「置け」
カティアは報告書を机の端に置いた。
ヘルムートは台帳から目を離さず、片手で報告書を引き寄せた。 視線が文面を追う。 損傷原因の欄で、目の動きが止まった。
数秒の沈黙。
ヘルムートは報告書を机に戻し、初めてカティアの顔を見た。
「人為的切断。水損偽装」
「はい。繊維の断面が均一であること、切断部位が文字記載箇所に集中していること、水損の浸透パターンが自然な水害と一致しないことから、そのように判断いたしました」
ヘルムートは腕を組んだ。
深い皺が刻まれた顔に、表情の変化はほとんどない。 だが、目の奥の光が、わずかに鋭くなった。
「——お前の分析に、異論はない」
カティアは黙って頭を下げた。
「修復士の仕事は文書を蘇らせることだ」
ヘルムートは静かに言った。
「報告書は儂が預かる。お前は修復を続けろ」
「承知いたしました」
カティアは踵を返しかけた。
「——待て」
足を止めた。
ヘルムートは机の上の台帳に視線を戻していた。 その台帳の表紙に、「廃棄予定文書引取記録」と書かれているのが見えた。
「蘇らせるべき文書を、蘇らせるべき時に蘇らせる。それが修復士だ。余計なことは考えるな」
「はい」
院長室を出た。
廊下の蝋燭が揺れている。 カティアは壁に手をつかず、背筋を伸ばしたまま修復室に戻った。
報告書は受理された。 「人為的切断——水損偽装を伴う」という記録が、公式の文書として院長の手元に残った。
わたくしは文書を元に戻しているだけ。 損傷の原因を、所定の分類に従って記録しただけ。 それは修復士の義務であって、それ以上の何かではない。
そう自分に言い聞かせた。
けれど、胸の奥がざわついている。
あの文書は財務局の徴税記録だった。 刃物で切り取られていたのは、金額と日付が記された部分だった。 誰かが、特定の数字を消したかった。
それは——どういうことなのか。
考えるな、と院長は言った。 修復を続けろ、と。
カティアは修復室に戻り、作業台に座った。
フランツが黙々と作業を続けている。 カティアもまた、次の一枚を手に取った。
竹のヘラで汚れを剥がす。 麻布で水分を与える。 定着液で残存インクを固定する。
手が動いている間は、余計なことを考えずに済む。
この手は、紙を元に戻すための手だ。 それだけでいい。
今は。
財務局の執務室は、文書院とは対照的に明るかった。
大きな窓から午後の日差しが差し込み、整然と並んだ帳簿の背表紙を照らしている。
ニクラス・フォン・レーヴェンシュタインは、自席の帳簿から目を離さなかった。
財務監査官補として着任して以来、定例業務として割り当てられた過年度帳簿の照合作業。直近五年分の歳入記録と、各地方から報告された徴税額の突合。
地味な作業だった。 数字を並べ、比較し、差異があれば原因を特定する。 新任に与えられる、最も基礎的な仕事。
だが、数字は嘘をつかない。
ニクラスは帳簿の特定のページに付箋を挟んだ。 もう七枚目になる。
特定の年度。特定の徴税区。 地方から報告された徴税額と、中央帳簿に記載された金額が合わない。 差異は一件ごとには小さいが、複数年度にわたって同じ方向にずれている。
転記ミスなら、ずれの方向は無作為になる。 だが、これは系統的だった。 中央帳簿の記載額が、常に地方報告より少ない。
差額は、どこに消えたのか。
原本を確認する必要がある。 帳簿は写しにすぎない。法的証拠力を持つのは、手書きの原本だけだ。
ニクラスは管理台帳を開き、該当する徴税記録の原本の所在を調べた。
欄には一行だけ記されていた。
「経年劣化により廃棄処理済」
ニクラスはその一行を、しばらく見つめていた。
廃棄処理。 原本が存在しないなら、帳簿との照合は不可能になる。 数字の不一致は「転記ミスの可能性」として処理され、それ以上追えない。
——本当にそうだろうか。
ニクラスは管理台帳の廃棄決裁欄に目を移した。 決裁者の署名がある。
財務局文書管理官。
その肩書きの下に記された名前を、ニクラスは知っていた。 学園時代に何度か顔を合わせた、王太子の側近。
ニクラスは帳簿を閉じた。
廃棄処理された文書は、通常は焼却される。 だが、文書院が年に二度、廃棄予定文書を査閲し、引き取ることがあると聞いたことがある。
もし——あの原本が、まだ残っているとしたら。
ニクラスは椅子の背に体を預け、天井を見上げた。
数字の辻褄が合わないものを、放置するわけにはいかない。 それが監査官補の仕事だ。
翌日、文書院への閲覧申請書を起案した。




