第2話「修復室の朝」
羊皮紙の匂いがした。
古い獣脂と、乾いたインクと、微かな黴。 馬車を降りた瞬間、王立文書院の入口から漏れ出すその匂いが、カティアの鼻腔を満たした。
前世の記憶が、一瞬だけ重なる。 大学の地下にあった資料保存室。 あの薄暗い部屋にも、同じ匂いが染みついていた。
文書院の正面は飾り気のない石造りだった。 王宮の華美さとは無縁の、実務のための建物。 重い木扉を押して中に入ると、受付の窓口に初老の男性が座っていた。
「ヴァイスフェルト嬢ですな。院長がお待ちです」
受付を通り、狭い廊下を奥へ進む。 蝋燭の灯りが壁の石を黄色く染めている。 窓が少なく、昼間だというのに薄暗い。
廊下の突き当たりに、院長室の扉があった。
ノックの前に扉が開いた。
「遅い」
白髪を短く刈った男が、腕を組んで立っていた。 ヘルムート・グラーフ。王立文書院院長。 五十八歳の顔には深い皺が刻まれ、目は小さいが鋭い。
カティアは革鞄を持ったまま、頭を下げた。
「本日より試用勤務をさせていただきます、カティア・フォン・ヴァイスフェルトでございます。院長のご指導を仰ぎたく存じます」
「挨拶はいい。手を見せろ」
ヘルムートは前置きを一切省いた。 カティアは鞄を床に置き、両手を差し出した。
院長の視線が、指先を一本ずつなぞるように動いた。 爪の長さ。指の腹の硬さ。関節の柔軟性。
「……道具は持ってきたか」
「はい」
「ついて来い」
院長室を素通りし、さらに奥の廊下へ。 鍵のかかった扉をヘルムートが開錠する。
修復室だった。
窓が一つだけ、高い位置にある。 そこから差し込む自然光が、長い作業台の表面を白く照らしていた。 台の上には修復用の道具が整然と並んでいる。小刀、刷毛、水盤、糊壺、麻糸の束。
部屋の奥に、もう一つ作業台があった。 そちらには中年の男性が座り、羊皮紙に向かって黙々と筆を動かしている。
ヘルムートが顎で示した。
「あれがフランツだ。修復士歴二十年。お前の先輩にあたる」
フランツはちらりと振り向いた。 カティアを見て、それから視線を革鞄に落とし、最後にヘルムートの顔を見た。
「……院長。こちらが例の」
「そうだ」
フランツは筆を置かなかった。 小さく頷いただけで、作業に戻った。
歓迎の言葉はなかった。 カティアはそれを当然のこととして受け止めた。 公爵令嬢が修復室にいること自体が、この人にとっては異物なのだ。
ヘルムートが作業台の端——カティアに割り当てられたらしい場所に、布で包まれた束を置いた。
「課題だ」
布を解くと、損傷した羊皮紙の束が現れた。 十枚ほど。いずれも変色し、端が崩れかけている。
「最近の定期査閲で財務局の廃棄予定リストから引き取った。経年劣化が進んでいるが、修復の可能性を見たい。一枚目から順に状態を確認し、修復計画を立て、取りかかれ」
「承知いたしました」
カティアは革鞄を開いた。
竹製のヘラ。麻布の端切れ。定着液の小瓶。薄い鉛筆。拡大用の硝子玉。 昨日の朝、寮の部屋で確認した道具を、一つずつ作業台に並べる。
ヘルムートはそれを黙って見ていた。
カティアは最初の一枚を手に取った。
硝子玉を目に当て、羊皮紙の表面を観察する。 水染みが広範囲に広がっている。インクは大部分が流れ、判読できる文字は三割程度。端部は虫食いで欠損している。
「……水損と虫害の複合。インクは鉄胆子系」
独り言が出た。前世の専門用語だ。 慌てて口を閉じたが、ヘルムートは何も言わなかった。
カティアは鉛筆で損傷箇所の図を描き始めた。 どこが欠損し、どこが残存し、どこが修復可能か。 図面を作ることで、作業の手順が決まる。
前世で何百回と繰り返した工程だった。 手が覚えている。 紙の繊維の方向を指先で確認し、水盤に少量の水を張り、麻布を浸す。
絞った麻布を羊皮紙の裏面に当て、ゆっくりと水分を含ませる。 乾ききった羊皮紙が、微かに柔らかさを取り戻していく。
竹のヘラで、固着した汚れを慎重に剥がす。 力を入れすぎれば、残ったインクごと表面が剥離する。 力が足りなければ、汚れが残って文字が読めない。
その加減は、言葉では伝えられない。 手で覚えるしかない技術だった。
一枚目の洗浄が終わるまでに、四半刻ほどかかった。
カティアが作業台から顔を上げると、ヘルムートがまだ立っていた。 腕を組んだまま、一歩も動いていない。
「……院長?」
「続けろ」
それだけ言って、ヘルムートは背を向けた。 院長室に戻る直前、廊下の入口で足を止めた。
「——悪くない」
振り返らずに言った。 それきり、足音が遠ざかっていった。
カティアは作業台に向き直った。
悪くない。 前世の上司——資料保存室の室長——も、褒めるときはそう言う人だった。 「悪くないよ」が最上級で、「まあまあ」が合格で、何も言わないのが不合格。
口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
フランツはこちらを見ていなかった。 自分の作業に集中している。 けれど、先ほどまであった空気の硬さが、わずかに薄らいでいる気がした。
技術は嘘をつかない。 手が動く人間を、職人は認めざるを得ない。 それは前世でも、この世界でも同じだった。
カティアは二枚目の羊皮紙を手に取った。
一枚目と同様に、硝子玉で表面を確認する。 水損。虫食い。経年劣化。 廃棄予定リストに載っていたのも頷ける状態だ。
三枚目。四枚目。 損傷の程度はどれも似たようなものだった。
五枚目を手に取ったとき、指先が止まった。
硝子玉を通して見た表面が、それまでの四枚と違っていた。
水染みはある。 だが、その下に——別の損傷が隠れている。
羊皮紙の端部。 虫食いのように見える欠損の輪郭が、不自然に直線的だった。 虫は直線に紙を食わない。
カティアは硝子玉を下ろし、裸眼でもう一度確認した。 それから、また硝子玉を当てた。
六枚目を引き出し、同じ箇所を見た。 ここにも、同じ特徴がある。
虫食いに見せかけた、直線的な切断痕。 その上から水をかけて滲ませ、経年劣化のように見せている。
前世の修復室で、一度だけ似たものを見たことがあった。 意図的に破壊された文書を、自然劣化に偽装したもの。 あれは研修用の教材だったが——。
カティアは五枚目と六枚目を並べて作業台に置いた。
指先が、微かに震えている。 それが疲労によるものなのか、別の何かによるものなのか、今の自分には判断がつかなかった。
作業台の上で、二枚の羊皮紙が薄い光を受けている。 経年劣化にしては、あまりにも揃った損傷パターン。
カティアは鉛筆を取り、損傷図の余白に短く記した。
「要確認」
その二文字だけ書いて、次の一枚に手を伸ばした。
窓の外では、日が傾き始めていた。 修復室には、紙と水と、古いインクの匂いだけが満ちている。
ここが、わたくしの場所になる。
そう思った。




